仁が目を覚ました場所は内装からして、家賃の安さだけが売りだとわかるぼろアパートだった。
VARCORACI
第1部-第2話
畳は焼けて黄色くなっているだけでなく、擦れて毛羽立っている。壁は今時ないような砂壁で、しかもところどころが激しく剥げていた。
そして容赦なく狭く、天井が低い。江戸間で六畳の広さだから、息が詰まりそうなほど狭く感じられる。
とはいえ仁がこれまで転々としてきたねぐらとなにが違うといって、大した違いはない。つまり、大変馴染みのある雰囲気だった。
だが、ここは仁のねぐらではなかった。
同じようなぼろさ加減ではあるが、まず、部屋の中が清潔に片付いている。
どうしようもない男の一人暮らしの常として、ゴミが同居人と化している仁の部屋に対し、この部屋にゴミらしいゴミは落ちていなかった。
そして、鼻が鈍感な仁でもわかるほどに、なにか得体の知れない…エスニックな香りが空間を埋めていた。
だがなにより、ここが自分の部屋ではないと断じる根拠として。
「おや、起きたある」
布団に寝かされた仁の体に馬乗りになっていた青年が、悪びれる様子もなくつぶやいた。
「どけてめえ」
仁にしては穏やかに言った。
実は起き抜けは、仁がもっとも人畜無害な時間だ。頭の回転がこれ以上なく落ちているので、なにかあっても腹を立てるまでに気が回らないのだ。
天井の照明が目に入って、視界が悪い。
どうやら外はすっかり暗くなってしまったようだ。
こんな時間まで昏睡していたことが驚きでもあるが、単に昏睡から睡眠へと移行していただけのような気もする。
ごく不明瞭な声音で言って手をやり、仁は青年の体を押しのけた――少なくとも、押しのけようとした。
しかし、これでもかと筋肉布団を着込み、分厚くなっているうえに高身長というひとを威圧するために生まれてきたような仁と比べると、大人と赤ん坊ほどの体格差がある小柄で細身な青年は、小揺るぎもしなかった。
「いやんある」
艶っぽい声で、しなしなと言う。
「意外に積極的あるねおまえ。そんなふうに触られたら、吾は感じちゃうある」
「…」
二重三重、四重五重に聞き捨てならない言葉を吐かれて、仁はもう一度目を閉じた。
まだ年端もいかない少年だったころ以来のことだが、鳩尾がずくんずくんと痛んでいる。よほど重い拳を入れられた証拠だ。
そして途切れる直前の仁の視界は、自分に拳を叩きこんだのが、この青年だと認識している――。
「なんだと?」
鬼瓦も泣いて逃げ出すような形相になって、仁は問い返した。
体の上で、羽のように軽い青年が、くねくねと身を捩らせる。
「ああん、堪らないある。まさか声まで好みだとは思わなかったある。吾は実に良い拾い物をしたものあるよ!」
「黙れてめえ!」
叫んで、仁は起き上がった。
手をやっても小揺るぎもしなかった青年だが、仁が起き上がると素直にころんと転がった。
「なに気色悪いことぬかしてやがる!ホモかてめえ!」
ホモとゲイとオカマは仁が嫌いなものスリートップだ。
なぜ嫌いといって、なぜか彼らからやたら好かれるからだ。
仁はごく単純に、巨乳が好きだった。もうひとつ欲を言っていいなら、下半身に余計なものがついていなくて、穴だけあるのがいい。
だがその趣味嗜好によらず、なぜか仁は同性愛者に愛された。兄貴としても、ネコとしても。
そして、肝心の趣味嗜好である女性からは嫌われた。暴力的で、短気で、金払いが悪いからだ。
吼えた仁に、ゆらりと起き上がった青年はうっとりと笑った。
男が趣味ではない仁ですら、一瞬、言葉を忘れて見惚れるほど、その笑みは妖艶で、下半身直撃の色っぽさだった。
まじまじとよく見てみれば青年は、こんなぼろアパートにいるのが果てしなく似つかわしくないほど、艶やかに美しい容貌をしていた。
よく、男の美しいのを女より美しい、などと言うが、女より美しいとかいう次元の問題ではなかった。
人間離れしている。
濡れたように艶やかに輝く黒い髪は、やわらかにウェーブを描いて肩に掛かる。
ばっさばっさと長く量の多い睫毛に覆われた瞳は髪と同じ黒で、こちらも水気たっぷりに潤んで輝いている。仔猫のように黒目がちで、吸い込まれそうな気がするほどだ。
すっと通った鼻筋は細く、きれいな三角を描く。薄めのくちびるは血を刷いたかのような紅色で、そこから白く健康的な歯とぬめるピンク色の舌が覗くと、無条件で吸い付きたくなった。
そのひとつひとつ完璧なパーツが、透明なほど白い肌に規律正しく収まり、黄金律を奏でて究極の美を描き出している。
それが、目の前で微笑む青年だった。
「吾は別に男も女も問わないある」
その究極の美貌で、青年は実にがっかりなことを言った。
いや、言っていること自体はまあいい。これだけの美貌をもってすれば、男だろうが女だろうが変わらないだろう。等しくじゃがいもかかぼちゃだ。
残念なのは、青年の語調だった。
いまどき、もはやギャグとしてすら通じない、古式ゆかしい「中国人喋り」。
それを、ごく気が抜けるような妙にはしゃいだ口調で使うのだ。
日本人でないのはひと目見ればわかるが、いったいだれなのだ、彼に日本語を教えた教師は。
なにをどう考えて、こんな残念な結果を生み出したのだろう。いっそ悪意すら感じるようではないか。
雰囲気ぶち壊しもいいところだ。
まともな話し方をすれば、色事にとことん疎い仁ですら、頭の中が夏になって腐りきって、言われるがままになったろうに。
ホモもゲイもオカマも嫌いでも、とってもがっかりする仁に構わず、青年はうっとりと仁の胸板に手を伸ばした。指先まで完璧な美が、無骨な仁の筋肉を服の上から撫でる。
青年の血を刷いたくちびるから、うっとりとしたため息がこぼれた。
「咬みごたえがありそうな分厚い筋肉…食べでがありそうな、大きな体…血の気が多そうな顔つき…」
うっとりとつぶやかれる声音は潤んで情欲をそそられかけるが、仁は懸命に瞳を瞬かせた。
言っていることがおかしくないか?
なんだかまるで、食卓に供する肉の品評でもやっているような。
青年はじゅるりと唾液を啜り、べろりとくちびるを舐めた。
「ああ、早く血が飲みたいある…!おまえ食生活偏ってそうあるからな。ものっすごくどろっどろの、こゆい血がたっぷり流れていそうある」
「待て」
背筋にぞわりと悪寒が走り、仁は尻をもぞつかせた。
寄って来ようとする青年の絶世の美貌を無残に鷲掴みして、押しのける。
「なにを言っている?」
ぞわぞわする背筋を抱えて閉口しながら訊いた仁に、青年は明るく言った。
「おまえは吾の拾い物ある!吾には一割貰う権利があるあるよ!」
「どあほう!」
反射で叫んで、仁は掴んでいた頭を放り出した。
おとなしくころん、と転がった青年を、膝立ちになって見下ろす。
「だれが拾いもんだ!俺は落ちてた覚えはねえぞ!」
百鬼夜行も泣いて土下座する形相で怒鳴った仁に、しかし、青年はへらりと笑った。
「吾が落としたある。覚えていないあるか?」
「てめえ」
やはり、記憶に間違いはないらしい。
このほっそりと華奢な青年が、仁を沈めたのだ。そしてどうやってかは謎だが、このぼろアパートまで連れてきた。
「そういうのは拾いもんに入らねえんだよ!なにが一割だ!俺のほうに慰謝料を寄越しやがれ!」
吼えた仁に、安普請のアパートの壁が四方八方からどんどんと叩かれた。ついでに、うるせえぞぼけ!と罵倒まで聞こえる。
しかし仁はそういうものに頓着するタイプではなかったし、目の前の青年もそのようだった。
「慰謝料あるか」
平然と言って、青年は口元に手をやった。
「女の子みたいなことを言うあるね」
「野郎!」
楽しげに言われて、仁の頭が沸騰する。なにも考えず、拳が突き出された。
ぱん、と小気味いい音がして、青年が片手で軽々と仁の拳を受け止める。
その麗しい美貌が曇ることも歪むこともなく、どこまでも涼しそうだ。
あり得ない現象に、仁は目の前が真っ赤に染まった。
「っがああああ!!」
雄叫びを上げると、受け止められた拳に渾身の力を込める。骨も折れよとばかりに容赦なく押した。
それなのに小揺るぎもせず、青年は逆に仁の拳を押し返した。
そして、真っ赤になって血管を浮き上がらせる仁に、うっそりと笑う。
「やっぱり、最高ある。おまえ血の気が多いあるね。はらぺこの吾に少しばかり寄付しても、罰は当たらないあるよ」
次の瞬間、仁の天地がひっくり返り、首筋に重い手刀が落ちた。
生半な力では筋肉に阻まれて息を止めることもできない仁の首を、十代の少年のように華奢な青年が一撃で仕留めた。
本日二度目の意識の混濁を起こして、仁は無様に潰れた。