そろそろからだの芯がしびれるような感覚を覚え、ぼくはため息をつく。

夏、ここを通ったとき、ぼくはじりじり焼ける、蒸し殺されるようなあの熱気に、川のなかで泳ぐ蛇の涼気に、殺意にも似た感情を覚えたが、いまはそんな強い情動を覚えることもない。

ただ疲労感だけが、澱のようにからだのなかにあった。

夜-03

「寒い。風邪引く。帰る」

ぼくよりもずっと長い時間、こうして冷気のなかに身を置いていた香具夜は、それこそ、あした、発熱していてもおかしくはなかった。

しかし、こんな繊細そうな見た目をしていながら香具夜は丈夫そのものだ。

おばさんのからだの弱さは受け継いでいない。受け継ぎようがないが。

香具夜はゆっくりと目を開き、不機嫌そうな顔を作っているぼくを見た。そっと腕を上げる。

山に沈みかける夕日の残響が、さくら色のつめを炎の色に揺らめかせて、輝く。

「見える絶望が、からだじゅう、覆ってる」

ぼくは黙って、香具夜のつめを見る。

ぼくのつめはあんなにつやつやと輝かない。薄くにごって、ざらざらとしている。

このつめを磨くのは、おばさんだ。

香具夜のお母さん。香具夜の血のつながらない、母親。

香具夜は貰われ子だ。

そういえば聞こえはいいが、実際は人身売買にも近い方法で、子どものできないおばさんたち夫婦の家に、赤ん坊のころに買われてきた。

だれのものとも知れない血が流れる、どこから来たのかも不明な人間。

それが、香具夜だ。

おとなたちは秘密にしているつもりらしいが、そして香具夜の家でも外にはばれていない体裁を繕っているが、実際は村中の人間がそのことを知っている。

こんな日本人離れした顔立ちの人間を、どこか異国の血が混じっているとしか思えないような目鼻立ちの人間を、それも赤ん坊のころからこんなふうだった人間を、だれが、どこからどう見ても田舎の人間であるおばさんたち夫婦の子どもだと信じるだろう。

おばさんこそ、田舎にあっては美人と呼ばれる顔立ちはしていても、ここまで超越した美と完璧な調和を持っているわけではない。

香具夜には異国を想起させる、オリエントな雰囲気があった。

こんな日本の片田舎には、決して生まれない、生まれるとしたら、突然変異以外のなにものでもない、村に属さない空気。

おばさんたちがなにを思って、だれがどう見ても他人の子だとわかる赤ん坊を引き取ったのか。

いや、大金を渡してまで、買い付けたのか。

村には静かに暗く憶測が流れていたが、だれもほんとうのことは知らない。だれも表立ってはこのことを話題にしないからだ。

田舎の人間はあけすけだが、ときに都会の人間よりも口が重くなる。

日が沈んでゆく。

そうすると、香具夜のからだすべてが暗闇に呑まれてゆく。

絶望に呑まれた。

まさにそんな形容がふさわしい。

だが、香具夜は絶望を『うつくしい』と表現する。

暗闇に呑まれることと『うつくしい』という表現の間には隔たりがある。

だから、香具夜がいいたいのは、自分のからだがうつくしいものに覆われていた時、夕日に輝いていた、あの瞬間のきらめきなのだろう。

ぼくにとって絶望とは、絶望に覆われるとは。

「重いの」

訊いたぼくに、香具夜の表情はもう見えない。

夕日の残響の炎に目を焼かれたぼくの網膜は、まだ暗闇に慣れることはなく、世界はすっぽりと黒い。ヴェール越しに見る風景、もしくは、赤外線カメラで見る世界。

香具夜はそっと手を下ろした。

「きょうは軽いわ。せいちゃんが来たから」

それがどういう意味なのか、ぼくが訊くことはない。

それだから、村の人間に付き合っていると誤解されるんだと窘めることもしない。

なにもかもが、香具夜には無意味だ。香具夜の世界には、村人などいないのだから。

「かぐやちゃん。かぐやちゃん。こんなとこにいたの。まあ、また、そんな薄着で。いやだわ、征司くん。いるんだったら、コートくらい羽織らせてくれないと」

けたたましい声がして、香具夜の母親が来た。

昔は美人だったというが、いまはどこにでもいる、村のおばさんであるひと。

年を経るごとに、香具夜との違いが浮きだってゆくひと。

香具夜がゆっくりと起き上がる。

おばさんは無遠慮にそのからだに触れた。

「ああ、こんなに冷えて。風邪を引いたらどうしましょ。うちに帰ったら、生姜湯を飲みましょうね。ああ、そのまえに、お風呂に入って、たくさんからだをあっためないと」

はじめにぼくのことを詰りはしたが、あとは知ったことではないと、おばさんは香具夜を構いつける。香具夜だけを。

そしてからだから枯れ草を払いながら、ぐいぐいと腕を引いて、ぼくから引き離してゆく。

ぼくは香具夜の家族から覚えが悪い。

昔、一時期、香具夜と凝った遊びのせいだ。

ぼくと香具夜は、心中ごっこ、と呼んでいた。

昔から絶望しいの香具夜と、それにはやくに気づいた、男の子としては早熟だった、つまりませがきであったぼくが考えた、ふたりだけの秘密の遊び。

やることは他愛ない。

ふたりして手をつないで人気のないところに行き、お祈りの真似事をしてから並んで横たわる。飽きるまで、黙って、ぼうっとしている。

気候がよければ、そのまま昼寝になってしまうこともあった。

それだけの遊びだが、名まえの『心中ごっこ』というのと、人気のない危険な場所に潜りこむことがおとなの間で問題視された。

ぼくも香具夜もふたりきりの秘密の遊びとしていたのだが、こんなことは狭い村内ではすぐに筒抜けになってしまうのだった。

そのことに、ぼくが気がつく、きっかけとなった出来事でもあった。

ぼくと香具夜は心中から『生還した』ところを両家の親に捕まえられ、主にぼくが、この遊びはもうしてはいけない、と叱られた。

理由は、行ってはいけない、といわれた場所に行くことをくり返したからだとかいわれたが、今ならわかる。

おとなたちが、なにを心配し、邪推したのかを。

ぼくと香具夜は口づけすら交わさぬ仲だというのに。

そして今となっては、手も触れることはない、こうして、となりに座るだけの関係だというのに。

おとなたちは邪推し続けるのだ。ぼくと香具夜の仲を。

そういうわけで、香具夜に執着する香具夜の家族は、主におばさんは、ぼくと香具夜がいっしょにいると、こうやって問答無用で引き離す。

ぼくは立ち上がり、尻を軽く叩いて枯れ草を払う。

ふと、いつまで経っても騒音が遠ざからないことに気がついて顔を上げると、腕を引っ張るおばさんに抗して、香具夜が立ち止まり、じっとぼくを見つめていた。

「なに?」

訊くと、おばさんの香具夜を引っ張る力が強くなったことが、夜に慣れた目にはっきりと映った。

だが、流され屋で、決しておばさんには逆らわない香具夜が、強情にもじっと立ち尽くしている。

「かぐやちゃん。風邪を引いちゃうから。はやく帰りましょ。ね」

おばさんが猫なで声でいう。香具夜はおばさんを見ない。

ふと、ぼくはおかしくなった。

親たちに叱られて、ぼくは香具夜に、もう心中ごっこはしない、と告げた。すると香具夜は瞳を見開き、愕然として、どうして、とつぶやいたのだ。

そのころからすでに感情を表さない香具夜だったから、とても珍しかったのを覚えている。

ぼくはいった。

ふたりとも、生きるんだ。生きることを、ふたりで考えてゆくんだ。そのために、もう、心中はしない。なにがあっても、生きるんだ。

ずいぶん芝居がかった言葉だが、あのころのぼくは真剣だった。

あのときも、おばさんが腕を引っ張るのに香具夜は抗して、こうやって立ち尽くし、ぼくをじっと見ていた。

じっと見て、言葉を聴いていた。

世界に絶望があふれていても、世界が絶望でつくられていても、ぼくたちは生きていくんだ。生きることをやめてはいけないんだ。

どうして?

香具夜の、まだぴんく色だったくちびるが訊く。真剣に。

だから、ぼくも答えた。真剣に。

世界に絶望があるということは――