カウンタにクズが突っ伏している。
愛想と接客マナーを粉砕し反吐と混ぜ合わせたうえでごみ溜めに捨て去った挙句放火したクズだが、少なくとも常に体を起こして、事態に即応しようという気構えだけはあった。
そのクズが、カウンタから顔を上げない。
VARCORACI
第2部-第3話
「おい、死んだか。とうとう生きるのを止めたか」
「…」
声を掛けた仁にも、一言も返らない。
一言も!
「おい…」
自分の悪質な冗談がまったく冗談になっていない危惧に、仁は待合室からカウンタの中に首を突っ込んだ。
カウンタの上で万歳したクズは、いつもない生気がさらに抜け出て、毒気すら残っていない。
「おいおい」
「クズはニオカに仕置いてもらったある」
どうしたんだ、と首を捻る仁の背後から、明るい声が応える。
「昨日はもう少しで大きな損失を出すところだったあるよ。そうしたら借金上乗せある。危ないところだったあるからね。ニオカに、よく躾け直すように言っておいたある」
「借金上乗せ……」
すでに一兆あるという借金に、さらに上乗せ。
さすがに、どんな悪徳業者だってそんなことはしないだろう。無慈悲云々以前に、回収の見込みがないのだ。どうせなら、もっと見込みのある方策を選ぶ。
呆れた仁の隣に立ち、どこまでも似合わない看護師姿のダーがカウンタの中を覗きこむ。
「たぶん、いつも以上に限界を超えて搾り取られたあるね」
「搾り取られたって、」
なにを。
訊こうとして、仁はその問いの愚かさに口を噤んだ。
万歳して投げ出されたクズの骨と皮ばかりの細い手首には、縄で擦れた痕が赤黒い蚯蚓腫れとなって、痛々しく刻印されている。
短い髪の隙間から覗く首筋にも、いくつもの痕が散っている。
忘れがち以前に忘れたい事実だから頻繁に忘れているが、クズとニオカはデキているのだった。
クズ曰く、デキているのではなく、ニオカは飼い主だそうだが。
「…よく出て来たな」
「欠勤一日で百万引かれるある」
「どんな高給取りだよ」
ごく平均に均して考えて、一か月の出勤日数が二十日前後。一日百万として、二十日なら――
「…借金返し終わるんじゃねえのか、ちゃんとすりゃあ」
「違うある」
軽く数えて胡乱な目になった仁に、ダーは白魚のような手を振る。
「一日百万貰える契約じゃないある。欠勤したら、一日につき百万引かれる契約ある」
「だから…」
言い返そうとして、仁はダーの言うカラクリに気がついた。
一日の単価はとりあえずとして、罰則規定が一日欠勤につき、百万の減額。
いや、この場合一日の単価をとりあえずしてはいけないだろう。場合によっては、借金返済どころか、上乗せ。魔のループ。
地獄だってここまであくどい罰を考えはしないだろう。あそこはあくまで反省の場だ。
「…鬼か、おまえら」
「いやあるね。吾はVarcoraciあるよ。何度言えばわかるあるか」
何度言われても聞き取れない。
とりあえずわかっている限り、鬼の眷属だった。
「鬼だったな、おまえら…」
とはいえここまで来ると、ただ血を吸うだけの吸血鬼が愛玩キャラクタじみて、かわいくすら思えてくる。
「だからそう言っているある」
悪びれることもなく、ダーはあっさりと頷いた。
かわいらしいところが欠片もなくて憎たらしくて常に殺したくても、さすがにクズが哀れになる仁だ。どんな悪事を働くと、こういう輩に目をつけられるのだろう。
カウンタに沈んだまま、呼吸しているかどうかも不明なクズの死に体を眺め、仁は珍しく合掌する気になった。
真顔でクズの死体(予定)を見つめ、手を合わせかけてふと気がつく。
投げ出されたクズの左手。
薬指に、見慣れたものが。
「…」
わかっていても、仁は自分の左手を見た。
左手、薬指の根本に嵌まった、忌々しい悪魔の契約の印。
流れる血のごとき、赤く輝く指輪。仁の血が凝って出来た――
まったく同じものが、クズの左手に、薬指に、嵌まっているように見える。
「…」
間近で確認しようと、触りたいと思ったこともない、クズの痩せてしなびた手を取る。
「ひぎぃいっっっ!!!」
「のわっ?!」
触れた瞬間、死んだようだったクズが悲鳴を上げて跳ね起きた。陰惨な表情以外浮かべない顔が、放送禁止コードに引っかかるほどに凄絶に歪んでいる。
そしてそのまま、ばったりと受付の床に倒れ伏した。
「おい?!」
「ああ、触っちゃったあるか」
慌てる仁に対し、どこまでものんびりとダーがつぶやく。
身を乗り出す仁の巨体を軽く除けると、カウンタを飛び越えて受付の中に入った。
「クズ、クズ。まだ死ねないあるよ」
不穏なことを言いながら、ぐったりしたクズの体を抱え起こす。仁の巨体すら片手で持ち上げるダーだ。小柄でさらに骨と皮ばかりのクズなど紙切れも同然。
軽々と持ち上げると、元の通りに椅子に座らせ、カウンタに身を預けさせた。
「おい…」
訊きたいことが山ほど出来て渋面になる仁に、ダーは肩を竦め、人間には不可能な動きでクズを飛び越して受付から出た。
「なんだ、それ。そいつもおまえと契約してんのか」
まず確認した仁に、ダーはあっさりと首を横に振った。
「ちょっと違うある。吾は頼まれて契約の指輪を造ったあるが、主人ではないある。これの主人は、ニオカある」
「…あいつか」
「そうある。クズがニオカから逃げ出さないようにと頼まれて、指輪を造ったある」
まず真っ先に浮かんだのが、まっとうな結論だ。
借金持ちと、借金取りのヤクザ。
踏み倒したい借金持ちと、一円でも毟り取りたい借金取り。
この契約で結びつけてしまえば、借金持ちは逃げることが出来ない。逃げようとすれば失神するのだから、発見されて連れ戻されて終わりだ。
だがすぐに、そのまっとうな考えを否定した。
クズとニオカだ。
普通の人間を自称していながら、常に期待を裏切る二人だ。
「…それは、つまり」
「で、さらにニオカからの頼まれごとで、クズにニオカ以外の男が触れると、激痛が走って死に掛けるようにしてあるある」
「…」
仁は疲れた顔で、カウンタに倒れ伏すクズを見た。
顔色は土気色で、骨と皮ばかりに痩せ細り、目の下はどす黒い隈に覆われている。
起きているときには起きているときで、憎まれ口、という言葉がかわいく思えるような口しか聞かない、敵意を通り越して殺意を抱くしかないような、陰惨で陰険な性格の持ち主だ。
だがこれでいて、昔はかわいかったとか、そういうことだろうか。
借金を重ねる過程で、こうまで歪んだとか。
――懐旧に浸って愛せるレベルは、とっくに突破しているが。
「なんだ。つまり、アレか……。ニオカは、クズを溺愛してんのか」
世の中にはいろいろな趣味の人間がいる。そう、それこそいろいろな趣味の人間が。
諦念で訊いた仁に、ダーはごくまじめに頷いた。
「そうあるね。軽く重犯罪レベルを超越して、溺愛しているある」
「…」
重犯罪レベルを超越した愛とはどんなものだろう。
少なくとも、自分が受けてみたいと思うような愛でないことは確かだ。この状態のクズですら、まだ搾り取れるくらい愛しいとか。
「…って待て。てめえは触れたじゃねえか」
「吾?」
「ニオカ以外の男が触ると激痛なんだろう。てめえはどうなんだよ」
男も女も超越しきった美貌の持ち主であるダーだが、性別は男だ。少なくとも、男の体だ。毎日いやというほど確認しているから、そこは間違えようがない。
ツッコんだ仁に、ダーは切れ長の瞳を見張った。
「吾が?」
「あー…」
重ねて訊かれて、仁はなんだか悟った。
指輪の造り主が、そもそもダーだ。そして、ダーだ。
男と認識されなくても仕方ない。なにしろ化け物だし。
仁はカウンタから離れて、待合室に置かれたぼろけたソファに座った。
「腹減ったな」
「吾もある」
なんとないつぶやきに答えられて、仁は目を眇めた。
昨日、逃げ出した患者を捕まえて診療所に戻ると、ダーは手術室に直行した。
仁といえば、いつもどこからか届いている仕出し弁当を五つほど掻きこんで、空腹を満たした。
あの状態にあっても、すぐさま飯を食える。そして戻すことすらない。
仁は健康以上にどこかおかしいが、本人はいたってまっとうなつもりだった。
そのあとは大過なく――少なくとも、仁の身には大過なく、暇な時間が過ぎた。
入院設備がないこの診療所のどこに、手術を終えた患者がいるのかは知らない。少なくとも、仁が帰る時間まで、患者が表玄関をくぐって外に出て行くことはなかった。今後くぐることがあるのかどうかも知らない。
一応裏口もあるから、そこからこっそり帰ることだってあるだろう。錆びきって開かなくなっているが、まあ、通ろうと思えば通れないことはないだろう。闇商売専門の地下道もあることだし。そこを通って、果たしてまっとうな道に帰りつけるかどうかはともかく。
そこを突っこんで考えてはいけないことになっている。
いくら仁でも、精神の限界はある。
そして帰宅時間になると、普段着に着替えたダーが軽い足取りで出てきて、いつもどおり、仁の首根っこを強引に引きずり、夕食へと繰り出した。
さすがに今日は重労働だったから精のつくものを食べるあるよ、とかなんとか言って、ダーが選んだのはまたしても焼肉だ。
そこで、二人で二十人前ほど片づけた。
もちろん、にんにく焼きも大いに食べた。
で、またしても仁の首根っこを引っ掴んでいつものぼろアパートへ帰ると、再びの、精のつくものを食べるあるよ、で、布団に押し倒されて乗り上がられて。
――あれだけの体験をしても、元気いっぱい反応することが出来る仁は男の鑑とかそういう以前に、やはり人間にしておくことに無理があるが、本人はまったくもって自分をまっとうだと信じ込んでいた。
まったくなにごともなかったかのようないやな日常のままに夜は更けて、気絶するように眠りこんで、すでに十四代目に入っている目覚ましを叩き壊して十五世へと道をつけた朝。
「昨日も飽食だったある。焼肉はいいあるね!しばらく夕食は焼肉にするあるよ!」
ダーは嬉々として言っていたはずだ。
そう、飽食だったと。
つまりそれは、腹いっぱいだということではないのか。
「てめえ、日本語だれに教わったんだ」
「ザビエルあるね」
「いや、訊いた俺が悪かったんだろう、そうだろう……」
珍しくもいじけた仁に、ダーは笑う。
「おまえ、日本にどれだけ山本姓の人間がいるか知っているあるか?鈴木姓は?外国だって似たようなものあるよ」
「紛らわしいんだよ」
復活した仁に、ダーは頷いた。
「まあ、おまえが想像したザビエルで、ほぼほぼ合っているあるが」
「絶望的だな、宣教師!」
「絶望的なのはおまえだ、害虫駆除剤も利かないごの字と白アリのキメラ」
吐き捨てた声にカウンタの奥から応える声がして、仁とダーは顔を向けた。
ゾンビの方がもう少し生気に溢れていそうな様態のクズが、ふらふらと頭を上げていた。
「…ほんとに生きてんのか」
疑わしさのあまりに口走った仁を、普段より陰惨さの増した瞳が、虚ろに睨みつける。
「ダーじゃあるまいし」
「そうあるね。死んでしまっては搾取も出来ないある。生かさず殺さずある」
絶望に果てはないらしい。
悪びれることもなく、ジョークですらなくあくまで真顔で言ったダーから、仁はわずかに距離を取る。そろそろと歩いてカウンタへ行くと、手を差しだした。
「ん」
一言。
クズが内臓すべてを吐き出すようなため息を吐く。
「俺はあんたの女房でも奥方でも細君でもないんだけどね……」
ぶつぶつとこぼしながらも、手がカウンタの下を彷徨う。億劫そうながらどうにか取り出した手には、小さな袋を握っていた。
それを、差し出した仁の手に乗せる。
仁は確認することもなく、袋の封を切った。
「あ、ちょ、おまえら!ちょっとは懲りろある!!学習するのが人間の唯一の取り柄あるよ?!」
「うるせえ、知ったふうな口聞くな!」
叫ぶと、仁は袋から取り出した種を、慌てるダーへと投げつけた。
ダーが踊る。歯噛みしながら、狂乱の踊りを。
仁は少しはせいせいして、表玄関へと歩き出した。
そろそろ今くらいの時間になれば、外に仕出し弁当が届いているはずだ。
だれが届けたどういう種類の弁当なのかよくわからないそれを口にすることに、仁はまったく躊躇いがなかった。少なくとも、この診療所の従業員はひとりとして。
「覚えていろある!!」
種に塗れたダーが叫ぶ。声音は悲憤に満ちて、おそらく状況を深く考えなければ、世界三大悲劇に数え上げることが可能だ。
まったくもって、学習するのが人間の取り柄だ。
学習しなかった二人なので、今日も今日とて間が悪かった。
おそらく、学習するまでは間が悪い。
仁が表玄関へと辿りつくあと少しのところで、扉がぶち破られた。
「死ねやぁあああああ!!!」
飛びこんで来たのは、匕首を振り回す丑の刻参り男だった。
どこまでも時代錯誤で、そして。
間が悪い。