どういうわけだろうも日常になると、疑問に思わなくなる。
あさごはんの時間
ということはまったくなく、今朝もどういうわけだろうと首を捻りながら、三枝鷹秋-さえぐさたかあき-は目を覚ました。
どういうわけだろう。
昨日の夜、ベッドに入ったとき、ベッドにいたのは鷹秋ひとりだった。大きな体をシングルベッドに収めて、鷹秋は眠りについた。他人の入る隙などない。
それ以前に、鷹秋はもろもろあって他人の気配に敏感だ。たとえ夜、熟睡しているように見えたとしても、一事あれば即座に飛び起きる。
はずだが、ここ最近、その自分に自信がなくなっている。
それというのも、これというのも。
「ふにゅ…」
大柄な鷹秋で、いっぱいのはずのシングルベッド。
その、隅っこに、落ちそうになりながらもしぶとく、寝ている青年がいる。
青年とはいえ、寝ている顔は幼く、まだ少年と言っても通じそうな面立ちではある。
だがとりあえず。
「あんた、俺より先に寝たよな…?」
寝ている人間に、訊いたところで答えは返らない。
今にも落ちそうなのに熟睡するという離れ業を披露するこの青年は、凄腕のスパイとしての訓練を受けたとか、現代に生き延びた忍者の末裔だとかいう、納得の経歴の持ち主ではない。
ごく普通の――いや、あまり普通ではない――売れっ子俳優だ。
顔がいいだけではなく、演技派として鳴らしていて、実力は若手でもトップクラスだと言われている。
ここ最近、どのクールでも必ずどこかのドラマで主役を張っていたり、映画に出ていたりする。
八黄楊那由多-やつげなゆた-という、どこからどう訊いても芸名な本名の持ち主は、ゆえに多忙を極めていて、いつでも眠い。
家に帰ってくると、食事も半分寝ながら、風呂も半分寝ながら、鷹秋に手伝ってもらってどうにかこなして、どこかで電池が切れて、ばたんきゅう。
その『ばたんきゅう』した那由多を、鷹秋はいつでも、那由多自身のベッドに放りこんで、それから自分のベッドに入る。
ここまで完璧。
それなのに、朝になると、いつもいつでも、鷹秋の隣に那由多が寝ている現実。
だから、鷹秋はそれほど鈍いわけではないし、たとえ熟睡していたとしても、ベッドに誰かが忍んできたら、目が覚めて当然なのに。
朝まで気がつかないとか。
目が覚めて、初めて、首を捻るとか。
「…いい加減、自信がなくなるんだよな」
鷹秋の肩書はいろいろあるが、とりあえず、その中には『ボディガード』も含まれている。正規ではないが訓練も受けたし、会社の中では実力派で鳴らしてきた。
だからこそ押し付けられた、このわけのわからない『仕事』だったりするが。
「…っと、いけねえ」
ぼんやり考えこんでいる暇はない。鷹秋の朝は忙しい。
ことも間々ある。
特に、こうして那由多が帰ってきている日は。
鷹秋は苦労して那由多を乗り越え、ベッドから降りた。
落ちそうになりながらもしぶとく眠り続ける体をベッドの中央に入れてやって、簡単に身支度を整える。
今のところ、他人から見ると異様なその服装は、スーツだ。
とはいえ、外に出かけるのでもない限り、上着は脱いでいる。シャツは糊が効いていてぱりっとしているが、ネクタイもしていないし、鷹秋としては十分、崩したスタイルだ。
洗面所に行って軽く顔を洗い、髭を当たる。
そこまで身支度を整えてから、キッチンに行くとエプロンを掛けた。
身支度を整えながら、今日の朝食のメニューを一通り立ててしまっているから、迷うこともなく、冷蔵庫から材料を取り出す。
いちいち冷蔵庫の中を確認しなくても、在庫の状況は把握している。プロとかアマとか関係なく、それが鷹秋のデフォルトだ。
卵にハム、レタス、トマト、フレッシュチーズ……。
「ああ、そうか。ニンジンがあったな」
スープ用の鍋を煮立てながら、隣でハムエッグをつくる。
鷹秋からするとほとんど生に近い状態が、那由多の好みだ。食べるのが下手で食べこぼすくせに、とろとろと垂れる黄身を啜るのが好きなのだから、世話が焼ける。
ハムエッグを乗せた皿に、レタスとトマト、フレッシュチーズのサラダを盛り、仕上げに、甘く煮付けたニンジンのグラッセを飾る。
みじん切りにした玉ねぎとジャガイモ、ベーコンを入れたスープは、材料の細かさもあってすぐに火が通る。
コンソメを入れて五分も煮たてれば、あとは塩コショウで味を調えて出来上がり。
キッチンから食欲をそそるにおいが流れて、小さくはないマンションの部屋を埋め尽くしてゆく。
聞こえたかすかな音に、鷹秋は一瞬、振り返る。しかし、すぐにまたコンロへ向き直った。
「…………ひどいですよう、鷹秋さん………」
朝の第一声が、駄々を捏ねる情けないそれだ。わずかに掠れているのは、起き抜けで粘膜が渇いているからだろう。
寝癖も気にせず、よれよれのパジャマ姿でカウンタの向こうに立った那由多が、ぐすりと洟を啜る。
毎朝まいあさ思うが、芸能人の私生活というものは、どこまでも幻滅に満ちている。イケメンだ二枚目だと騒がれれば騒がれるだけ、余計に。
まあ、そもそもが鷹秋は那由多に夢を見ていなかったので、幻滅するというか、むしろ液晶画面の向こうの姿に首を捻るのだが。
「僕を置いて、ひとりで起きちゃうなんて……っ。いっしょに寝てくださいよう………」
これでいて、確か二十歳を過ぎていた。
だが、年齢詐称も甚だしい子供ぶりで、那由多は愚図る。
「あんた、今日、これから仕事だろう。朝飯も食わずに出かけるわけにゃいかんだろうが」
スープを皿に盛りながらすげなく言った鷹秋に、那由多が口を尖らせる。
「そもそも僕、鷹秋さんが来るまで、朝食なんて摂ったことないですし……そんな、気にしなくても」
「そんな生活で倒れるから、俺がいるんだろうが」
鷹秋はきっぱりと言い切って、スープ皿とおかずのプレートをカウンタに置く。ついでに、食パンをトースターにセット。
「……今日も、朝から豪勢ですね」
引きつった声で、那由多はつぶやく。
「どこが豪勢だ」
鷹秋なら、これにあと、ウインナやソーセージなどの肉関係を大盛りで付け足すところだ。これでも、食が細い那由多に気を使っているのだ。
「しかも、ニンジン………」
那由多はニンジンが嫌いだ。さらにはピーマンも苦手だ。ついでにシイタケも食べられなくて、まあ、とにかく、子供が食べられないものは大体食べられない。
カウンタの前で凍りついている那由多の前に、鷹秋は焼き立てのトーストとバターを置く。
「あんたのためだぞ。仕事が忙しくて十分に休みが取れないんだから、せめて栄養はきちんと摂れ」
「………つまりこれは、鷹秋さんの愛ですね。ハーダーアンドハーダーな」
引きつったまま、那由多はあさってなことをつぶやく。
食べるのが下手で、よくこぼす那由多用の食事エプロンを手に、鷹秋は肩を竦めた。
「これ以上なくソフトだろうが」
「ソフトな愛なんて要らない……ハードに愛されたい………」
「あのな」
キッチンから出て、カウンタの向こうで凝固したままの那由多の傍へ行くと、鷹秋はため息をついた。
「家政夫に愛を求めるな、雇用主」
「…………………」
那由多が、じっとりした目で鷹秋を見上げる。
芸能人に小柄な人間が多いというのは本当のようで、画面の向こうでは大きく見える那由多も、実際に目の前にすると鷹秋の胸あたりまでくらいの背丈だ。
そうやって小柄なのに、忙しさにかまけての不健康な生活のせいで薄い肉付きで、実に華奢な骨組みになっているから、ますます子供じみて見える。
生活能力皆無の那由多は、売れっ子になるとともにさらに生活が不健康になり、何度か倒れた。そのたびに極秘で入院しては点滴で凌いでいたらしいのだが、ますます売れっ子になり、そうそう入院もしていられなくなった。
そこで投入されたのが、『家政夫』。
那由多の家に住みこみ、彼の生活と健康を年中無休で支える。
それって俺の休みは?な労働基準法無視の契約を結んだうえで、選ばれたのが鷹秋だ。
ボディガードとしての訓練も積み、警備のプロでもある鷹秋は、ありとあらゆる意味で、無敵の家政夫さんだった。
一言断るなら、鷹秋の勤める会社は警備会社であって、家政婦派遣会社ではない。
しかしある日会社に行くと、きょうからおまえかせいふ、と言われて問答無用で飛ばされた。それまで、一介の警備員に過ぎなかった鷹秋だというのに。
しかも、住みこみだから家いらないわな、とかなんとか言われて、もともと住んでいたアパートは勝手に解約されてしまい、まとめた覚えもない自分の荷物がすでに運び込まれていて、強制的に那由多のマンションに同居。
現在に至る。
「…………鷹秋さんは、もっと自覚を持ったほうがいいと思います……」
「なんの話だ。それより、愚図るな。さっさと食え」
じっとりとつぶやく那由多の首にエプロンを回し、食べる準備を整えてやる。生活に必要なものは鷹秋が適宜揃えることになっていて、このエプロンももちろん、鷹秋が選んだ。
赤ちゃん用品店の幼児コーナーで見つけた、食べこぼしキャッチポケット付きの超便利商品だ。ごはんを『まぐまぐ』する、くまのあかちゃんのプリントが異常に愛らしいのも、ポイントだ。
「そういう鷹秋さんも、僕としては悪くないんですが……」
「へいへい」
適当に流す。
鷹秋はカウンタに据えつけにしては大きく、骨太なスツールを引いた。相撲部屋御用達の店で買った、耐荷重と頑丈さが売りの逸品だ。
座ると、鷹秋は手を伸ばし、傍らに立つ那由多を抱き上げて膝に乗せる。利き手と反対に背が来るように座らせて、トーストへと手を伸ばした。
バターを伸ばし、そこに器用にハムエッグを乗せて完成。
「ほれ、口開けろ」
「……あー……」
しけった声とともに、那由多は口を開ける。鷹秋はそこに、ハムエッグ乗せトーストを添わせた。
「はぐはぐ…」
「きちんと噛むんだぞ。顎が弱るからな」
「………はい」
くどくど言いながら、鷹秋は給餌する。
黄身に到達する前に一度トーストを置くと、鷹秋はフォークを取ってニンジンのグラッセに刺した。
「ほれ」
「………ぅ」
「口開けろ、ご主人様」
口元に運ばれたオレンジ色にあからさまに顔を背けた那由多を、鷹秋は膝を揺らしてあやす。引きつって涙目になる那由多に、あくまでしつこくニンジンを差し出し続けた。
「………っやっぱり、愛がハーダーアンドハーダーです………っふぐ」
「よしよし」
熱い吐息とともにつぶやいた口に、ニンジンを押しこむ。
口を開けたらそこに突っこまれるとわかっていて、それでも言わずにおれないことがあるのは、なんだか不憫だ。
半分泣きながらニンジンを咀嚼している那由多の瞳が、虚ろになっていく。忙しない呼吸は、熱っぽく潤んだ。
「ほれ、もう一口」
「……ふぁ」
那由多の表情が、どんどん怪しくなる。
那由多は言われるままに口を開いて、まだニンジンの滓が残っている舌を差し出した。ぽろりと欠片が落ちる。
「まったく、あんたは…」
新しいニンジンを押しこんで、鷹秋は仕方ないと肩を竦める。どうせエプロンをしているし、まだパジャマだ。衣装のときなどにやられるよりずっといい。
「ふ……っ」
必死でニンジンを咀嚼する那由多は、腕を伸ばすと鷹秋の首を引っ掻いた。
「おい」
「………こんな、朝からいじめられるなんて……」
眉をひそめた鷹秋に、那由多は虚ろにつぶやく。
「………すてきすぎます………」
「ああはいはい……」
鷹秋は、俳優・八黄楊那由多に夢を抱いていなかった。
ドラマなど観ないから、存在を知らなかったのだ。
観るようになったのは、雇われるようになってからだ。
あまりに印象ががらりと変わるもので、驚く以上に唖然とした。
那由多はMだった。
はっきりと自覚のうえで、下僕というか、奴隷願望を抱いていて、『ご主人様』にいじめられることを日々求めている。
その那由多は現在、求めもせずに自分が『ご主人様』の地位に就いている。
鷹秋という『下僕』を抱えているのだが、この際、もうそれでいいからいじめてくれればなんでも、というくらいには、飢えている。
なにしろ、テレビの中の那由多は爽やかで、ちょっと意地悪なところすらある二枚目俳優だ。
ひとをいじめることはあっても、無闇といじめられることはないし、いじめられたからと言って素直に『はあはあ』してもいけない。
欲求不満が溜まっているのだ。
しかも、その欲求不満を女の子と遊ぶことで晴らしもしない。
根っからゲイなのだ。
「いい子だから食うことに集中しような」
「………ワルイコでいいですぅ……」
嫌いなニンジンを無理やり食べさせたごときでスイッチの入ってしまった那由多に、鷹秋はため息をつく。
警備会社に入社していただけでなく、自主的にボディガードとしての訓練にも参加しただけあって、鷹秋はひとをいじめることに快感を見出す性質ではない。
嫌いなものでも食べさせるのは、純粋に栄養面を気にしているからで、いじめようとしてのことではないのだ。
だがいじめられたくていじめられたくてうずうずしている那由多は、ひどく些細なことでも大げさに受け取ってしまう。
「いじめてくれるなら、ワルイコになりますぅ………それはそれとして、ぉええ」
熱い息を吐きながら蒼白でえづく那由多は、本気でニンジンが嫌いだ。嫌いなものを無理やり食べさせられて興奮することはするが、気持ち悪いのも堪えられない。
「仕方のねえやつだなあ、あんた…」
「ふぁ……っ」
熱い息を吐くくちびるに、鷹秋は自分のそれを押しつけた。舌を差しこんで、口の中を探る。
「んんん…………っふぁあ………っ」
鷹秋のキスは、しつこくねちっこい。朝だというのに、気分があっさりベッドに戻る。
震えながら縋りついた那由多の口から、飲みこみきれない唾液がこぼれた。それでも、鷹秋はくちびるを放さない。
さらに深く舌を潜らせて、口の中を隈なく舐めた。
息が苦しくて涙のにじんだ那由多が意識を失う直前に、鷹秋はようやく離れた。
「ふぁ…………っ」
大きく震えながら懸命に息を継ぐ那由多の口から溢れた唾液をきれいに舐め取ると、鷹秋は食べかけのトーストを取った。
「ほれ、口開けろ」
「……………」
那由多は涙目で、鷹秋を見つめる。しつこいキスで、ニンジンの味も感触もきれいに洗い流された。
だが同時に、嬲られ過ぎて痺れているのだ。食事どころではない。
「ゆた。口開けろ」
やさしい声で再度促され、那由多は震える。やさしいのは要らない。いじめてほしいのだけど。
那由多は口を開くと、痺れる舌を伸ばした。
「よしよし」
鷹秋は満足げに頷いた。
口がうまく動かない那由多は、パンの滓を散らかしながら食べ進める。口の周りが黄身だらけになって、鷹秋は笑った。
「ほんとに、あんたって食べるのがうまくねえよなあ」
「…………」
演技しているときには普通に、というより優雅にすら見える食べ方をするから、役者というのはどこまでも恐ろしいと鷹秋は笑う。
黄身がひと段落したところでトーストを置くと、鷹秋は舌を伸ばし、那由多の口の周りの黄身をきれいに舐め取った。
「………ん………」
その鷹秋の舌へと那由多が舌を伸ばす。鷹秋は素直に噛みついてやって、また口の中を探った。
「ふぅうう………っんぅうう……っっ」
那由多がどうしようもなく震えて鷹秋に縋りつく。その下半身は、さんざんに煽られてパジャマを押し上げていた。
「は………っぁ、たかあきさん………っ」
足をもぞつかせながら切なくつぶやく那由多に、鷹秋はサラダを刺したフォークを差し出す。
「食事くらい、きちんとしような」
「……………本気で自覚してください、鷹秋さん………っ」
興奮というより、目の前が暗くなる心地で、那由多はがっくりと鷹秋へと身をもたせかける。
「こら、きちんと食え」
「……………」
いじめられたいのは、那由多だ。
しかし、鷹秋はいじめでこんなことをしているのではない。
彼のデフォルトがこうなのだと――彼を派遣した上司は言っていた。
もともとノーマルな性向で、これまで男と付き合ったこともなければ、付き合うことを検討したこともない。
迫られても躱していたし、――那由多が迫っても、普通は躱される。雇用主とそんな関係になる気はない、と。
それでいながら、この態度。
「………むしろもう、いじめてるんだって言ってください………」
「だから、食事くらいは落ち着いてしろ」
「……………」
鷹秋はまじめにサラダを差し出す。
那由多は上がる息を堪え、震えるくちびるを開いた。うまく受け止められない口からは、ぼろぼろと食べかすがこぼれる。
そうやって口の周りが汚れると、またキス。
キスと食べ物が交互にやって来るのが、ここ最近の那由多の『うちごはん』だった。