ぴぴぴぴぴ、と耳元でけたたましい音が鳴り響く。
「っせえ!!」
低く叫んで、仁は拳を飛ばした。がちゃん、と無残な音がして、騒音が鳴りやむ。
安堵して、仁は布団に潜りこんだ。
VARCORACI
第1部-第4話
まだ素っ裸で眠るには寒い季節のようだ。布団が気持ちいい。いや、なんだかいつもの自分の布団より、よほど肌触りがよくないだろうか。
機嫌よく、仁は再び眠りの国へと舞い戻ろうとする。
「なにするあるかおまえ、乱暴な」
「…」
耳に吹きこまれた声は艶やかに潤み、妖しく笑っていた。仁の体が素直に反応して、もうひとつの脳みそと呼ばれる場所がむくりと起き上がる。
しかし体の反応と裏腹に仁の感情のほうは思いきり逆撫でされて、ガーゴイルより凶悪な顔が重犯罪レベルにまでしかめられた。
「それこそ弁償してほしいあるね、まったく」
「どうせ百均だろうが」
反射で言い返し、仁は重い瞼を開いた。
カーテンのない(ことに今気がついた)部屋の中には陽が燦々と差しこみ、まったく眠るに適さないほどに明るくなっている。
自分がさっき叩き潰した時計を見やると、なんと七時だった。
絶望的な話だ。
昨日の夜、なんだかんだあれやこれやで、眠りについたのは三時を過ぎていたはずだ。四時間も寝ていない計算になる。
いや、それ以前に。
「ちょっと待ててめえ。なんで起きてる」
「ん?」
起き上がってシンクで顔を洗っていた、そんな生活がとことんまで似合わない美貌の青年、ダーが無邪気に朝陽の中で振り返る。
夜闇の中で見ても凄艶な美貌だったが、陽の光の下でもまったく色褪せることがない。おそろしいまでに美しい。
上にシャツ一枚しか羽織っていないところがまた、不健全に艶めかしくてそそられる。
そして涙に咽びたくなるほど、このぼろアパートという生活空間が似合わない。
「なんでって、吾はこれから仕事に行くあるから。もっとおまえを構い倒したいのは山々あるが、」
「そういう話じゃねえよ!」
昨晩、さんざん喘がせてやって、最後には声が掠れきっていたはずなのに、たかが四時間弱の睡眠で、ダーの声は元の潤いを取り戻している。今朝も元気に下半身直撃だ。
しかしながら。
「てめえ吸血鬼だろ?!なんで朝っぱらから起きてやがる!しかもばんばん日ぃ浴びやがって!」
ツッコんだ仁に、ダーはやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「またその話あるか。吾は吸血鬼じゃなくVarcoraciある。あともうひとつ教えといてやると、世界に吸血鬼は多くいても、朝起きられないとか日の光を浴びると死ぬとかいう軟弱な輩は、ブラム・ストーカとその眷属の創作した吸血鬼一族くらいある。吾らはこれでいて、朝早くから起きて夜遅くまで活動が可能あるよ。闇の眷属たるもの、勤勉は美徳ある」
「絶望的な話だな!」
闇の眷属、の響きから連想される浪漫を片っ端から打ち崩す発言に、仁は吐き捨てた。
別に浪漫など抱いていないが、なんだか腹立たしくはある。
起き上がって布団の上にあぐらを掻くと、仁はむさい胸毛の生えた胸をばりばりと掻いた。
手を伸ばして畳に脱ぎ散らかした服を探り、煙草を取り出す。だが、煙草の箱は見つかったのに、ライターがない。
「つかてめえ、ほんとは吸血鬼じゃねえんじゃねえか」
服のポケットというポケットを漁りながら腐した仁に、ダーは呆れたようなため息をこぼした。
「だから吾はVarcoraciであって吸血鬼ではないと言ってるあるよ。おまえほんとに頭悪いあるねえ。そこがまたものすごく好みあるが」
「っせえな。てめえに気に入られたかねえんだよ」
ポケットから飛び出して畳の上にあったライターを発見し、仁は煙草を咥えると火を点けた。
煙を吸うと、どんな状況でもなんだか安心感がある。
状況を忘れて緩んだ仁は、豪胆だとかそういう以前に単にいろいろ鈍いだけだ。
いつの間にかシンクから仁の元へと忍んできたダーが、妖しく笑いながら仁の股間へと手を伸ばす。止める間もなく、爪の先まで光り輝くように美しい手が、朝らしい状態のそこを撫でた。
「…っ」
「すばらしいあるね」
うっとりと吐き出される声だけで、育ちそうだ。
極限までの美というものは、淫蕩に崩れても、だらしないとか情けないとかいう感情を抱かせないものらしい。
どこまでも艶やかに微笑み、ダーは血を刷いたようなくちびるをべろりと舐めずる。
「昨夜あれだけ搾り取ってやったあるに…。たかが数時間でここまで回復するなんて、おまえ逸材あるよ」
「黙れ」
黒歴史を超えて漆黒歴史に言及されて、仁は苦々しく吐き出した。
ホモもゲイもオカマも嫌いで、その誘いのことごとくを(暴力的に)お断りしてきた仁だ。
一度だって彼らの要望通り、手塩にかけて育てたかわいい息子を、野郎の汚いケツになんて突っこんだことはないのに。
いや、女相手にだってそっちの穴に用事があったことはない。これでいて仁は、ごくノーマルな嗜好の持ち主なのだ。
それが、吐き気を催すような死臭漂うキスでどういうわけか火が点いて、気がつけばこの美貌を体の下に組み敷いて、かわいい息子を。
思い出すと、胸がむかむかする。
気持ちよかった、またやりたい、と息子が言うのがまたもう、物凄い裏切りだ。これまであんなに大事にしてやったのに、たかが一度の異世界探訪で目覚めるとは。
さらに言うなら、ごく久しぶりに吐き出すものを存分に吐き出せて、体全体が軽くなって楽なのがまたもうまたもう。
――中に出して、全部、
喘ぎながら乞われて、腹が膨らむくらい注いでやった。我ながら溜めこんだものだと呆れるが、そのすべてに付き合いきったダーも並ではない。
そして、翌朝これだけ普通なのが普通ではない。
「久しぶりに飽食だったある…吾に付き合いきれるなんて、おまえこそ人間あるか?」
「うるせえっ」
巧みな手つきで揉みしだかれて、このままだと昨夜の二の舞だと、仁は拳を飛ばした。
一晩を共にした相手であろうと容赦しない。その薄情さが仁だ。だから女に嫌われるのだ。
だが、昨日のまるきりくり返しで、ダーは軽い音とともに仁の拳を受け止めた。
のみならず、さらりと甲を撫でてその拳に口づける。ぬめる舌が覗き、ごつごつした節を舐めた。
「ってめえ」
「あれだけヤったあるに、吾に血を飲ませなかった人間なんて、おまえが初めてあるよ。よくもまあ、正気を失わないものある。物堅い坊主でも無理あるに」
「坊主食ってんじゃねえよ、悪食が!」
叫んで、仁は拳を振った。
ダーの手から逃れ、ついでに尻も退いて距離を取る。力で片を付けられない以上、距離は大切だ。
警戒心剥きだしの仁を笑って、ダーは物欲しそうな瞳になる。
「なんでそう、けちるあるか。血のひと舐めくらい、男ならどんと赦すある」
「近づくな、病原菌が」
物欲しそうな瞳をされると、全部供したくなる自分がいる。
仁は顔をしかめて煙草を吸った。
つくづく、美貌というものはおそろしい。
「ひどいあるね!」
大して堪えてもいない顔で言い、ダーは未練なく立ち上がった。
「さて、おまえと遊ぶのもこれくらいにしておくある」
「…」
その台詞はラスボスの、第二形態フラグだ。これから本気を出すぞ、という。
ざっと警戒レベルを引き上げた仁に、しかしダーは背を向けた。
鴨井に掛けてあるハンガーからシャツを取って着替え、下着とズボンを穿く。
「…なにしてんだ」
マヌケな質問を飛ばした仁に、ダーはゆるやかにウェーブする髪にさっと手櫛を入れながら振り返った。
「なにって、着替えてるある。さっきも言ったあるが、吾はこれから仕事ある。遅刻しても怒られないあるが、吾は遅刻と無断欠勤はしない主義ある」
「ちょっと待て、化けもん」
ごく素直に罵って、仁は眉間を揉んだ。
なんて勤勉な主義だ。外国人とは思えない。とかいう問題以前に。
「仕事だと?なんで仕事なんかしてんだ?」
昨夜からずっとダーは主張しているが、彼はば…なんとかで、いわば吸血鬼だ。
吸血鬼が朝からする仕事など、いったいなにがあるというのだ。しかも、遅刻も無断欠勤もしない吸血鬼とは。
吸血鬼浪漫を追い求める見も知らぬ人々のために訊いた仁に、訊かれたほうのダーは呆れた顔になった。
「仕事しなきゃ金が手に入らないあるよ。金が手に入らなければ生活していけないある。このアパートだって電気水道だって、全部金がなければ使えないあるよ。わかるあるか?」
幼稚園児でも相手にしているかのように言われて、むっとする。言っていることは正しいかもしれないが。
「だからってなんで働くんだよ?おまえ、ば…なんとかっていう、化けもんだろうが?」
「Varcoraciある。おまえの言いたいことはよくわからないあるが、なんでVarcoraciだと働かなくていいと思っているあるか?言っておくが、闇の眷属だからって中空から金が取り出せるわけじゃないある。錬金術は別の種族の特性あるよ。吾らは地道に働いて金を稼ぐある」
「絶望的だな!」
吸血鬼ではないが、そのお仲間である日本の闇の眷属は、確か「試験もなんにもない」気楽な生活を送っていたはずだ。妖怪いいとこ一度はお成り、だ。
顔をしかめて吐き出し、仁は短くなった煙草を窓の桟で消した。そのまま、窓を開けて吸殻を外に放り出す。
「おまえのマナーも絶望的あるな」
笑って言うダーを上から下から眺め、仁は思考を巡らせた。
着ている服は、タイトなワイシャツと、チノパンだ。ごく軽装と言える。
少なくとも、物堅い企業に勤めているわけではなさそうだし、こんな朝早くからやっている水商売もない。
そうなるとどこかの店でバイト…だとかいう想像をすると、あまりの似合わなさにまた、勝手に涙がこぼれそうになる。
就いている職業の想像がつかず、仁は首を傾げた。
「なんの仕事してんだ?」
わからなければすぐ訊く。そこに衒いがないのは、仁の数少ない美徳だ。
嘲笑うこともなく、ダーも素直に答えた。
「看護師ある」
「吹いてんな!」
思わず叫んだ仁の言葉をどう解釈したのか、ダーは頷いた。
「まあ、確かに。看護師とは言っても、小さい診療所で人手がないあるから、看護師以外の仕事もなんでもするある。でも契約上は看護師あるよ」
「そういう意味じゃねえよ!」
こんな美人看護師がいたら別のところが病気に、以前に。
「てめえが看護師だと?!どこだそのイカれた病院は!」
「なにがイカれてるか訊きたいところあるが…」
「なにもかもがだ!」
続けようとした言葉をにべもなく遮った仁に、ダーはやれやれと肩を竦めた。
「ならば見に来るあるか?吾がきちんと看護師として働いているところを見せてやるある」
「おう、見てやらあ!」
叫んだのは、考えてのことではなく、ほとんど反射だ。
意外なことに、その仁の返事に、ダーはきれいな美貌をこれ以上なくきれいに咲かせて、うれしそうに微笑んだ。
瞬間見惚れた仁に、すぐにその笑顔を消して、ダーは怪訝そうに首を傾げた。
「まあ、おまえの仕事の都合がいいならいいあるが…。そもそも、おまえ、仕事しているあるか?」
「っ」
痛いところを突かれて、仁の形相が不動明王像を超えた。
外国からやって来た化け物(自称)が朝から勤勉に働いているというのに、勤勉が売りの日本人である自分が定職なしでぶらついているとか。
「余計なお世話なんだよ!」
怒鳴って顔を背けた仁に、ダーはいやな予感を抱かせる笑みをこぼした。
「いいあるよ。なんとも吾にとって好都合ある」
ちょっと早まったかもしれない、と思ったが、時すでに遅しだった。