「にょにょー」
微妙な鳴き声とともに、デフォルメされた猫のような狸のような珍妙なキャラクタが現れた。
手には『お手紙』を持って、ゆったゆったと傾ぎながら、不安定な二足歩行でオラクルの足元へ歩いてくる。
My Lover is killed Me-01-
「あ、『オラトリオ』。メール持ってきてくれたのかい。いい子だね」
「…っ」
オラクルの上げた甘い声に、ファイルを握り潰す不吉な音が重なる。
『オラトリオ』を抱き上げたオラクルは嫌な予感に眉をひそめ、音の発生源へ顔を向けた。
「…オラトリオ、まさか」
データ破損してないよな?
訊く声が珍しく怖い。
ウィンドウを握り潰したオラトリオは、それにすぐに答えない。
「ちょっと、オラトリオ」
「にょぉー、にょぉお」
叱ろうとしたオラクルに、腕の中の『オラトリオ』が鳴いた。自分が呼ばれたと思っているのだろう。
その短くぷよぷよとした手に握った『お手紙』を一所懸命に振り回す。
オラクルの顔がたちまち緩み、『オラトリオ』の頭を撫でた。
「ああ、うん。おまえじゃないんだよ、『オラトリオ』。今、ご褒美あげるから…」
「いいぃい加減にしろぉっ、こぉの世間知らずぅううう!!」
オラトリオの上げた声は、こちらも珍しく悲鳴じみていた。
手の中に握り潰したウィンドウを、整形し直してから正常終了したうえで消し、カウンター向こうで『オラトリオ』と戯れているオラクルの元へ行く。
「名前変えろってこの間も言ったよなあ?!もうそれ、育ちきってんだろ?!お望み通りに育てられたんだから、適当に好きな名前に変えろよ!いつまでも俺の名前を使うなあっ!!」
「えー?だってもう、馴染んじゃったし。ねえ、『オラトリオ』…」
「だってじゃねええええ!!」
絶叫が轟き、オラクルは腕の中の『オラトリオ』をますます強く抱いて、身を竦めた。
オラクルが現在抱いている『オラトリオ』は、ゲームのキャラクタだ。
育成系シミュレーションゲームが好きで、かわいいキャラクタが大好きなオラクルは、ほえほえとしたゆるキャラ育成ゲームのこのキャラクタを殊の外気に入っていた。
それが高じて、電脳の中であるのをいいことに<ORACLE>内をフィールドに変えて遊んでいるのだ。
育成キャラクタにはデフォルト名もあるが、やはり育てる醍醐味は名前付けからだ。
愛着あるキャラクタは、愛着ある名前から。
そんな理由で『オラトリオ』と名付けたならまだ愛があるが、オラクルはさんざん悩んだ挙句、「変に育っても寝覚めが悪くないから」という理由で、むしろ愛が感じられない。
このゲームに関して言うなら、同系統のもののなかではかなり作りこまれているほうに入る。分岐が細かく、育ち方もゲーマーでないとコンプリートが難しいほどに種類がある。
とはいえ、世界一を誇る演算能力を持て余しているオラクルは、ものの数時間でコンプリートした。
つまり、もうとっくの昔に遊び終わっているのだ。
それなのに、フィールドは展開されたまま、キャラクタはのさばったままだ。
数日の我慢と思えばのさばらせていたが、いつまで経っても回収される様子がないこの事態に、オラトリオはかなり苛立っていた。
まずもって、とにかくキャラがゆるい。マヌケだ。
それと同じ名前だなんて、自分まであほになったみたいな感じがする。いや、オラクルにはそんなふうに見えているのかと思うと、へこむ。
だが本当に赦せないのは、オラクルが『オラトリオ』を呼ぶときに、とっておきの甘い声を上げることだ。
現実世界で、かわいいものを見ると人間が猫なで声を上げるのは知っていたが、まさにあんな感じで、オラクルの声も甘く蕩ける。
声だけではない。視線も態度も仕種も甘々だ。
そんなのは俺に対してだけ使えばいいんだ!
――という、まさに嫉妬心から、オラトリオは我慢の限界に来ていた。
しかし残念な相棒は、そういったわかりやすいオラトリオの機微をまったく察してくれない。
「ここまで育てるの、すっごく苦労したんだぞ」
「だぁかぁらぁ!消せとまでは言わねえよ。名前変えろって言ってるだけだろ?!」
「ちょっと間違うと番長とか盗賊団のボスになっちゃってさ、『オラトリオ』…」
「っがあっ!」
どれだけ『育児』に苦労したかを聞かされかけて、オラトリオは天に向かって吼えた。
論点が違う。
名前を変えてくれと言っているだけだ。
変に育ったら嫌だから、という理由で『オラトリオ』という名前にしたのだったら、今、状態が安定しているこのキャラクタは『お気に入り』に育てられたということだろう。
ならば、それに合った、とっておきの名前を付けてやればいいのだ。馴染んだとかそういう理由でなく。
「な・ま・え・を・か・え・ろ」
「…」
半眼になって迫ったオラトリオに、オラクルが拗ねた顔になった。
『オラトリオ』をぎゅうっと抱きしめて、うるうるの上目使いで見つめてくる。お気に入りの玩具を取り上げられる危機に瀕している子供のようだ。
考えて、オラトリオは眩暈がした。
「あのなあ…。なんで、そんなに名前変えるの嫌がるんだよ…」
「…」
攻め方を変えたオラトリオに、オラクルの纏う色がぱたぱたと明滅した。
表情並みに素直な雑音色は、意外にも、理由があることを告げている。
てっきり怠慢だと思っていたオラトリオは、暁色の瞳を瞬かせた。
「オラクル?」
怒らないから言ってみ?
穏やかに訊いたオラトリオに、オラクルのくちびるがうっすら開く。
オラトリオは身を乗り出し。
「言わない、ばぁか!!」
「ぐぎゃあ!!」
叫び声とともに、オラトリオの上に大量のファイルが落ちてきた。受け止めきれずに床に沈む。
ファイルは丁寧に扱えと日頃うるさく言うくせに、時々オラクルはひどく粗雑だ。
「てめえ、オラクル!」
叫んで身を起こしたオラトリオの前から、『オラトリオ』ごとオラクルの姿は消えていた。
慌てて<ORACLE>内にサーチを掛ける。
オラクルが<ORACLE>内から出ることは決してないから、どこかにいることは確かだが。
「…なぁにやってんだ、あんにゃろ…」
オラトリオが追いつきかけると、オラクルは高速で移動してしまう。
演算能力で劣るオラトリオには、移動し続けるオラクルを捕まえることは至難の業だ。鬼ごっこなど始めたら、永遠に追いつけない。
「…なんだってんだ」
ぶっすりとつぶやいて、オラトリオはサーチを取りやめた。
追いつくことは出来ないが、出し抜くことは出来る。移動する先を予測して、待ち伏せすることは可能だ。
だが、その前に基本方針を立て直す必要がありそうだ。
大した理由もないと思っていた名付けに、意外と深い理由があると、言外にオラクルが語っている。
そこに見当を付けないと、鬼ごっこはほんとうには終わらない。