仁は鼻が利かない。鈍いのだ。部屋の中がごみ溜めになっていても、平気で深呼吸の出来る男だ。
対して、ダーはひどく鼻が利いた。犬と呼んで差し支えない。もちろん、本人は犬呼ばわりされれば盛大に文句を言うだろうが、それくらい鼻が利く。
とっくの昔に駆けだして行ってしまって、姿も見えない男の後を追うのに、ダーの鼻はうってつけだった。
VARCORACI
第2部-第2話
仁のような鼻が利かないものだけでなく、人間ならだれしもが追尾不可能な残り香を、ダーは鋭敏に察知して追うことが出来た。
まさに警察犬もかくやのダーの鼻だ。
「…いい加減、慣れてきた気がするな」
仁はぼそりとつぶやいた。
ダーの鼻が警察犬なら、仁の鼻は鼻炎状態だ。実際には鼻炎ではないが、においを感じないという点で、鼻炎状態となんら変わらない。
その仁の鼻でも――
さすがに、あまりの悪臭に吐き気を覚えた。
ダーが男を追って入ったのは、下水道だったのだ。
都会の地下に張り巡らされた迷路のような下水道の中は、さすがの仁でも吐き気を覚えるような悪臭ぶりだった。
さてもなれば、ダーなどは。
「…さすがに、においが紛れるあるねえ」
辟易したように言ってはいるが、その美貌に翳りはない。
主に仁のためだけにある懐中電灯に照らされた顔は、時折ひくひくと鼻を蠢かしてにおいを確認し、進む方向を決めている。この悪臭の中でも目的のにおいを辿れるとか、すでに警察犬を超えた気もする。
そうやって、どこまでも打ちのめされるような下水道の中を彷徨うこと、すでに一時間――
人間の適応力のすばらしさを、仁は噛みしめて――も、いなかった。
だがとりあえず、なにもにおいを感じなくなっている。こみ上げていた胃液も落ち着いて、おそらくそのうち深呼吸も出来そうな気がする。人間の適応力以上に、仁の適応力は並外れているから、きっと可能だろう。
「ほんとにいんのかよ」
一時間も暗闇を、それもじっとりじめじめした悪環境の中を彷徨えば、さすがの仁でも気が滅入った。
しかも、自分はダーの後をついていっているだけだ。
今、自分がどこにいて、どうやったらどこに進めるのかがさっぱりわからない。
ダーとはぐれたら終わりだ。
そんないやな緊張感を強いられ続けると、決して我慢強いとはいえない仁の精神は、すでにこの追跡行に飽きて投げ出したくなっていた。
投げ出さないいちばんの理由はとりもなおさず、ここでダーとはぐれると、地上に帰れないからだ。
「においは続いているあるよ。しかし、めちゃくちゃに走り回っているある。無駄な経路を辿っているのは確かあるね」
ダーの声はいつもと変わらない。
腹が立ってしようがないほどに落ち着いていて、脳天気で、ついでに言えば蕩かされそうなほどに美声だ。
鼻をひくつかせてそう答えてから、ダーは含み笑いで仁を振り返った。
「仕様のない男ある。飽きたあるね」
「…」
まさにその通りだが、そうだと頷くのは腹立たしい。
仁は光の差さない地下道でそれをやるとまったくしゃれにならない顔で、ダーを睨みつけた。
「腹が減った」
まっとうそうなことを訴えてみる。
だが実際のところ、空腹は現実だった。
そもそも、出かける前がすでにお昼近く。
ついでに言うと、ここ最近の生活スタイルは、朝食を摂らない。軽く缶コーヒーを引っかけて、出勤。そしてお昼になったら、仕出し弁当を三、四人前平らげる。
だから、仁は今朝起きてから今まで、なにも食べていない状態だった。
こんな悪臭の中で食欲が湧くかという話になると微妙だが、少なくとも血糖値が下がっているのは確かだ。
「…そういえば、そんな時間あるね」
コンクリに覆われた天井を見上げ、ダーが納得したように頷く。
「道理で、吾も腹が減ったわけある」
「…」
仁は黙って、胡乱な目でダーを見た。
この吸血鬼は、隙あらば仁に血を寄越せと迫る。そして、血を飲まれて堪るか、と拒むと、じゃあ精を寄越せと押し倒してくる。
押し倒してくると言っても、ツッコむのは仁のほうだ。ダーにそこらへんの抵抗はないらしく、ごく自然に仁を咥えこむ。
そうやって、ほぼ毎晩のごとく攻防はあり、その結果として、出会ってからこちら、ほぼ毎晩、ダーと仁はヤっていた。
それも、精を喰らうと言うだけあって、ダーは天井知らずに仁を求める。一回二回で終わることなどまったくない。いつもいつも、もう滓も絞り出せない、というくらいまでヤって、失神するように眠りにつく。
それを、毎晩。
回復力は仁もまた、化け物並だった。
それをして、クズなどにはお似合いの二人だと言われていたりするのだが。
今日も飽食だったある、というのがダーの口癖だが、そのわりに、ダーはすぐ、腹が減ったと宣う。
そうやって食べる量は、仁より二回りは小さい体ながら、巨漢の仁に勝るとも劣らない。
昨日もまた、焼肉屋から帰ると、風呂に入る間も惜しんで攻防があり、ダーは思う存分、仁の精をその身に受けた。
昨日は特に、肉とにんにくという精力増強剤を食べたがために、仁はいつも以上に旺盛だった。――連日、精根尽きるまでヤっていてさらに旺盛になれるのだから、もはや仁を人間にカテゴライズする意味がわからない。
朝起きて、一風呂浴びたダーはほくほく顔で、こんなに食べたら吾は太ってしまうある、とかなんとか言っていたはずだ。
それがもう、腹が減ったとは。
「おまえの胃はブラックホールと繋がりでもしてんのか」
「ああ、よくわかったあるね。正しくはブラックホールが吾の胃あるが」
皮肉にまともなぼけを返されて、仁は眉間を揉んだ。
なんで真顔でまじめな声でそう、ぼけを重ねるのだ。
「それにしても、さすがに食べ物なんて持ってないあるね…。地上に飯を食いに出たら、その間にヤツを見失うかもしれないし……」
「そもそもなんでヤツは逃げ出したんだよ」
今冷静になって思い返してみれば、錯乱ぶりは半端ではなかった。
入って来たときから、覚悟が出来ていたという顔でもなかったが、それにしても尋常ではない。
たかが内臓を売りに来ただけのはずだ。命に関わるような場所をどうこうするわけでもあるまい。体に傷はつくが、そんなことは承知のうえのはずなのに。
訊いた仁を、ダーは呆れたように見返した。
「そんなことはヤツに訊くあるよ。なんで吾に、人間の考えることがわかるなんて思うあるか。吾が人間を理解することは、百万億年経ってもないある」
「頭の悪そうな数字が出たな」
わざわざ胸を張って主張することでもない。
どこまでも気が滅入る話だ。理解することがない以前に、理解する気がないということだ。
そっぽを向いて、仁はケッと吐き出す。
別に理解してほしいわけではないが、理解したと言われたらふざけるなと叫ぶだろうが、ここまで堂々と理解しないと宣言されるのも腹立たしい。
「ん。ちょっとここで待っているある。いいもの見っけたあるよ」
「おい?」
どこまでもマイペースを貫くダーは、複雑な感情と闘う仁をその場に留め置くと、たったか脇道に入っていった。
はぐれたらヤバい。
だが、待っていろと言われた。戻る気があるということだ。
はいはいと言うことを聞いてやる義理はないが、逆らうのも面倒だ。
新たな葛藤と闘う仁の元へ、ダーは五分ほどで戻ってきた。
「ほら、食べるあるよ」
手に鷲掴んだそれを、ダーは気軽に差し出した。
懐中電灯に照らして、仁はしばらく黙りこむ。
ツッコミたいのだが、なにをどこからどうツッコんだらいいのかに迷う。口が二つ三つ欲しい。二つ三つあった時点で、ダーのことをなんだかんだと言えない化け物の仲間入りという、また悩ましい現状があるのだが。
仁の沈黙をいいように取って、ダーは重々しく頷いた。
「人間は一日食べないと、すぐ死ぬあるからね!吾らは呑まず食わずでも百年くらい平気あるが…」
「だったらたまには絶食してみせろや!」
百年平気なら、毎日まいにち、餓鬼のように腹が減った腹が減ったと主張するなというのだ。
叫んだ仁を、ダーは子供でも諭すように見る。
「極限状態の話あるよ。食べられるときには食べる。どんな生き物だって、それは基本ある」
まあ、確かに基本だと認めてもいい。
だが。
「まあ、吾は生き物じゃないあるが。ほら、獲れたてぴちぴち新鮮ある。鮮度が落ちないうちに食べるあるよ」
さらにぐい、と差し出された手を払い落すことすらおぞましく、仁は体を捻ってその手を避けると、だん!と足を踏み鳴らした。
「ドブネズミなんざ食えるか!!!」
そう、こんな地下の暗闇にあってすら造形美の極致を失わないダーの手に握られていたのは、成猫ほどの大きさもあるドブネズミだった。下水道住まいのその毛皮はどこまでもべったり汚く、おそらく毛皮だけでなく中身も。
「そんなもん食ったら、さすがに俺だって死ぬわ!!病気の温床じゃねえか!!」
いくら仁が些事に構わない男だとはいえ、限界はあった。
ドブに棲むドブネズミを、獲れたて新鮮ぴちぴちだとか言われて差し出されても、食べる気になどなれない。それも、火を通すことすらない、生の状態で。洗うことすらもなく!
怒鳴られたダーのほうは、わけがわらかぬげにきょとんとしているから、ますます情けなくなる。
「意外に繊細あるね……」
どうしてそこまで意外そうに言われなければならないのだろう。
ダーが自分をどう考えているかについて、一度徹底的に議論したくなった仁だ。
「てめえも看護師を名乗るなら、人間のことについてもっと勉強しやがれ!てめえら化けもんならネズミ食おうがミミズ食おうが死にやしねえだろうがな、人間様はもっとずっと繊細で脆弱なんだよ!そんなバイキンだらけのもん食ったら五秒で死ぬわ!!」
さすがに五秒は言い過ぎかもしれない。
だが、考えたくもないほどおぞましい苦しみ方をして死ぬことは確かだ。
どこまでも麗しいばかりの手に握られたがために、いっそうおぞましさを増したドブネズミの死骸を見つめ、ダーは不可解そうに首を捻った。
「腹が減ったというわりに食い物の選り好みをする……人間は不可解の極致ある」
「食った先に地獄が待ってるってわかってんのに、食うか!」
叫んだ仁に、ダーは肩を竦める。
「でも獲っちゃったある。このまま捨てるわけにはいかないあるよ。吾は無益な殺生はしないある」
「てめえが食え。そんな貧相なネズミだって、それなりに血はあんだろ」
吐き出す仁は、そっぽを向いて口を引き歪めた。
確かにネズミの大きさは成猫ほどもあったが、その体はがりがりにやせ細って骨が浮き上がっていた。
「都会なんざごみ溜めみたいなもんなのにな。意外に餌がねえのか」
それとも、ゴミの管理が徹底されてきて、ネズミの餌が少なくなってきているのか。
つぶやいた仁に、ダーが脳天気に言った。
「ああ、血ならもう飲んだある。すっからかんあるよ」
「食い差しか!!」
ツッコミを間違えた感がある。
ネズミが痩せていたのは元からの話ではなく、単にダーに血を飲み干されたかららしい。
おかしいとは思ったのだ。成猫ほどの大きさになれるのに、どうしてそこまで骨と皮ばかりに痩せているのか。
餌が豊富だからこその大きさのはずで、その痩せ細りようは、ごく最近に環境の変動があったとしか思えない。
だが、単に血を飲み干されただけなら。
生物の体の八十パーセントは水分だ。
それは骨と皮ばかりにもなるだろう。
「吾とおまえの仲ある。遠慮はいらないあるよ」
「てめえが言うな!」
とぼけた返事を返したダーに叫び、仁は足を踏み鳴らした。
どんな仲だとか、ツッコみたいが決してツッコんではいけない領域だ。そこをつつくともれなく大怪我をする。
「ま、それにしてもこれくらいの血では、まったく腹は膨れないあるね」
「…」
改めて、仁は暗闇でもなお艶やかに朱いダーのくちびるを見た。
毎晩のようにあれやこれやをしている、その口で。
ドブネズミに齧りついて、血を啜ったとか。
「…念のために訊くが、ネズミを食ったのはこれが初めてか」
「まさか」
即答で、絶望的な返事が返ってきた。
「長く生きていればいろいろなことがあるある。ネズミも食ったし、ミミズも食ったし、げじげじも…」
「そこまででいい。皆まで言わなくていい。ていうか口を縫い閉じろ。もう二度としゃべるんじゃねえ」
その口で、毎晩あれやこれや。
考えると、さすがの仁でも胃がむかついた。
ダーの口づけはいつでも、死臭に塗れて吐き気を催すようなものだったが、根拠がしっかりとあったのだ。
「歯ぁ磨けよ」
言った仁に、ダーは真っ白な牙を子供のように剥きだした。
「もちろんある。毎日ヤスリで磨いているあるよ。牙のお手入れは吾らの常識ある」
なにかが違う。
だが、仁はそれ以上なにかツッコむ気力がなかった。
というかもう、どうでもよかった。
ダーが化け物であることは先刻承知で、常々さまざまな場面で思い知らされている。今さらネズミやらミミズやらその他ゲテモノを食っていたから、なんだというのだ。
歯さえ磨いていればいい。
――そう考える仁が、そもそもかなり頭のネジが常識外を向いているということに、自分で気がつくことはなかった。
「まあ、おまえが食べないなら仕方ないある。これは吾が食べるとして…そうなると、できるだけ速やかに迅速に早急にヤツを捕まえるしかないあるね」
「そうしろ」
肩を竦めたダーは鼻を天井に向け、またにおいを嗅ぐ。すたすたと迷いもなく歩きだしながら、手に持ったネズミを口に運んだ。
ばりばりと肉を引き裂き骨を噛み砕くおぞましい音が、地下に響き渡る。
「さすがにぞっとしねえなあ……」
いい加減逃げ出したくなりながら、しかし、薬指に嵌められた契約がある限り、逃げても逃げ切れない。
悄然とダーの後をついていく仁に構わず、ものの五分ほどで、毛皮も骨も残さずにドブネズミを食べきったダーが、ぱちりと指を鳴らした。
「いいこと思いついたある」
つぶやくと、立ち止まる。
今度はなんだ、と距離を開けて見守る仁の前で、ダーは天井を向くと、名残りの血で赤く汚れた口を開いた。
「――」
「?」
仁は軽く頭を振る。
眩暈がした。
一瞬で過ぎ去ったそれに首を傾げている仁の前で、ダーはじっと耳を澄ます。
遥か彼方から、悲鳴と思しき音が聞こえたような気がした。
仁がそちらへ顔を向ける前に、ダーが快哉を叫ぶ。
「よし、捕まえたある!」
得意そうに叫ぶと、足場の悪い暗闇を軽やかに走り出した。
だから、はぐれたらヤバいのだ。
仁も慌てて後を追う。
燃料切れの体はすぐに音を上げたが、へたばっている場合ではない。はぐれたら先に待つのは確実に死だ。それも考えうる限り最悪の。
やがてそれでも仁がダーを押し止めるために声を上げようとしたところで、ダーは立ち止まった。
反射的にぞっとして、仁はさらにその手前で足を止める。
ぞっとした原因はわからないまま、懐中電灯で先を照らして、仁はさらに後退した。
地を埋め尽くす、ドブネズミの群れ。
折り重なり、もがきながら、それはひとつの大きな肉塊のように蠢き、そこにあった。
「…」
「よしよし、よくやったあるよ」
平然としているのはダーで、彼はそんなことを言いながらネズミの群れへと足を踏み入れる。
不思議というより不気味なことに、ダーの足元を開くように、とても身動きが取れそうにないネズミの群れは、さっと道を開ける。
開かれた先に、泡を吹いて失神する逃亡者の姿があった。
手術着は無残に食い散らかされているが、肌には浅い傷がある程度で、生きたまま食われることは避けられたらしい。
ダーは軽々と男を担ぎ上げると、足元で不気味に蠢くネズミたちに笑いかけた。
「ご苦労ある。あとで餌をやるあるよ」
ダーは化け物だ。
今さらドブネズミを使えたところで、なんの不思議があるだろう。
餌にもなって、下僕にもなる。便利以上に、微妙に不憫な生き物だと認識が改まった。
仁は天井を仰いで、ため息をついた。
とりあえず、目的を果たした以上は地上に出られる。
地上に出たら、飯を食って。
あとは忘れるだけだ。
忘れるのは得意なのだ。経験による学習を積まないのが、仁なのだから。