愚者の問答
「オラトリオ」
オラクルが浮かべた笑みはいつものように無邪気でも、どこか蠱惑的なものを含んでいた。恥じらいを含みつつも華やかで、艶めいた――
「キス、しよう?」
――それで誘われれば、断る余地などない。
なによりオラトリオはこの相手を、守護すべき対象として以上の感情で想っている。
幸いなことには、相手も想いを返してくれている。もちろんそうでなければ、この誘いはない。
だからオラトリオには、断る余地などないのだ。それは義務ではなく、歓びとして、己のなによりの叶えられた望みとして。
だというのに。
「オラクル」
「『ウソ』」
「………」
傍らに座って微笑む相手へ手を伸ばしかけたところで、オラクルはするりと避けて、そんなことを言う。
伸ばしかけた手はオラトリオが堪えた内心まま、ぐっときつく握られて、けれどオラクルは悪びれもしない。にこにこと邪気なく笑って、小さなウィンドウを起ち上げ、これみよがしにオラトリオへと突きつける。
表示されているのは、カレンダ。
瞬く数字は、『1/APR』――四月一日。
そんなことはわかっているが。もちろん理解しているが。忘れもせず覚えているが。重々に承知してはいるがしかし。だがしかし。がしかしだがしかしかしかしかかし。
「オラクル……」
「と、いうのが『ウソ』」
「おい」
カレンダを表示して指差したままにこにこと、あくまでも邪気なく笑うオラクルは続ける。
カレンダ、四月一日という、その日付を表示したまま、指差したまま、だ。
ジェスチュアを言葉に置き換えるなら、『続行中』――
「おい……」
オラトリオは握った拳を戻すと兆す頭痛を堪えるよう、苦悩に歪む眉間に当てた。
四月一日といえば、今さら事細かに説明するまでもない。四月馬鹿、愚者の日等、諸々言い方はあれ、端的に表現するなら、『ウソツキの日』。
ひとびとが腕に依りを掛けて他者を嵌め、あるいは騙り、陥れる日だ。
もちろん、犯罪は犯罪として処罰される。『ウソツキの日』とはいえ、赦されるのはあくまでも、笑い飛ばせる範囲での話だ。
ということで問題になるのは、これは『笑い飛ばせる範囲』かどうか、だ。
なにを赦せて赦せないかは、個人の判断だ。裁量で、度量だ。基準となるのは個人の成育環境であり、趣味嗜好であり、感情で気分で雰囲気だ。法的な画一基準ではなく、非常に流動的な。
オラトリオといえば、今日は――『今』は、実に久しぶりとなる、恋人との逢瀬だった。仕事だが。遊びに来たわけでも、余暇を潰しに来たわけでもない。仕事だ。
仕事だが、同時に逢瀬だった。いつものことだ。
仕事の必要があって、オラクルが普段を過ごす電脳空間――<ORACLE>に降りた。
現実空間にはボディを持たず、CGのみであってすら現出可能な場所が限られているのが<ORACLE>、いや、<オラクル>だ。ましてや『触れる』ことが可能な場所となれば、ここしかない。
だからたとえ仕事の必要であったとしても、ここに来た以上、それなりにそれなりの補給もしていく。忙しくとも、無理やりな理由で降りて来たのだろうともだ。ヤることはヤる。――少なくとも、意気ごみとしてはだが。
そしてそんなときに好都合にも、相手から『お誘い』があった。
さらに好都合なことには、そういうときにどうしても急を要する仕事を抱えているわけでもなく、時間が押しているわけでもなかった。
こうまで好都合が重なってくれることなど、そうそうない。となれば――
というところでの、オラクルのこの振る舞いだ。
教えたのは、オラトリオだ。『嘘』という概念自体が理解し難いのだと渋る<オラクル>に、長年かけ、この習慣を覚えこませ、刷りこんだ。
自業自得感が、これまでになく重い。
全身押し潰されて――執務のために椅子に座っているにも関わらず――、床に膝をつきそうだ。挙句に土下座状態にまで陥りそうな。
「オラクル」
「うん。それも、『ウソ』」
「………っ」
オラクルの語尾に、星が飛んでいるのが見える。もしくは音符だ。
いくら電脳空間であっても、さすがにそういうものが実際に飛ぶことはない。幻視であり、錯視だ。つまりは愉しそうだということだ。
オラクルだとてオラトリオとは久々の逢瀬で、触れたくないわけがない。
はずだ。
と、信じたい――
「………がんばれ俺。ちょうがんばれ………」
諸々積み重なった挙句、オラトリオの弱気は極まっていた。揺らいではいけない部分までもが揺らいでいる。
なんとか発破を掛けたが、体の重さが少しも軽減しない。増していくばかりで、本気で床に膝をつきたい。むしろもう、土下座させてくださいと土下座して頼みこみたい。
「いや、ほんとがんばれ俺。電脳最強の守護者。今日もまだ電脳最強の守護者。明日、……明日、は……」
「オラトリオ?」
いくらなんでも追いこまれ過ぎだと、オラトリオも自覚があった。自覚はあったが、どうしようもない。
それでも懸命の努力で姿勢を立て直したが、オラクルだ。
きょとんとして、自分がコイビトをどうしようもなく追いこんだことに、まったく気がついていない。
もともとが、感情の機微に疎い性質だ。仕方がない。オラクルの感情は付随的なものでしかなく、そもそも『感情』を訴求しながら造られたオラトリオたちA-ナンバーズとは、根幹が異なる。
それは例えば、<オラクル>が<オラトリオ>の相棒であり、片割れであることが当初から決まっていたとしてもだ。
『嘘』の概念が理解し難いように、オラクルには他者の感情を機敏に察することが難しい。
これでも昔よりは良くなったのだ。ずいぶん学習したし、成長した。
そして順調なご学習とご成長のご成果としての、本日今の、この嘘――
「あ、フリダシニモドルった……」
「………大丈夫か、おまえ?」
さすがに笑顔を引っこめて、オラクルは思わしげに眉をひそめた。いや、オラクルが元凶なのだが。
オラクルとは違う。オラトリオの反応は常に機敏で、鋭利だ。心理状態が如何にあれ、俊敏に即応。
そうでなければ務まらない役職だということでもある。厳しいものだ。
だが、今のオラトリオは呆然としたままで、会話が繋がらない。繋がらない以上に、成り立たない。
こういうことは、滅多にない。――いや、だから元凶は、オラクルだ。
元凶なのだが、自覚がまったくないオラクルの問いに、虚ろに遠くなっていたオラトリオの目に光が戻った。紫雷色の瞳に、それこそ閃くような強い光が走る。
「大丈夫じゃねえな!」
「え、いや、私はむしろ、今の一瞬でなんだか、まったく大丈夫だという確信を抱いたが……」
とても元気いっぱいに返したオラトリオに、オラクルはそっと体を引いた。
「いやいやいや、大丈夫じゃねえよ?まったくほんとに、ちっとも大丈夫じゃねえな!」
「えー………」
ますます引いていくオラクルに対し、今度はオラトリオがにっこりと笑う。
弟のシグナルなどは、まったく違うと未だに強くつよく主張するが、オラトリオとオラクルは実際、『まったく同じ顔』だ。
しかし表現としては同じ『にっこり』といっても、受ける印象はそれこそ、シグナルが主張する通り、まったく違った。
邪気まみれだ。いや、――つまり、なにかしら企まれている感が、芬々というべきか。
オラクルがにっこり笑ったときに醸し出す無邪気さや、ほんわりとした穏やかな空気が、オラトリオのにっこり笑顔には、ない。
必ずやなにか企んでいると、思うところがあるだろうと、隠しようもなく漂う。
「ええと、オラトリオ、その……」
「キスすんぞ、オラクル」
「っ!」
にっこり笑ったまま、オラトリオは告げた。オラクルが纏う雑音の色が、それこそノイジーに瞬く。意味は、戸惑い。困惑。それから恐れと、愛情と絡む欲から派生する――
「ええと。『ウソ』?」
ちょこんと首を傾げつつ、オラクルは神妙な風情で訊く。
対するオラトリオも合わせて、首を傾げてやった。ただしこちらは神妙さの欠片もなく、相変わらず笑っている。とても危険な感じの、企まれている感芬々に。
「いんや?まぢも大まぢ。欠片もウソなんてねえよ?」
「ええとっ、んっ………」
――オラクルが反応する間もなかった。不安払拭の有言実行とばかり、顎を掴んで寄せたオラトリオは、食らいつくようにオラクルのくちびるにくちびるを重ねる。痛むほどに吸い、貪り、味わわれた。
「んーーー………っ」
オラクルの体、プログラムの奥の奥に眠る感覚が開かれ、揺さぶられる。開くことを赦したのは、この相手、<オラトリオ>だけだ。彼のための感覚だから、彼のためだけに、彼だけが――
「んんっく……っ、ふ、ぁ………っ」
くるしさを思い出し、オラクルの目尻には涙が滲んだ。それでも上がった手は、押しのける動きではなく、逆に縋ってオラトリオにしがみつく。
「………オラトリオ」
ややしてキスから解放されると、オラクルは茫洋と名をつぶやくのが精いっぱいだった。感覚が揺らぎ過ぎて、迂闊に動けない。ただひとりで『在る』ことすら、覚束ない――
「な。『本当』だったろ?」
密やかに、しかしひどく得意げに言って、オラトリオは力なく崩れるオラクルを抱きしめた。
体が解ける。解けて広がり、混ざる。誰よりも愛おしく、大事な、半身にして己自身である相手に。
「あとな。キスだけでなく、襲う」
「おそっ……」
落とされた宣告に、諸共に解かれるオラクルは小さく、瞳を見張った。どういう宣告なのか。
衝撃覚めやらぬまま、それでもオラクルの瞳は無垢な信頼を宿し、守護者を見つめた。己の絶対の守護者にして、唯一の情人を。
解かれて消える寸前のくちびるが、開く。
「それも、『う』」
「じゃねえな!まぢまぢの大まぢだ!ヤる!!」
問いを皆まで聞くことはなく――
オラトリオは呵々と笑うと、解いたオラクルと混ざり合った。