大人の足で歩いて、ほぼ五分。

オラトリオがきょうだいと暮らすマンションから――彼は海外出張に行きっぱなしで滅多に帰宅しない両親を、『同居家族』のカウントに入れていない――、ちょっとした散歩程度の距離に、オラクルの住むアパートメントはある。

愚者の三倫

多少広めな間取りのアパートだ。オラクルのようなひとり暮らし世帯は、あまりいない。他の部屋だと夫婦二人だとか、子供も含めた家族で暮らしている世帯が多い。

だが、仕事のためだけでもなく大量の画材道具を抱えたオラクルには、アトリエも兼ねて必要なスペース量で、中に入ると決して広いとは思わない。

ひとつ補記しておくと、築年数がかなりのものだ。外観が時代遅れという以上に、全体的にくたびれた感がある。比較的まめな大家のため、これでも何年かごとに修繕の手を入れてはいるのだが、それでも隠しきれないものがある。

つまりなにが言いたいかというと、駅歩距離を勘案し、広さを考慮に入れたとしても、家賃は相場よりかなり安め――

「………」

癖だ。オラトリオは門前まで来ると一度、ふわっと全体を見渡す。

オラクルの部屋は上階だ。夜なら、漏れ出る明かりのあるなしで住民の在不在が判断できるが、今は昼間だ。外、それも遠目からでは、訪問先が留守かどうか、判断はつかない。

窓も閉まっている。それもそうだ――今日は天気もよく、気温もそこそこだが、未だ春先。窓を開け放し、風を通したいほどの陽気ではない。

「………?」

ほとんど無意識の癖で全体を眺めたオラトリオだが、違和感を覚えて眉をひそめた。ほんの小さな電流が走ったようなものだが、確かに違和感だ。

門を潜る前に立ち止まり、無意識から意識的に切り替わって、オラトリオはもう一度アパートの全体を流した。

違和感の正体は、すぐにわかった。

肝心要の、オラクルの部屋だ。その、扉――

「………貼り紙?」

視力云々の問題ではなく、さすがにここからではなにが書いてあるのか、わからない。わからないが、オラクルの部屋の玄関扉、前に立つとおそらく目線の位置だろう場所に、ぺらりと一枚、紙が貼ってあるのが見えた。

『一枚』というのが、微妙だ。いや、二枚も三枚も四枚も、何枚も何枚も貼ってあったらそれもそれで問題だが、一枚というのも――

要するに、玄関扉に『紙』が貼ってあるような状態は、いやだということだ。中身如何、理由如何に因らず。

「借金なんか、赦した覚えはねえんだけどな」

ぼやくようにつぶやいて、オラトリオはきれいに撫でつけた髪をざくざくと掻いた。

ここしばらく、仕事は順調だった。仕事が順調ということは、実入りも良かったということだ。

オラトリオもだが、コンビを組むオラクルも、フリーランスだ。文筆業と絵描きという差はあれ、どちらも収入は安定し難く、時として生活が困窮することもある。

オラトリオはまだ、弁護士という安定職業に就いた姉と同居しているからいいが、ひとり暮らしのオラクルとなると事態は深刻だ。

――と、眉をひそめたオラトリオだが、すぐに首を横に振った。呆れたようなため息が、ほとんど反射でこぼれる。

「言ってもな………すぐそこ距離に実家があって、兄が師匠で、のみならず姉妹が姉妹だと考えるとな……どうやったら本当に深刻なことになるのか、むしろわかんねえけどな………」

オラクルの兄は、ご近所様におかれましては『キング』の名を冠せられる、重度にして極度のきょうだい狂だ。シスコンやブラコンとも言い換えられるが、とにかく過保護だ。

家を出た弟とはいえ、すぐそこ距離だということによらず様子は窺っているし、困窮すれば手を差し伸べることを躊躇わないだろう。

いや、おそらくはこれ幸いと、実家に連れ戻す。

「……っ」

そうならないようにしないといけないと、オラトリオは改めて己に喝を入れた。

オラクルが実家に戻るようなことがあれば、不便も極まりない。

家からの距離が遠くなるということではなく、仕事の相棒としての思いでもなく、疚しいうえに個人的な欲望そのものでしかないが。

「……行くか」

ぼそっとつぶやくことで、オラトリオは止まった足を動かすきっかけとした。

なんだか知れぬ怪しい貼り紙があることはわかっても、近場に行かなければ肝心の『理由』がわからない。オラトリオに対処可能なことであれば、さっさと解決してしまえばいいだけだし――

「いや、待て……締め切りはまだ、ひとつも破ってねえ。うん。危ない状態のものもなかった。はず。だ」

――と、いいな☆

ふと思いついた『もっともありそうな危機』を、オラトリオはあやふやな希望で誤魔化した。

要するに、彼らの幼馴染みでもある担当編集が、原稿を催促するための新手の嫌がらせを思いついたという――

なにかから目を逸らしつつ、オラトリオは鉄骨造りの階段を昇った。

鉄骨造りとはいえ、ほとんど工事場の足組のような階段だ。しかもやたらと軋む。オラトリオの体格が規格外にいいこともあるだろうが、これは確か、オラクルのお隣に住む幼児がぴょんぴょこ飛び跳ねながら降りても昇っても、撓んでいるように見えた。

そうとはいえ、うっかり重さを増してしまった足で、オラトリオはオラクルの部屋の前に辿りついた。

呼び鈴を鳴らす前に、まずは貼られた紙を見る。

コンビニのコピー機などで使われているような、ありふれた白い紙だ。サイズはA4版か。

それをマスキングテープで、玄関扉にぺたりと貼っている。

書かれているのは、一文。

黒の油性ペンで書いたと思しき、その文――は。

『4/1中、オラトリオノ出入リヲ禁ズ』

ふむ、と。

オラトリオは、思った。

まずこれは、オラクルの字だ。ことオラトリオが、『オラクル』かそうでないかを見誤ることは万が一にもない。ゆえにこれは、オラクルの字だ。オラクルの直筆による、文だ。

そして今日は四月一日だ。そうだ。まさに今日が四月一日だ。

同時に目の端に、お隣に住む幼児の愛車が見えた。ごーてんごーという名だ、確か。今日はご在宅だからここにあるのか、それとも愛車とはいえさすがに持ちこめない幼稚園に行って不在だからあるのかは不明だが、幼児ご愛用の三輪車がそこにある。

オラトリオとしては、幼児でありながら愛車に名前を付けてしまうところがもう、先を思ってしまうが、さらに言うなら幼児用三輪車に付ける名前がこれかというところで、――

「いいか、オラトリオ………」

鼻先にぶつかるかという勢いで開いた扉から顔を出したオラクルは、眉間に深い皺を刻んでいた。珍しいことだ。オラクルは温室育ちというだけでもなく温厚で、滅多には眉間に皺を寄せない。それも、『深い』というレベルまでは。

しかし顔を出したオラクルの眉間には深いふかい皺が刻まれており、そして一度言葉を切ったくちびるからは、堪えきれないため息がこれまた、深々と吐き出された。

吐き出される息とともに体が力を失って撓み、しぼんでいくように見える。

それでも一拍置くことでなんとか気力を掻き集めたらしいオラクルは、きっとして顔を上げた。玄関扉の前に立つオラトリオを、厳しく睨む。

「四月一日だ、今日はいいか、『四月一日』だぞ!!ちゃんと書いただろう、『四月一日』だって?!これだけわかりやすくしてやったっていうのに、余裕がないにもホドがある………っ!」

喚き立てると、オラクルは玄関扉を抑えるのとは反対の手で、びしりとお隣を指差した。

「わかったら、ごーてんごーをお隣に返せ!!いつまでも仁王立ちで、頭上高くに抱え上げておくな、そんなもの!!他人様のものだとか見た目が怪しいとか以上に、いったいそれで、なにをどうするつもりだった?!」