「オラクル」
頭を撫でられて、オラクルは顔をしかめる。
もう大きくなった、今の自分には必要のないしぐさ。
必要がないのに、そうされると、うれしくなってしまう、自分のこころ。
Episode00-色は匂へと-11
一度、ぎゅ、とオラトリオの胸にしがみついた。小さな自分が、「泣いて」いるときのように。
それから、身を離す。
「時間取らせて悪かった。おまえ、仕事……」
言いかけて、言葉が消える。
自然な流れで下りようとした膝から、下りられない。オラトリオの手が腰にしっかりと回っていて、離さない。
「……」
戸惑って、色が瞬く。
眩しさに、オラトリオは軽く目を眇めた。
「オラクル、呼べよ」
「え?」
眩しそうな表情のまま、オラトリオは言う。
きょとんと見るオラクルに、軽くくちびるを持ち上げて、笑っているような顔をつくった。
「泣きたくなったら、呼べ。来てやるから」
「…」
オラクルの手が、思わず瞼に伸びる。手のひらで瞼を押さえるようにして、それから戸惑う顔でオラトリオを見つめた。
「私は、そんなつもりで」
「どんなつもりだろうといい。俺がいないと泣けないんだろう。だから、呼べ」
「でも」
「でもじゃない」
反論をきっぱりと封じ、オラトリオはオラクルを見つめる。
戸惑いに、色が瞬く相棒。
戸惑い、不安、――期待。
裏切らない。
こころの中で、つぶやく。
もう絶対に、おまえの期待を裏切らない。
裏切らないから――
「……っ」
さらに激しく、オラクルの色が明滅する。
惑乱する表情は、再び手のひらで瞼を覆った。
こころの中でつぶやくことは、相手に秘するためではない。少なくとも、オラクルとオラトリオの場合。
相手のこころに、直接に、もっとも強く訴えかける――そのために、つぶやかれる言葉がある。
「だって、どうして……」
惑乱するオラクルの感情に応じて、空間が歪む。空間統括者であるオラクルの感情の乱れは、そのまま、<ORACLE>の不安定に繋がる。
座っているソファも足をつく床も歪み、撓み、また正を取り戻し、曲がる。
感覚を揺らがせるそれにじっと耐え、オラトリオは頑固にオラクルの腰を抱いていた。
「おまえは<ORACLE>のための守護者だ。<ORATORIO>は、<ORACLE>を守護するためのもの。<私>のために時間を割く謂れはない。おまえの時間も力もこころも、すべては<ORACLE>に」
「俺は『無機物』に身を捧げる趣味はない!」
吐き出されるオラクルの言葉に、オラトリオは怒鳴り返した。その声すら、空間の歪みを受けて、曲がってひび割れる。
それでも構わず、オラトリオはオラクルを見つめ、抱きしめた。
「こころ無き『いれもの』のために、おもい無き『知識』のために、この身をこころを尽くす気はない。俺は痛み、傷み、悼む、そいつのためにこの身を、こころを捧げ、尽くしたいんだ」
吐き出し、オラトリオはオラクルを抱く腕に力をこめる。
「<おまえ>のために、オラクル」
「<ORATORIO>は<ORACLE>のためのものだ」
遠い果てから、<オラクル>の声が応える。
「<ORATORIO>は<ORACLE>のために」
「俺が守るものは、<オラクル>だ!」
オラトリオは叫び返す。抱きしめているのに、遠くにいる存在に。
「<オラクル>のために、俺がいる。<ORACLE>が荒らされれば、<オラクル>が傷つき泣く。だから俺は<ORACLE>を守る。俺が守るのは知識の入れ物ではなく、光掲げて知識を守る管理人、<ORACLE>=<オラクル>=<ORACLE>だ。<おまえ>だ、オラクル!!」
空間が悲鳴を轟かせ、光が割れた。
次の瞬間には、いつもの執務室の光景が戻って来て、空間は静寂と静謐に包まれる。
穏やかで緩やかな、空気。
オラトリオの膝の上のオラクルは、いつもの通り、世間知らずでおっとりとした表情を浮かべていた。
不思議そうに、オラトリオを見つめる。
その瞳には、覚えがあった――初めてオラトリオがダイブインし、出会った日。
握手の手を、弾き返した。酷い言葉とともに。
あのとき、オラクルがどれほどうれしくて、どれほど自分という存在を頼みにしていて、どれほど傷ついていたか――そのすべてに気がつくこともなく、自分のこころにだけかまけて、弾き返した、手。
空白となった手を見つめていた、瞳。
不思議そうで、理解が及んでいない。
なんたる鈍さだ。
舌打ちしたい気分だった自分を、覚えている。
本当に舌打ちすべきだったのは、自分の態度だったのだと、今は思う。起動したてで、未熟で――言い訳のすべてが、赦せない。
その自分を、オラクルはあっさりと赦し、受け入れて、認めた。
「<オラトリオ>は、どうして<私>を選ぶ?」
無邪気な問いに、オラトリオは真摯にオラクルを見つめた。
「俺は、<俺>を求め、欲し、必要とし、頼みとしてくれるもののために、力を奮いたい。<俺>を認め、受け入れ、慰め、共に立ち、歩むもののために、存在を懸けたい。<ORATORIO>は<ORACLE>の守護者だが――<オラトリオ>は、<オラクル>のために」
「…」
無垢な瞳が浮かべる色は、無理解。
構わず、オラトリオは笑った。
「それが、感情ってもんだ。理性とは別のところで存在する。それを与えた以上、俺がただ、<ORACLE>を守護するだけの存在でいられるわけがない。そこに囚われの子供がいるなら、助けたいと願い、力になれないかと模索し、手を差し伸べ、無理ならば共に囚われる。<オラトリオ>とは、そういう存在だ」
ぱたぱたと数瞬、色がまたたき、オラクルはぶすっとした表情を晒した。
「だれが子供だ」
「肩車出来るサイズじゃねえか」
「たまにだ!!ごく稀にだ!!今のこのサイズで肩車出来ると言うなら、やってみろ、このたくらんけ!!」
「あだだっ!!」
癇癪を起して叫ぶ管理人に頬をつねられ、オラトリオは仰け反る。
憤然としたオラクルは、その勢いのまま、オラトリオの膝から下りようとして――再び、項垂れる。
「………オラトリオ」
「呼べよ。約束したら、放してやる」
「……」
腰を抱いたままのオラトリオの腕は、強い。体格差はわずかでも、こういった力加減は、管理人と守護者でまったく違う。
「………そんなこと、約束したって…」
「まあ、仕事が忙しけりゃ、後回しにするわな」
「…」
「ハッカー相手のようには、いかねえよ。それは認める」
胡乱そうなオラクルを、オラトリオは見つめる。ふ、と身を起こすと、膝の上のオラクルの胸に顔を埋めた。
そうやっても、聞こえることのない、心音。
けれど、聞こえる、こころの声。
響いて、求める、<オラトリオ>の名――
「だが、必ず、来てやる。すぐには行けなくて、おまえがもう、泣きたい気分じゃなくなったって言っても、来てやる。来て、抱きしめて、泣かせてやる」
「……」
理解できない、とこころは言う。
どうしてそうも、泣かせたいのか、と。
そこに、小さなちいさな声が、含まれている。
おまえに抱きしめられると、この拙いこころがあたためられ、癒される心地がする――
おまえの胸で泣くと、もう、ひとりではないのだとわかる――
「頼むよ、オラクル」
「…」
願えと言ってもオラクルは聞かないが、願われることには応える。
一歩折れたオラトリオに、オラクルのからだから力が抜けた。
胸に埋まるオラトリオの頭に顔を寄せ、わずかに擦りつく。
「………必ず、来るんだな」
「来る。遅くなっても」
オラクルの腕が伸び、オラトリオの背をそろりと抱いた。その手がきつくしがみつき、色が瞬いた。
「……………呼ぶ、から………来てくれ、オラトリオ。<私>の、ために」
吐き出された降参を抱きしめて、オラトリオは頷いた。
「<おまえ>のために、オラクル」