賭場渡世の流儀と掟
目が覚める。
実際頭がはっきりするのはまたずいぶん経ってからだが、とりあえず朝六時には目が覚める。
「…」
起き上がって、部屋を見渡した。
隣の布団はきれいに整えられて、寝た形跡もない。
それもこれも三年もくり返すと、別におかしなことでもなんでもない気がする。むしろ、隣におとなしく寝ている姿があったら、そっちが驚きそうだ。
さらに見渡す。
六人部屋に、並べられた六組の布団のうち、きちんと人間が収まっているのは、俺も含めて三組。残り半分が、もぬけの殻。
少なくとも、俺ひとりが寝ていた状態ではない。半分残っている計算になる。
これはあれか。高校生にもなると、やはり、男子もそこそこ落ち着いてくるという証なのか。
中学のときとは比べものにならない残存率。
そんなことをしみじみと考える現在、修学旅行中。初日の夜を終えたところだ。
そしてもうひとつ言うなら、その落ち着いてきた男子の中に、もちろんのこととして聡は含まれないらしいとか。
聡とは中学からの付き合いだが、学校行事で出かけた旅行先で、アレがおとなしく布団に収まっていた朝がない。
それはなにも寝相が悪くて布団からはみ出しているとかいう以前に、夜間に騒ぎ過ぎて教師に反省室送りにされているからだ。
ついでに最終日辺りになると、今夜騒いだらそのまま夜行列車か夜行バスで家に叩き帰す、とかなんとかいう駆け引きが始まる。
なにをそんなに騒ぐネタがあるのか、俺にはさっぱりわからないんだが。
ぼんやりと布団を見渡してから、立ち上がる。
旅館から貸し出された浴衣がさすがに寝乱れたので、ちょっと直してから、タオルを持って洗面台へ。
途中、少なくとも布団の下で下着一枚になっていると思しいやつもいた。
男子高校生に寝間着として浴衣は無茶じゃないか。
首を傾げながら、顔を洗う。
真冬の最中でも、お湯ではなく水を使うのが俺の決まりだ。冷えるからいやなことはいやだが、お湯で洗うと一日気持ち悪い。
だから今日もひんやりと冷え切った水で。
うん、まったく目が覚めない。
我ながら感心するな。してる場合だろうか。
起き抜けの働きのにぶい頭でくだらない考えを巡らせながらタオルをしまい、部屋を出る。
食事は大広間で学年全員で摂ることになっている。
そう人数も多くないからいいのだろうが、それにしても高校生をこれだけ集めると、うるさいことこのうえない。まだ朝だとか、起きたばかりじゃないかとか、あんまり関係ないのが集団の力だ。
お座敷に入ると、すでに膳が並べられていた。
白米に味噌汁、漬け物、焼き魚に海苔、納豆と温泉卵、青菜のお浸しに高野豆腐の煮物、りんごとサツマイモの甘露煮。
朝から豪勢だが、高校生がみな、食欲魔人で朝に強いと思っているなら旅館の経営者は甘い。
むしろ現代高校生は朝から食事をする習慣がないから、こんなに出されてもほぼ残す。まあ、俺は食い物を残すのが嫌いなので、出されたものはすべて食うが。
席に決まりはないので、適当に空いているところに座る。
ぼんやり待っていると、三々五々に席が埋まっていく。やがて教師が来て、軽く全体朝礼。
飯が前にある状態でこの段取りって、どうなんだ。
ほかほかの白飯が上げる湯気がだんだん弱々しくなっていく様を観察していると、ようやく食べてもいいとの合図が出る。
「いただきます」
だれが聞いていようがいまいが関係なく、俺は手を合わせてつぶやき、箸を取る。
温泉卵を皿に割り入れたところで、朝とは思えないテンションが隣に来た。
「てめえ、どきゃぁがれ!!だれの許可を得て達樹の隣に座ってやがる!そこは俺の席だっつうの!うるっせえな、四の五の言わずに退け!去ねやぼけ!!」
俺の隣に座っていたやつを蹴り飛ばして退かし、自分のお膳を持った聡が騒々しく座る。
浴衣を着ているとかいう意識が低いから、どっかり胡坐を掻いて大股開きだ。まあ、下にジャージを履いているから、そんな恰好をしても問題はない。
浴衣にジャージ。
日本は寛容だ。
「おっはよぉ、達樹ぃ!」
「……おはよう」
明るい声に応えるのは、社会性動物人間としての反射だ。
寝癖だろう、ところどころ跳ねた髪もそのままに、聡が朝から元気いっぱい、にまにまと笑っていた。
「どこに行ってたんだ」
ほぼほぼ答えは予想して、しかし義理として訊いておく。
聡は首を傾げ、ぽりぽりと掻いた。
「さあ?なんか、布団部屋?っていうの?そんな感じのとこ。いっぱい布団あったからさー、豪華ソラマメ姫仕様で、五枚敷きしてみた。でもかえって寝心地悪いんだよね。思うにお姫さまが眠れなかったのって、布団多すぎたからじゃね?」
「そうか」
なんの話をしているのかよくわからないが、まあ、さっぱり反省していないのはよくわかった。
「でさあ、朝起きたと思ったら、原稿用紙十枚に反省文書くまで朝飯抜き、とか言われてさー」
「ああ、それは得意分野で良かったな」
「なー」
反省皆無の顔で、聡は得意げに笑う。
別に皮肉を言ったわけでもないが、こうまであっけらかんとした態度だと、それはそれでどうなんだ。
教師も無駄なことが好きな生き物だ。
だいたい、反省文でこいつの態度が改まるなら、すでに優等生を通り越して聖人すら超越して、絶対神にでもなっていなければおかしいというのに。
それが未だにこの状態であるということを真摯に受け止めて、もう少し効果的な教育法を編み出すことを薦めるが、別に上申書を書いたりはしない。面倒だし。
「で、あとの二人はどうした」
「ん?知んない。俺自分の書いたら速攻出てきたもん。でも十枚程度だし、すぐ埋まるって」
反省文マイスターのおまえならな。
あとついでに、反省文が反省していないおまえならばの話だ。
――だんだんほんとうに、教師の考えることがわからなくなってきた。
こいつの反省文が、ぎっちり反省で埋められてたことなんて、一度もないはずだ。いつでもどんなときでも、自分がどれだけ悪くないかについて声高に主張しているのが、聡の反省文だ。
それは反省文ではない。
なのに、教師はとりあえず反省文を書かせる。
もはや怠慢ではなくて、新手の教育方針に思えてきた。さもなければ、聡の文章のファンになっているかだ。
どちらにしても教師のマゾヒスト具合がわかって、怖気が走る。
「達樹さあ、よく眠れた?」
「そこそこだな」
枕が変わったから、ぐっすり眠れたという感じではない。だが、まあ、そこそこと言ってもいいくらいには眠った。
答えながら、俺は聡の手元を見る。
納豆に温泉卵を入れるのは、まだ許容しよう。青菜のお浸しを入れるのも、ぎりぎり許容しよう。だが、煮物まで入れるのを許容していいのか。
そしてさらに、聡の手は高速で焼き魚の身をほぐし、納豆の器に入れていく。
「春木がさあ、ひどいんだよ。この騒ぎの中でも眠れている柴山の爪の垢を煎じておまえらに飲ませようって言い出して」
「あー…」
納豆の器は大きくない。それでも聡はおかずをすべて入れていく。海苔の袋を破り、それも適当に千切ってまぶした。
なんだろう。ここまで来るといっそ、食べてみたい気がしてくる。人間の好奇心は恐ろしい。
「でも、柴山の爪に垢があるわけがないから、爪を切って煎じようって。爪切り取り出してまじめな顔で言うんだよ!もうあいつ、ほんと変態!!」
「あー…」
頭が良過ぎて感性が人間とかけ離れて電波入っているらしいと噂の担任なら、脅しでなく本気でやりそうだ。
俺は自分の爪を見る。
修学旅行に出かける前に、きれいに切りそろえてきた。もちろん、垢なんてない。
そもそも毎日風呂に入る現代人の爪に、垢が溜まる確率はものすごく低い。それ以前に、爪に垢を溜めるような人物のことを見習う気になるかどうかという根本的な疑問が常にあるんだが。
「これをさらに切られると、深爪だな」
「痛いじゃんねえ!つか、俺の達樹なんだっての。なんで春木ごときに触らせなきゃなんないだって」
「それでさらに暴れたのか」
「しょうがないじゃん。達樹さんの貞操を守るためだよ」
貞操……いや、爪だろう?
おおげさなことを言いながら、聡は山盛りになった納豆を半分、白飯に掛けた。
しまった、今ちょっとほっとした。それでもきちんと白飯のお伴なんだと思ったら、ああこいつにも常識があるんだなとか思ってしまった。
おかずをすべて納豆に投入した時点で、ほぼ常識などない。
「で?」
「ん?ああ、おいちょかぶ三本勝負。二‐一で勝って、阻止しました。だから達樹の爪無事じゃん?」
「…」
ここはありがとうと言うべきところなのか。というか、暴れるの方向がこれでいいのか。
いくら理由があっても、教師が生徒とおいちょかぶに興じている時点で、いろいろ言うべきことがあるような気がするが。主に教育委員会に。
「で、その次に、布団部屋行っておとなしく寝るかどうかの五本勝負して、二‐三で負けてさ。で、さらに次に……」
言うべきこともないような気がしてきた。
ここまで来るともう、なにをどう言ったらいいかわからないというか、これはこれでうまいことこの問題児の扱いを心得ているような気がする。
「で?」
「うん。今晩はとりあえず、完徹麻雀で話がついた」
「…」
問題児の扱いがうまいのも道理だ。
担任が問題児だ。
「良かったな」
「そうでもない」
ブラックホールのようにあっという間に飯を掻きこみ、聡は神妙な顔になった。――ひとつ言ってもいいか。だめか。口の端に海苔がついてるんだが。
「達樹の寝顔堪能してない。せっかく達樹の寝顔堪能しようと思って同じ部屋にしたのにさ」
「なんだ、覚えてたのか」
それはもう、ヤのつく職業のごとき脅しをくり出して俺と同部屋になった理由。
忘れたのかと思っていた。
口の端に海苔をくっつけたまましゅんとして、聡は珍しく口ごもる。
「覚えてたっていうか……。まあ少なくとも、今は覚えてる」
「ああ、なるほど」
夜になるとテンション上がり過ぎて、脳みそが吹っ飛ぶんだな。
そこまで上がるテンションがわからない。
朝から決して低くないテンションで、これで一日中過ごしているのに、夜にさらに上がるテンションって、もはやエネルギーの源が不明だ。
それとも燃費がいいのか。驚異の燃費率を達成しているとか。
次世代型エコカーに採用してみたらどうだろう。絶対買いたくないが。
「とりあえずな」
俺は言いながら、手を伸ばす。聡の口の端にくっついた海苔を取り、納豆でねばついているそれを聡の口に押しこんだ。
「騒いでもいいから、強制送還にならない程度にしろ。あと三日あるのに、おまえだけ先に帰ることになったらつまらないだろう」
「…」
聡が黙って口をもぐつかせる。
俺は粘ついた指を舐め、自分の飯に戻った。
「まあ確かに、俺だけ先に帰ったら達樹さんの貞操はだれが守るんだって話だよね」
「………いや、話の行き着き先が不明だ」
「ずっとタコ部屋だし、大浴場だし、……だいよくじょう?」
そこで聡の声がひっくり返った。高速でなにごとかをつぶやきだす。
おそらく聞こえるともれなく絞め殺したくなるようなことを言っていると予想がついたので、無視。
「イケる!!」
「イケねえよ」
叫んだところで、額に平手を飛ばす。避けることもせずにまともにぶち当たり、聡は悲鳴を上げた。
「ちょ、達樹さん?!なんの話かわかってる?!」
「わからないが、無理なものは無理で、出来ないものは出来ない。そして、不可能は不可能だ」
「二乗否定の三重!信頼感半端ない!!」
当たり前のことを言う。何年付き合っていると思っているんだ。俺にだって学習能力はある。
「でもでも、修学旅行だよ?!お約束ってもんがあるでしょう?!」
「知るか」
お約束というなら、夜中に騒いで教師に反省室に送られている時点で、十分果たしている。
「なんだか、燃えてきた!」
「これ以上燃えるな」
もれなく迷惑だ。
聡は手を伸ばすと、お替わり用に置いてあるおひつを抱えこみ、そこにおかずごちゃまぜ納豆の残りをすべてぶちこんだ。
……ああ、まあ、前言撤回。
現代高校生男子の中にも、朝から食欲旺盛なのはいる。たまには。
「あのな」
「うん」
おひつを抱えこんで食べている聡に、俺はにっこり笑った。
「今晩、いっしょに寝ような?」
「っごふっっ!!」
「吹くな、汚い」
「いや、っごふっ、吹く、でしょっが、ごふふっっ!!」
咳きこんでいる聡を放って、俺は味噌汁を啜る。
聡は俺の貞操がどうのと寝惚けたことを言っているが、それを言うなら、聡のほうはどうだって話だ。
せっかく相部屋なのに、なんで担任との完徹麻雀になんか貸し出さないといけないんだ。
「返事は」
「もちおけーです!!っげふっ」
まだ咳きこみながら、聡が答える。
まあ、ほぼほぼ無理だとは思うが、主張だけはしておかないとな。
視界の端で、担任がクラス委員長とトトカルチョを始めたのを確認した。