再挑戦

吾の口から、小さくため息がこぼれた。

「十六夜」

部屋に入りこみ、声をかける。おそらくそれだけでは気がつかぬだろうと、肩を掴んで揺さぶった。

「正気を取り戻せ、十六夜。吾が話を聞いてやるゆえに」

「ふきゅ」

はっと瞳を見開き、十六夜は顔を上げる。瞬く銀色の瞳が不思議そうに吾を見つめ、それから現状を認識した。

「そなた、一旦考えこむと一年や二年、平気で過ごすゆえな……。吾が話を聞いてやろうから、なにをそれほど悩んでいたのか話してみよ」

「ふわあ」

正気に返った証にしっぽをはためかせる十六夜は、すでに一刻ばかりも凝固していた。

その目の前には、なにやら真っ白い紙が置かれている。

墨と筆も用意してあるから、なにかしらの書き物をしたいのだろうとは見当がつく。

まあ、これが悩んでいる時点で、だいたいなんのために書きたいものがあるのかはわかる。

おそらく、主である吾が養い子へ、なんらかの書きつけを贈りたいのだろう。

しっぽをはためかせながら、十六夜は至極まじめな顔で吾を見た。

「あのね、マッサージするほうがいいかなそれとも、もみもみするほうがいいかな?」

「…」

それはどちらも同じ問いに聞こえるのだが。

つまりあれか、「マッサージ」と書くか「もみもみ」と書くかで一刻も悩んでいたと………。

「……どちらでも変わらぬだろう。まあ、マッサージと書いたほうが幼稚らしくはないが」

肩を落として答えた吾に、十六夜は耳をぴんと立てた。

「ちがうでしょマッサージはするんだよでも、もみもみはするの!」

「?!」

いかん。さっぱり読解できん。

吾は軽く天を仰ぐと、十六夜の脇に腰を下ろした。二つばかり柏手を打つ。

「来たれ、上下」

唱えると、膝の上に上弦と下弦が落ちてきた。

「はいはい、なんでもかんでも迅速解決、おまかせ探偵眷属ちゃん、上弦下弦、ただいま参上よ!」

「<(`^´)>」

――うむ、どうやら二匹して最近、おかしな本にでも嵌まっているようだ。

「それで、蝕なにをお困りなの?」

「(-.-)」

「ああ、うむ」

吾は困り顔で、十六夜へと視線を向ける。受けた十六夜は、白い紙を持ち上げて上下に見せた。

「マッサージともみもみ、どっち?」

「…」

「…」

さすがに、説明を端折り過ぎだ。

目を丸くして、耳としっぽをぴんと立てて固まった上下の頭を撫でてやる。

まあ、神などというものは皆、このように自分本位なものなのだが、吾という例外と接している時間が長いと驚くものよな。

「つまり、マッサージをするか、もみもみをするか、どちらを書くかで悩んでおるらしい」

「…」

説明を足した吾を、上弦が訝しげに見上げる。じっと見てから、下弦と顔を突き合わせた。

「(^_^)」

「そうよねつまり…」

「(゜△゜)」

「うん、そうだよ!」

「…」

上下の会話に、喜色を浮かべた十六夜が口を挟む。

「『きんろうかんしゃのひ』だから、朔におくりものなの『きんろうかんしゃのひ』って、いつも働いているひとに、ありがとうする日なんでしょうだから、マッサージするのがいいのか、もみもみするのがいいのか、悩んでるの!」

「勤労感謝の日…」

そういえば、そんな日が人間の暦にあったか。ついぞ祝ったことなどないのだが。

つまり十六夜は、勤労感謝の日に、吾が養い子に贈るものを――いや、だから、マッサージともみもみと、なにに相違があると?

弱り果てて上下を見下ろすと、上下も難しい顔をしていた。まあ、悩むだろうな。

「ボクの意見を言うなら、どっちもやめたほうがいいけど」

「うむ?」

悩みの次元が違ったようだ。

わけがわからない吾を、上弦は真剣な顔で見上げた。

「だから、つまり……勤労感謝の日の贈り物にね『マッサージしてあげます券』か、『しっぽもみもみさせてあげます券』を贈ろうとしているのよ」

「(・.・)」

マッサージしてあげます券→(十六夜が朔を)マッサージする。

しっぽもみもみさせてあげます券→(朔が十六夜のしっぽを)もみもみする。

――いくらなんでも文章を端折り過ぎだろう………。

「ではなく!」

吾は十六夜を見る。

来た当初には、薄汚れてぼろぼろの姿だったものだが、養い子の懸命な手入れによって、銀色の毛並みは美しく光り輝き、艶やかに流れている。肌色も良く、瞳は煌めいて眩しい。

しかしいかになんでも、まだ、寝惚け気味でうすらぼんやりだ。

この状態で、これに懸想している養い子に、マッサージをしてあげると迫ったり、しっぽを触らせてあげると約したりしたら。

「悲劇だ」

「そうよね」

養い子はまだ成熟していないが、精神のほうはませ気味だ。知識量も子供とは言い難い。

そんな状態の養い子が、好いている十六夜から、そのような券をもらったとして……ろくなことにならないのが、目に見えている。

そこのところ、吾は己の子育てに自信がある。京八つ橋さるみあっき風味を賭けてもいい。

「ボクでも悲劇は目に見えてるんだから、それ以上に知識豊富な朔じゃあ、そのまんまぷっつんして押し倒しかねないわ」

「だが、まだ体は未熟なはずだ。なにも出来るはずが」

「いやね、蝕触るのも舐めるのも出来るわよ!」

「…っ!」

吾は眩暈を覚えて、額を押さえた。

確かに出来る、出来るが……。

「蝕上下?」

十六夜ひとりがわからぬ顔で首を傾げる。

わかっていないところがすでに、寝惚けている証拠だ。

寝惚けているこれが流されるままにあれやこれやいたされたとして、…………ふとした瞬間に、目が覚めたら――

それこそ、悲劇だ。

頭を抱える吾の膝の上で、再び上下が顔を突き合わせる。

「(-o-)」

「……なるほど。その手が……」

「なんだ?」

必死の色を浮かべて顔を寄せた吾に、上弦がひそりと囁く。

「……そうだな。その手で」

頷き、吾はきりっと十六夜を見つめた。

「十六夜」

「はい」

毅然とした態度に、十六夜も背筋を伸ばした。

その十六夜へ、吾はきっぱりと告げた。

「かたたっき券にしておけ」