いつもどおりに登校し、教室の自分の席に鞄を置いたとたんだった。
「征司、征司。あれ。あれさ、やばいよ」
幼馴染のひとり、孝一が、瞳を輝かせて、顔をしかめて、ひそひそと話しかけてきた。
意味がわからない始まり。
香具夜-02
「なにが」
問い返すぼくに顔を近づけ、孝一は妙な熱の篭った声で話す。
「香具夜だよ。香具夜。俺さ、きのうさ、学校からの帰りに、偶然、川原で寝転がってる香具夜を見たんだけどさ。この寒いのに、コートの一枚も着ないでさ、制服のまんま、横になってるからさ。なにしてんの、って訊いたんだよ。そしたらさ。香具夜、なんていったと思う?」
「さあ」
愛想でなく、ぼくはほんとうにわからないから訊き返した。
孝一のにきびだらけのしかめっ面が、熱を含んで輝く。
「『世界の絶望の重さを感じているの』ってさあ!」
ああ、またか。
ぼくはそう思っただけだったが、孝一の本題はここからだった。
ぼくの幼馴染であるということは、必然的に香具夜の幼馴染でもある孝一は、いまさら香具夜の電波な言葉を、朝一の話題になんて持ってこない。日常でしかないからだ。
持ってきたということは、そこに、非日常のなにかの力が働いたということだ。
孝一の鳶色の瞳が、息苦しいなにかの熱を持ってぼくを、ぼくを通り越して香具夜を見つめる。
きのう、会った香具夜を。
「俺さ。俺、その言葉を聞いたとたんに、なんかさ。こう、なんかさ。ずきん、って、からだが、疼いたんだよ。ぶあって、熱が上ってきたっつうのかな。とにかく、なんか、すっげぇ堪らない気持ちになってさ。危うく、襲いかかるところだったよ」
「へえ」
ぼくは気圧されたようにうなずいた。
孝一の瞳はぼくを見ながらぼくではなく、記憶のなかの香具夜を見つめているから、ぼくの気のない演技を見抜きはしない。
そのまま、寒い季節だというのに、まとわりつく夏のような熱気を放ちながら、ぼくにきのうのことをしゃべり続ける。
「こう、セーラー服一枚じゃん?胸の形とか、足の形とかさ。はっきり見えて、それが妙になまなましく、いきなり、ぶあって。頭んなかじゅう、それでいっぱいになったような感じになってさ。こう」
言いながら、孝一はあたりの様子をきょろきょろと窺う。だれも自分の話を聞いていないか、確認しながら、早口でぼくにまくしたてる。
香具夜は、美少女だ。
こんな田舎にいるのはもったいないといわれる、超越者のような美を持っている。
日に焼けない青いまでに白い肌に、潤んだ真っ黒い大きな瞳、すっと通った高くも低くもない鼻筋、血でも塗ったような赤いくちびる。
輪郭がはっきりしすぎていて好き嫌いはわかれるだろうが、それでもだれもが美少女だというだろう、そういう顔立ちをしていた。
幼いころからこうだった。だれもが、つと振り向く、もう一度見てしまうような、魅力のある、妙な色香の漂う顔立ちをしていた。
こんな田舎には、まるきり不釣合いな。
その美の魅力を支えていたのが、昔から続く、あの、電波な思考回路だ。
香具夜は一種の白痴だと考えられていた。
頭の中身が決定的に足らない代わりに、美貌を与えられたという、伝説のようなひとびと。
そうはいっても、学力になんら欠点があるわけではなく、香具夜はテストを受けさせれば、それなりの点を取った。
高校も、ぼくと同じところに通っている。
村から通える、村の出身者ならだれもが通う、偏差値こそ高くはないものの、れっきとした高校に。
だが、口からついて出る言葉は、常にひとには理解不能なものだった。
香具夜は、その名のとおり、月から来た子どもなのだと、だれもがうっかり信じるような。
その香具夜の幼馴染のぼくはといえば、とびきりの美少年というわけでも、とびきり醜いせむし男というわけでもなく、どこにでもいる、田舎の高校生だった。
だれに覚えられるような特徴も持たない顔立ちに、背格好。
ヒーロー向きの見た目ではない。
それをいえば、香具夜はなにかのヒロインなのかと、そして、ぼくは香具夜のヒーローになりたいのかと問われそうだが、どれも答えは、否、だ。
とにかく、香具夜には日常を超越したものを想起させるなにかがあり、それがきのう、ぼくの幼馴染のひとりを襲ったと。要はそういうことだった。
幼馴染といったって、世帯の限られた田舎の村で、強制的にいっしょに遊びまわるほかなかった、それだけの仲だ。
もちろん、香具夜も。
孝一はすでにじゅうぶん近づいている顔を、もっと近く、鼻息が臭うほどの距離まで詰めてきた。
「おまえさ。おまえと、香具夜って。もう、やったの?」
これが、孝一の本題。
どういう思考回路か理解不能なのだが、村内の子どもの間では――いや、おとなの間ですら、ぼくと香具夜は昔から、付き合っていることになっていた。
それほどまで親しくしていたつもりはないのに、だれもが、ぼくを香具夜の恋人として扱う。香具夜を、ぼくの所有物として。
「やるって?」
わかっていて、ぼくはうんざりした声で訊ねる。孝一が、ち、と舌を鳴らす。
「とぼけんなよ。わかってんだろう。セックスだよ。セックス。もうおまえ、香具夜のなかに、突っ込んだのかって、訊いてんの」
田舎の人間に、言葉に遠慮するという思考回路はない。都会に憧れる子どももしかり。
都会に出て、都会の人間と付き合って、初めて気がつくのだ。
自分の言葉が、どれほどあけすけで裏がないかということに。
日本人なら、みな、裏を読まなければいけない、遠まわしな言い方をすると思っているのは、都会しか知らない人間と田舎しか知らない人間だけだ。
もちろん、そういうときもあるだろうが、だいたいは、頭を回す必要のない、直接的な言葉で話をしてくれる。
親しさは関係ない。
そういう話し方しか知らないのだから、しようがないのだ。
「してないよ。その話は嫌いだって知ってるだろ。ぼくは香具夜とは関係ない」
できるだけ孝一の熱気に絡められないように、少しずつからだを離しながら、ぼくはうんざりした声音を作る。いやそうな顔。
「ぼくは電波な女は嫌いだ。付き合うなら、年上の、賢い女がいい。香具夜とは幼馴染だけど、それだけ。終わり」
またまた。
言葉にしなくても、表情がありありと孝一の言葉を伝える。
「そんなこといって」
ほら。
「香具夜と話ができんのは、おまえだけじゃんか。いまやおばさんたちにもお手上げ状態の香具夜をうまいこと扱えるのは、征司だけだって、だれだって知ってるんだぜ」
「猛獣使いは猛獣と付き合ってるとか、そういう話だよ。おまえらの話には根拠がない」
「まあ、おまえはそう思ってるかもしれないけどさ。香具夜はどうなんだよ。幼馴染ってんなら、俺だってそうだけど、俺らに対するのと、おまえに対するんじゃ、完全に態度違うぜ。昔はいっしょに遊びまわった仲だけどさ。いまも付き合いがあるのって、おまえくらいだろ」
それは孝一たちが性に目覚めて香具夜を遠巻きにしだしただけで、香具夜から離れたわけではない。
そもそも香具夜はあまり周囲に注意を払うタイプではないから、孝一たちと昔はよく遊んだとか、いまは遠巻きにされているとか、思いも至っていないだろう。
だからだれに対する態度にも、なにも変化なく、いつまでも、あの電波なまま。
ぼくは顔を完全に孝一から背ける。
そろそろ、このまとわりつく熱気がうっとおしい。
生きているということを、あからさまに主張する、この生気そのものとでもいうべき、熱波が。
臭気が。立ち上る、動物の本能が。
ぼくは。
「お終いお終い。話がそれだけなら、もう知らない」
顔を背けたぼくに、孝一が顔をしかめる。
「あのなあ。俺は、忠告しにきてんの。おまえ、もうちょっと、ちゃんと香具夜のこと見てろって。あんな無防備なことやってると、いくら田舎でもさ。最近は変なやつとかも出るし、そのうち、襲われて、散々な目に遭わされるとか。あり得るんだぜ」
「襲われるって」
ぼくはいやな顔をしたまま、社会生活を営む動物の礼儀として応答を返す。
だが、それだけだ。感情は反応しない。
いや、反応はしているか。
襲われてしまえばいいのに。
「香具夜はさあ。口を開けばああだから、俺らなんか、いくら顔見たって、なんとも思わないけどさ。でも、その俺がだぜ?あんな、すんげえ気持ちになるってことはさ。赤の他人から見たら、香具夜って、すっげぇいいエモノかもしれないじゃんか。顔もからだもよくってさ。やるだけの人間なら、それでじゅうぶんだろ?」
一段と声のトーンを落としてこそこそとまくしたてる孝一に、ぼくは声のトーンを落とさない。ふつうのひそひそ話の声で、憤然という。
「下品なことばっかりいうやつだな。そんなに香具夜がいいっての?あんな電波女が?」
「だから。俺らはそうだけど、外の人間はどうかわからないってことだよ。俺はいやだけどさ。ほら、町のやつらなんか、よく、香具夜に告ってるじゃんか。全員、ふられたって話だけどさ。あの電波がいいって、しつこく迫ってるやつだっているんだぜ」
「正気を疑うな」
ぼくは吐き捨てるように言う。
孝一の声が、ぼくの怒りに触れ、ぼくに媚びだす。
自分が口にしていることが倫理観の低い、汚い話だとわかっているのだ。自分は正当な人間であろうとしている。
悪だと名指されることは、田舎にあっては死を意味している。
「俺もそうだけどさ。世の中には、酔狂な人間がいっぱいいるってこと。なかには、汚い人間だっているんだぜ?征司だって、世のなか善人ばっかだと思ってるわけじゃないだろ?」
「そりゃそうだけど」
ぼくは不承不承といった感じでうなずく。孝一の瞳に喜色が浮かんだ。
ぼくはすぐに釘を刺す。
「けど。それとこれとは別。香具夜のことは香具夜になんとかしてもらうか、気になるならおまえがどうにかしろよ。ぼくに面倒を押し付けられるのはごめんだ」
「面倒ってさあ」
「違うのかよ」
おまえ、付き合ってんだろ。
孝一の表情が、言葉より雄弁に告げている。
ぼくがいくら否定しようと、もう、これは完全に世界の決まりごとみたいに、だれもが頭から信じ込んでいる。
そして、ぼくにいう。香具夜をどうにかしてくれと。
ぼくはそのたびに否定するが、田舎に暮らす流儀もわきまえているので、否定しっぱなしで放ってはおけない。
そんなことをすれば情のない人間だといわれて、親が、家族が非難される。
ひどくすれば、村から弾かれる。
たとえ思春期の反抗期の盛りの子どもだろうと、そんなことに容赦を加える村人ではない。
そして、そんなふうにしておけないのが、田舎に生まれ育った人間というものなのだ。たとえ、どんなふうにホルモンが働き、おとなに反抗せよ、と促しても。
それを知っているぼくは、こうして、香具夜のとなりに座る。
面倒でもそれが、ぼくをここまで育ててくれた親に対する恩返しだと考えている。
そんなものどうでもいいが。