「…なにもんだ、おまえ。化けもんが」
今度はわりとすぐに目を覚まし(それは枕元の時計で確認できた)、仁は呻いた。
うつぶせに転がされた体の上に、再び青年が馬乗りになっている。
VARCORACI
第1部-第3話
いやな体勢なのだが、どう押さえつけられているのか、青年を跳ね除けられない。
仁の手を掴んで拳を封じた青年は、身を屈めて耳元にくちびるを寄せた。
「その通りある。吾はVarcoraci。誇り高き闇の眷属ある」
「…ば?」
青年の言葉が聞き取れず、仁は眉をひそめた。
そんな仁には構わず、青年はたおやかにやわらかに言葉を続ける。
「吾が名はAlytos Anthesteria Iudicium Idhra Westenra Verzeni Caul Elga…」
「ちょっと待て!」
訳の分からない言葉を延々言われて、仁は悲鳴を上げた。まるっきり聞き取れないのだが、それ以前に。
「どこからどこまでが名前だ?!」
訊いた仁に、青年はあっさり言った。
「Alytosから始まるすべてが名前ある」
そして、恐ろしく絶望的なことを付け足した。
「だいじょうぶある。吾の名乗りくらい、五分もあれば終わるあるから」
「五分?!」
普通、名乗りに五分はかからない。
二つ名があったとしても、どう引っ張っても、三十秒もあれば終わるものだ。
それが五分?!
「名前じゃねえだろそれ!」
ツッコんだ仁に、青年はやはりあっさり言った。
「なにを言うあるか。吾の兄弟には、名乗りだけで十分二十分かかる者もいるある。それに比べたら、五分くらい」
「それは名前じゃねえよ!」
叫んだ仁の言葉は実に珍しくまっとうなものだった。
しかし青年はごく不満そうに、鼻を鳴らした。
「だいたいそれじゃあ、どうやって互いを呼び合うんだよ!いちいち十分二十分かけんのか?!」
「そんなわけないある。愛称がちゃんとあるあるよ」
「それを言え!」
それすら聞き取れなかったらどうしよう、と思いつつ言った仁に、青年はごくあっさりと名乗った。
「ダー」
「は?」
やっぱり聞き取れなかったか、と思う仁に、青年が焦れたように言う。
「だから、ダー、ある。耳付いてるあるか?」
「…」
五分もかかる名乗りの、愛称がダー。
一瞬だ。
あまりに縮め過ぎだ。
というか、あの名前のどこをどう切り取ると、こうなるのだろう。それともまだ聞いていない名前の果てに、繋がるものがあるのだろうか。
外人の名前と愛称の関係ほど、日本人を悩ませるものはない。
考えるのをさっさと放棄して、仁は首を捻って背中に乗る青年、ダーを見上げた。
「それで、てめえはなにもんだ」
「耳付いてないあるね?それとも頭が悪いあるか?いいあるよ、気にしなくても。頭の悪いところも吾はすっごく好みある。血の巡りが悪いなんて好物件過ぎて興奮が抑えられないある」
気持ちの悪いことを極上のくちびるから吐き出して、ダーは微笑んだ。
「さっき言ったある。吾はただのしがないVarcoraciある」
「ば…」
やはり聞き取れない。
絶句する仁に、ダーは得意そうに胸を張った。
「もちろん、『しがない』というのは謙遜ある。順調に日本人魂を学習している吾は優秀ある!」
「それを自分で言ってる時点で学習してねえよ」
日本人なら、それがわざわざ謙遜だとは断らない。
謙遜しているときは大抵自慢しているときだとだれもが暗黙のうちに了解しているからだ。
そして、自慢されていることを承知のうえで、またまたご謙遜を、と一聴、持ち上げているかのような厭味を返すのが正しい日本人魂であり、礼儀というものだ。
どんなに喧嘩っ早く、短気で短絡的な仁でも、二十数年も日本人をやっていればそこらへんの空気感はいやでも掴んでいる。
ぼやくように言った仁に、ダーは首を傾げた。
「そうあるか?いんちょーは褒めてくれるあるのに。ダーは頭がいいって」
「それはたぶん褒めてねえよ、厭味だ百二十パーセント」
つぶやき、仁は身じろいだ。
いつまでも男に組み敷かれているのはまったく楽しくない。その男が、人間とは思えないほどの美貌を誇るとしてもだ。
いや、人間とは思えないのではなかった。
確かに人間ではないかもしれないのだ。
「それで、そのばなんとかってのはなんだ」
「Varcoraciある。なにって、VarcoraciはVarcoraciあるよ。太陽も月も喰らう、究極の生命体ある」
「…」
普通だったら、こんなことを言うのは頭のイカれたやつだと考える。
しかし、今日だけで二度も体験した、信じられないほどの膂力。その膂力を、無造作に振るう態度。
これでまともな人間だと言われたら、そっちのほうがイカれていると思う。
とはいえ、確かに人間離れしているのはわかるが、この間の抜けた口調を聞いていると、はいそうですか、と素直に受け入れたい気もまったくなくなるのだが。
むっすりと口を引き結ぶ仁に、ダーは無邪気に首を傾げた。
「ああいや、生命体は違うあるね。吾は生き物ではないあるし」
「…なんだと?」
「闇の眷属ある。基本、生きてないあるよ」
「…」
背中の上に乗ったダーは、驚くほど軽い。仁との体格差を考えても、あまりに軽すぎる。
背筋が凍えて、仁は唾を呑みこんだ。
ばからしいと思う反面、ダーの雰囲気にはそれを信じさせずにはおれないものがある。
「それで、その闇の眷属様は、俺をどうしようってんだ」
訊いた仁に、ダーは闇の眷属から想像できないほど、明るくはしゃいだ声で言った。
「血を飲ませるあるよ!吾ははらぺこある!」
「吸血鬼かよ!」
叫んで仁は起き上がった。意外にも、あっさりと起き上がれた。
拍子抜けすることもなく、ツッコミのために向き直った仁に、畳に転がったダーは不満そうにくちびるを尖らせた。
「違うある。Varcoraciだって言ってるあるー」
想像を絶するほどの色香を振り撒きながら言われたが、仁は動じたりしなかった。
「血を飲むっつったろうが!それが吸血鬼でなくてなんだ!」
「ちがうあるー。VarcoraciはVarcoraciあるよ!Varcoraciと吸血鬼はちがうものある!」
子供のように言い張る。
しかし仁は短絡的で、短気で、おまけに粗雑で大雑把な男だった。
「血を飲むんだろ?」
「そうある」
「じゃあ吸血鬼だ」
にべもなく言い切る。
ダーは瞳を過剰に潤ませて、膝立ちしている仁を見上げた。
「血を飲むだけじゃないあるよ。肉も喰うし、精も喰うある」
「雑食の吸血鬼だっていんだろ」
吸血鬼フリークを敵に回すことをきっぱり言って、仁は鼻を鳴らした。
「そんで、血を飲まれると俺も吸血鬼の仲間入りすんだろ。俺は絶対に血を吸わせねえぞ。人間止める気なんて、これっぱかしもねえんだ」
「知識が歪んでいるある!」
恐怖に引きつった顔で、ダーは叫んだ。
四方八方の壁が虚しく叩かれる。玄関扉が蹴っ飛ばされて歪んだ。
しかしふたりともまったく気にすることはない。
一方は筋肉ダルマの喧嘩玄人で、一方は人間外の化け物だ。
世界に恐ろしいものが少ない。
「ちょっと舐めたくらいで移るなんて、なんの性病と混同しているあるか!吾は病原菌じゃないあるよ!誇り高きVarcoraciある!そんな簡単に移るようなものじゃないある!返す返すも憎きはブラム・ストーカとその眷属あるよ!あんな歪んだ知識を世界に広めたおかげで、吾がどれほど苦労していることか!」
ブラム・ストーカの名前に、仁は半眼になった。
「やっぱり吸血鬼なんじゃねえか」
「ちがうある!」
叫んで、ダーは子供のように身もがいた。
駄々っ子のようなそれに、仁はため息をつく。腹を立てるのもばからしいような気がしてきた。
ばか力はほんとうのようだが、それ以外に恐れるべきなにかがあるようでもない。
警戒するほうがどうかしている。
緊張を解いた仁に、素早く起き上がったダーが縋りついた。
「おなかすいたある!」
「っ」
これ以上ないくらいの美貌で、なんと情けない台詞を吐くのだろう。思わず涙が滲みかけて、仁は慌てて洟を啜った。
この美貌で、この性格はどう考えても悪意だ。
信じたこともない神を呪う仁に、ダーは悲痛な顔になる。
「たまには輸血パックじゃない、消毒液臭くない新鮮な血液が飲みたいある!不健康にどっろどっろに濁った生の血液が!」
「てめえ、悪食じゃねえか?!」
普通、飲みたいのは健康的なさっらさらの血じゃないだろうか。そして望めるなら、男を知らない生娘の、穢れない血だ。
仁のように二重三重の意味で穢れきった男の血など、望まれるわけがない。
しかし、ダーは真剣だった。
「こんな、食いでのありそうな大きな体で、咬みごたえ十全の筋肉たっぷりつけて、不健康にどっろどろの血を持ってるなんて、おまえ理想的過ぎて吾は目が眩むあるよ!ちょっと血を舐めるくらい、けちけちするなある!」
正直なところ、一個も褒められている気がしない。
だれがそんな、食の品評会をされて悦ぶだろう。
しかもどうやら相手は悪食だ。
自分の顔相が、お世辞にも良くないことはいくら仁でも自覚している。
その仁を、これだけ発情しきった瞳でうるうると見つめることが出来る時点でどう考えても頭がおかしいし、まともじゃない。
そして、より正確に言うなら、食欲だ。
相手は捕食動物だ。仁を喰らおうと狙っているのだ。見た目がどんなであれ。
敵だ。
逃げることは仁の流儀ではなかったが、頭のおかしい輩を相手にしたときには、逃げることも重要だとわかっていた。
なにしろ、殴ろうにも殴らせてくれない相手だし。
立ち上がって背を向け、逃げ出そうとした仁を、ダーはごく簡単に捕まえて畳に転がした。
「逃がさないある!こんなトキメキ、そう滅多にないあるよ!おまえくらい理想的な男なんてそうそういないんだから、タダでは帰さないある!吾に一割払っていくあるよ!」
「一割も払って堪るか!それからそれはトキメキじゃねえ!腹の虫だ!」
馬乗りになって叫ぶダーに負けじと叫んで、仁は暴れた。
その体をやすやすと抑え込み、ダーは必死な感情を浮かべた顔を近づける。
「これはもう、恋あるよ。吾はおまえを決して逃がさないある。ぜったいに血を飲ませてもらうある」
「恋じゃねえだろ!食欲と性欲混同してんじゃねえよ!」
サイコストーカと化したダーに、仁は必死で身もがく。ダーの顔がごく間近に迫った。
「それある。おまえ、ちょっと溜まってないあるか?」
唐突にして失礼な言葉に、仁は歯を剥きだした。
余計なお世話というものだ。
だが、仁がなにか言うより先に、ダーがにんまりと笑った。
「吾が気持ちよくしてやるある。溜まっているものを全部吐き出せば、おまえもラッキー吾もラッキー」
「なにがだ?!」
いやな予感に震えて叫んだ仁に、ダーは血を刷いたようなくちびるをべろりと舐めた。
「さっき言ったある。吾は精も喰らうあるよ。まずはおまえの精を貰うある。なに、気持ちよくしてやれば人間なんてイチコロある。地獄の快楽を与えてやれば、おまえから血を飲んでくれと頼むようになるある」
凄絶な笑みをこぼすダーを、仁は凝然と見つめた。
ダーのくちびるが近づいてくる。
「吾の中に、おまえの精を存分に吐き出すある」
吸い付いてきたくちびるは冷たく、吐き気がするほどの死臭がした。