「あー。オキやん」
のんびりした声が聞こえて、俺は横になったまんま手だけ上げた。
顔の上には、教科書乗っけたまんま。
コノハナサクラ
のんびりした声に相応しい、のんびりした足音が近づいてきて、膝を抱えて傍らにちょんまり座るんがわかる。
「オキやー、起きやー。ぁはは」
「ぁはは」
自分で言った寒いネタに、自分で笑ったのは、ハチヒ。
大学の同期だけど、何人かいる友人の中では、いちばんのんびりしてて、いちばん穏やかな性格。
ぎゃあぎゃあ騒がしいやつらん中で、俺にとっては癒し的な存在。
ハチヒといると脳みそフル回転せんでも、ごく自然体の俺でいられるんで、たぶん、ふたりでいるんがいちばん好きな相手。
「なにしてん?」
訊かれて、俺は顔に乗っけた教科書を取らないまんま、手を振った。
「お昼寝。ほら今日、ぬくといし。桜も満開できもちいーから、自主休講決めたー」
「えー。サボりはいかんよー、オキ」
注意しながら、ハチヒの声は笑っている。
俺も笑って、たぶんハチヒの顔があるへんで手を振った。掠めたそこを基点に辿って、軽く前髪を引っ張る。
「そう言うけどな、ハチヒ。きみもこの時間いるいうことは、自主休講っしょ。同じ穴のムジナやん」
言ったら、ハチヒは地面に膝をついて、へちょんと座りこんだ。
「違うよー。ぼくは教授が勝手に休講にしてんから、暇になったん。べんきょーするつもりだったから予定もないし、これからどうしよっかなーって思ってたら、オキ見えた」
「あー。なるほど」
頷いて、俺はハチヒの教科を――まあ、考えるまでもないわな。
「したら、俺もサボリじゃないわ」
「え?そうなん?自主休講って、サボりじゃないん?」
「いやいや、ハチヒ」
俺はつまんでた髪から手を離して、ぷらぷら振る。
「思い出してな?きみと俺、次っておんなし講義」
「あー………」
言うと、ハチヒはちょっと考えこむ間を開けた。
沈黙が降りて――
沈黙。
沈黙。
ちん……………………ちーーーーーーーーんって、ほんと寝るし俺。
「ハチヒ。しゃべって。俺寝る」
「寝るんやったら、しゃべっただめでしょ?」
「うん。子守唄にするから気にしないで」
「うたえばいん?」
「いや、うたわんでいいよ」
ここでうんとか言うと、ハチヒはほんとにうたい出す。
いや、音痴いうわけでもないから、いいけど。
「うたわんでいいから、しゃべって」
「てもなー」
もそもそ言いつつ、ハチヒが身を屈めるのがわかる。地べたに頭を擦りつけて、教科書を乗っけたまんまの俺の顔を覗きこんで来た。
「顔見えんと、しゃべりづらい」
「ああ」
主に自己主張が激しいがゆえに、とにかく無為にしゃべりまくる他の友人なら気にしない、以前に、とっとと取り去られてるんだけど。
礼儀正しく、教科書を取らんでいてくれたハチヒの言葉に、俺は顔に手をやった。ちょこっとだけ、教科書を持ち上げる。
「あ、オキやん」
「うん、オキですー」
きょん、と目を丸くして呼ばれて、俺は教科書を腹の上に移動させた。
「えっとー、いつぶり?」
「んっと」
訊くと、体を起こしたハチヒはちょこっとだけ眉をひそめて上目遣いになり、考えこんだ。
「朝ね。今日は違う講義多いなって、廊下で話して、別れた」
「うん」
「んでね。お昼に、外のカフェで素うどん食べてるとこ見た。あれって、食堂からの持ち込みなんな?」
「うん」
「そんで、今会った」
「うん」
「なんで教科書?」
「ん?」
訊かれて、俺は腹の上の教科書を軽く叩く。
「花避け。意外にな、顔に花びら当たるんが邪魔でな。優雅に花見で昼寝やーんって思ったんけど、寝られんから」
「えろ本持ってないん?」
「うーんー。今日は持ってない」
嘘だけどな。
いやうん。真っ昼間の大学の構内で、桜の木の下でお昼寝いうのも見つかるとアレなのに、えろ本で顔を隠してたら、さすがに説教食らうからなー。
なので今回、えろ本は鞄の中で待機。
そうとは顔に出さない俺に、ハチヒはちょこんと首を傾げた。
「素うどん以外に、なんか食べた?」
「ううん」
「いかんよ。素うどんだけだと、ビタミンとタンパクが不足するし。天ぷらとか、サラダとかなんか、いっしょに食べんと」
「うん。なんだな、聞いたことあることばっか言われてるけど。ハチヒ、おかんみたい」
言うと、ハチヒはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「そうなん?」
「うん。おかんが言いそう」
「そうなん………」
ひどく戸惑った顔で、ハチヒは体を伸ばす。上を向くと、桜を眺めた。
舞い散る花びらの行方をわずかに追ってから、俺を見る。
「したら、オキってぼくのおかんなん?」
「ん?」
きょとんとすると、ハチヒは困ったように眉尻を下げた。ああこの顔、妙にかわいい。
つい見惚れて返事もなんもしないでいると、ハチヒはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「ぼく今、オキにいっつも言われてること、まんま言った」
「ああ、道理で。すっごい覚えのある、馴染みの台詞ばっかり聞いたと思ったわ」
ほっそくてやわい体をしてるハチヒの好物は、素うどんだ。んで、飯っていうと、素うどんばっかり食べようとする。
そこに、天ぷら足したり、サラダを追加したり、プリン上げたりするのは、俺だ。
そんときに、言ってる。
ビタミンやらタンパクやら不足して倒れるし、素うどんだけ食べてたいかんよーって。
「そうかー………一本取られたな。ハチヒや思って、油断した」
「ん」
思わずつぶやくと、ハチヒはきょとんと瞳を瞬かせた。
「ぼくに、油断したらいかんの、オキ」
訊かれて、考える。
油断して、まずいことってなんかあるかな、ハチヒ相手で。
他の友人相手だと、確実にまずいな。ワガママ押しつけられるし、なんかとばっちりとか平気で食らうし。
でも、ハチヒ相手だったら――
「まずいことないな」
「ふぅん」
つぶやくと、ハチヒは小さく鼻を鳴らした。
ひょいと上を向いて桜を眺め、瞳を細める。
気持ちよさそうだ。顎撫でたらいかんかな。
ねこじゃないけど、なんか、ハチヒだったら、ねこみたいにごろごろ言えそうな気がする。
言われんでも、気持ちよさそうな顔したら、それだけですっごい――
「っ?!」
ひょん、と下を向いたハチヒが、そのまんま顔を落として来た。
それほど急で慌ただしい動きでもなかったのに、避けるいうことを思いつかない。思いつかないまんまに、見つめている俺の口に、ちゅっと。
「………………ハチヒ」
「うん。だいじょぶ、オキ。まずいことない。油断してて」
「………いやいやいや」
してていいのかな、油断。
ちょっとばかり呆然と見つめる俺に、ハチヒはほんのり頬を染めて、笑った。
それ見てすぐに、ああきれいだな、だったらどうでもいいか、とか。
考えるから、まあ、油断しててもいいのかもしれんけど。
「油断してたら、どこまでされるん?」
「それは、油断の度合いなー。でも気がついたらオキの隣に、オトコの奥さんいるかもしれん」
「はあ、そりゃ」
のんびりおっとり、穏やかなのが、ハチヒだ。
しかし気がつくと、油断した俺の嫁さんになってんのか。
「意外に行動力の塊なんな」
言うと、ハチヒは笑ってくちびるに指を当てた。
「気がつかんとこ?オキはぼくに、油断しとこ。したらぼくの思うつぼだし」
「はあ………」
思うつぼって、俺の嫁さんになってることがか。
笑うハチヒを見つめ、その頭上から降り注ぐ桜の花を眺め、俺はかりかりと腹を掻いた。
なんだかな。
この陽気と桜の効果で、いろいろ騙くらかされてるような気はするけど。
「したらとりあえず、油断しとく」
「うん。してて」
言った俺に返って来る笑顔がとびきりにかわいいからもう、なんかいいんじゃないかなとか。
考えてるからもう、深いこと気にしないでもいいんじゃないかな。
なにしろ俺は言われるまでもなく、ハチヒには油断して、警戒心も頭の回転も、だるだるに緩んでるしなー。