「くぅうううううずぁあああああああ!!!」

VARCORACI

2部-第6

「…………」

遥か彼方より地獄の使者の呼び声がして、クズは軽く目を眇めた。

時計を見上げれば、おそらく九時になろうとしている。彼らの出勤時間だ。

ゴミ捨て場から拾ってきた診療所の時計は、放っておくとどこまでも時間が狂う。

だいたい決まったペースで狂うから、毎日まいにちその分の時間を計算し直して読む。たまに計算が面倒なときは、好きなように読む。

針を合わせるという発想はない。

合わせても合わせても狂うのだから、無駄過ぎる。

クズは定位置である受付の中で、慌てず騒がず、落ち着いてカウンタの下に屈みこんだ。

この程度のことで動揺するような、かわいらしい神経はとうに捨てた。

修羅場に馴れている以上に、クズの現状が常に修羅場だ。常在戦場以上に、常在前線だ。いちいち動揺していては無傷では済まない。

誤解されがちだが、クズは痛いのは嫌いなのだ。

病院でありながら種類も豊富に常備してある野菜の種袋を取り出すと、クズはいっしょに取り出したハサミで封を切る。

重要なのは種であることで、なんの野菜かではない。いや、できれば小粒であればあるだけいいが、いちいち選ぶのも面倒くさい。

今のところその基準で選んで効かなかったものもないから、余計に選ぶ気にならない。

クズは骨ばった手の上に中身を出すと、カウンタの上に境界線を引くように一直線に撒いた。

「ぁあああああああ!!!!」

次の瞬間、叫び声とともに、昨日修理したばかりの表玄関が吹き飛ぶ。

文字通り、爆音とともに、重い木の扉が紙切れのように軽々と吹っ飛んだ。

それでもクズが動揺することはない。

「くずぅぁああああああ!!!」

片手に目を回した巨漢をぶら下げた地獄の悪鬼が、口から煙を吐き出して受付のクズを睨む。

クズの精神は小揺るぎもしない。頑強以上に、摩耗し過ぎて鈍麻しているのだ。

振り回して持って来ただろう巨漢を、新調した――といっても、中古屋で買ったものだ――ソファに投げ、悪鬼は足音も荒々しく受付へと突進し。

「ぬぐぁああああ!!」

「…朝から清純派女優もかくやいかぬとばかりの爽やかな登場の仕方で呆れるのを通り越して感心するのも嫌になって結局頭の神経大丈夫かって訊きたいところなんだけどおはよう、ダー」

陰々と朝のご挨拶をしたクズに、カウンタにばら撒かれた種を凝視する悪鬼――こと、ダーは唸り声で応えた。

「クズぅううううおまえはほんとに学習しないあるねむしろもう生きていることが無駄じゃないかと思うある!」

「学習してのこの態度だろ」

病気としか思えない震えようでカウンタに手を伸ばし、しかし種に触れることも出来ないダーは、泣きそうなため息をこぼした。

種ならすでに、今年分は拾ってしまったのだ。どれほど焦がれても、この種はもう拾えない。

切ない表情は、見るものすべての心を引き絞り、号泣へと導いただろう。状況が状況であってすら。

ただ、相対しているのは、あくまでクズだった。

鼻を鳴らすと、クズは不気味な軋り音を立てる絶世の美貌を覗きこむ。

「とりあえず、もう少し落ち着いてから出直せ。八つ当たりで殺されたら堪らない」

「心配しなくても、おまえは死なないあるよ。吾の呪いは完璧ある」

なにをどう安心すればいいのかわからない返答にも、クズはめげない。ダーの後ろ、ソファの上で未だに目を回している巨漢、今日も無駄に怖い顔の仁をちらりと眺めた。

「死ななくても、痛いものは痛いんだよ。苦しいのも辛いのも、俺は好きじゃない」

吐き捨てて、左手の薬指に嵌まる血色の指輪を撫でた。

クズがどう努力しても尽力しても、この指輪は外れもしなければ壊れもしない。そして、クズの運命を好きに弄び続ける。

死ぬことすら、クズの自由にはならない。死ぬような痛みを与えるくせに。

外れる要件は、ひとつ。

ニオカが、クズに飽きること。

飽きて、要らないと思ったとき、この指輪は消えてなくなり、クズは解放される。なにもかもから。

そう、ダーが呪いを掛けた。

「どうせその男絡みなんだろう」

嘲りながら、クズはカウンタの上にばら撒いた種を軽く集め、ゴミ箱に捨てた。

ダーが生き返ったため息をつき、肩から力を抜く。どうやら落ち着いたようだ。

基本的に、ダーの感情はフラットで無闇に明るい。どんな蛮行に及ぼうと、その犠牲者を前にしようと、態度が変わることはない。ひとはそれをして、病気だという。

はっきりいえば、人間でないがゆえの精神構造なのだが。

「まさにその通りあるよ。クズ、今こそおまえの、無駄過ぎる偏向に豊富な知識を使うときある。今すぐ記憶喪失を叩き治す方法を、吾に教えるある!」

ダーは悶えながら叫ぶと、きれいになったカウンタに身を乗り出す。

「さもないと、吾は狂ってしまうある!」

「くるう?」

珍しくも素直にダーの言葉を反復し、クズは顔を歪めた。よく見てもわからないが、笑ったのだ。

「あんたがあんたが狂う狂うとどうなるわけ?」

「まあ、軽く世界は滅ぶあるよ」

嘲りに真顔で答えて、ダーはますます身を乗り出した。

「とにかく今すぐ記憶喪失を治す必要があるあるよ元のアレに戻すあるさもないと、さもないと……」

つぶやくダーの顔は、元々色が白いにしても、今や青いほどだった。いつも強気な彼とも思えないほど、激しく怯えている。

クズは首を傾げ、ソファで目を回したままの惰弱な男と、ダーを見比べた。

「あんたがそれだけ困るっていうと……ものの役に立たなかったのか、アレ」

「役に立たないどころではないある!!」

悲痛に叫び、ダーは精緻なつくりの手で、絶望に染まる顔を覆った。ひいひいと咽喉で息をする音がして、懸命に激情を抑えているのが伝わってくる。

ダーがここまで動揺することは滅多にない。

どこまでも恐怖に歪んだ顔のまま、ダーはいつもと変わらず陰気なクズを見つめた。

「超絶テクニシャンだったある」

「……は?」

ほぼほぼ『そっち』関係の問題でこうまで激昂したのだろうとは予想がついても、返される答えまで予想の範囲内であるわけではない。

むしろ想定外の返答を聞かされて、クズは眉をひそめた。

クズの問いは、あくまでも『役に立たなかった』のかということだ。もちろん、『男』として。

超絶技巧の持ち主でした、と言われれば、ああそうよかったね、と返す。

それは十分、『役に立った』範囲に入るからだ。

ダーはがたがたと震える己の体を抱きしめた。そうしなければ壊れてしまうとでもいうように。

「いつもは突っこんで腰振るしか知らない単純な男ある。でも吾はそれでまったく構わないあるよ。いいあるか、吾はそれで構わないある愛撫とか慰撫とか、そんなものは要らないあるとにかくたっぷりと精を食えれば、それでいいあるよ」

実に雑な感性だ。マナーや味にこだわりを持つことがないタイプらしい。

人間で言うなら、カップ麺も本格ラーメン店のラーメンも同じ、好き勝手に食べられるだけカップ麺のほうがいいとか言うのと同じような感性だ。

超越した美貌の持ち主なだけに、その事実は簡単に人間を絶望の淵に追いやれる。

人間の絶望になど構わない絶対者は、恐怖に震えながらソファに転がる仁を見やる。

「吾としたことが……吾としたことが、たったの三回で、気絶してしまったある」

「さんかいで?」

返すクズの声には、隠しきれない驚きがあった。

三回は、通常の人間なら少なくない数だ。だが、化け物のダーと化け物クラスの仁の間で、三回は前戯に等しい。

訊き返されて、ダーは深刻に頷いた。

「吾としたことが、あまりの快楽に精神が持たなかったあるよ……っくっ!」

「は?」

突如呻き、ダーがカウンタの向こうに沈みかける。

すんでのところでカウンタに手をついて起き上がったダーの頬は、薔薇色に染まっていた。瞳が、欲情に濡れ濡れと輝いている。

「お、思い出すだけで、この有り様ある……!!」

「……………………………」

それはすでに喜劇の世界では。

思ったものの、クズは口には出さなかった。

そもそも、ダーの存在そのものが喜劇だ。そして現状のすべてが、喜劇でしかない。

先とは違う意味で肩で息をし、ダーは歯噛みする。

「記憶を失ったとたんに野獣男が超絶テクニシャンに変身するとは、人間はいったいどうなっているある吾を恐怖で殺す気あるか」

「知るか」

恐怖くらいで殺せるなら、なんと安い生き物かと思う。しかも生き物ではないから、結局のところどうやって殺しようがあるのかとか。

クズは小さく首を傾げ、頭を働かせた。

実のところ、頭を働かせるのは億劫で仕様がない。考えることは生きることだ。生きることはとりもなおさず、前を向くことだ。

この修羅の世界で前を向き続けることが、どれだけの苦痛を自分に強いることか。

すでに摩耗して消え去った神経ですら、さらに痛むような有り様だ。

「じゃああんた、昨日結局、三回しかしてないわけか」

「そうある」

「じゃあもしかして、血も飲ませてもらってない」

「そうある!!」

ダーの声が涙に咽ぶ。

「そんな隙、まったくなかったあるよ……吾のほうが、夢中にさせられて、啼かされて、懇願させられて、さんざん強請って、最後には意識が飛んだある。Varcoraciの意識を飛ばすって、アレは何者あるか?!」

「そんなんこっちが訊きたいっての」

だがどちらにしろ、人間でないものにカテゴライズしても問題はなさそうだ。

クズは容赦なく、記憶喪失の仁をも人間外にカテゴライズし、咽び泣く美貌を見やった。

トーキーならいいのにと、怨獄の果てで暗黒の悟りを開いたクズですら、思う。

なにを言っているかわからなければ、完璧な耽美の世界だ。

とはいえなにを言っているか完全にわからなければわからないで、その美貌からこぼれるだろう妙なる声を聴きたいと、絶なる言葉に触れたいと、悶絶するのだろうが。

どちらに転んでもはた迷惑な美貌だ。――正確に言って、はた迷惑なのは美貌ではなく、ダーの美形向きではない性格だが。

「三回しかしないうえ、血も飲めない。こんな状態が続いたら、吾は乾涸びてしまうある!」

身悶えて叫ぶダーに、クズはため息をついた。飽きたのだ。

「じゃあ、別の男に乗り返ればいいだろ」

「いやある吾はあの男がいいあるよ!あの男の血を飲みたいある!!」

よくわからないことがある。

「飲めばいいだろ。今だってそこに無防備に転がってるんだし」

隙ならいくらでもあるはずなのに、しかも力づくでいってダーに敵うわけもないのに、ダーはあくまで相手の自主性を求める。

どこまでも強引に、自分の都合のままに物事を押し進めるダーがだ。

「吾には吾の流儀があるある」

「じゃあ乾涸びろ」

胸を張ったダーに即座に返して、クズはそっぽを向いた。ダーがかちかちと牙を鳴らす。

「クズ、おまえ、先に血を吸い尽くして乾涸びさせてやるあるか!」

クズの見た目は骨と皮だ。これ以上乾涸びることなど人間的というより生物的に無理だ。もし乾涸びさせたなら、そこに待つのは死だ。

それでも死ねないのだが。

どこまでもダーの呪いは完璧で、クズを追いやる。そこまでいってもニオカが自分を諦めない確信があったし、そのために被る痛みと苦しみは想像すら拒むほどのものだ。

クズは陰惨な表情をさらに陰惨に翳らせ、どんな感情すらも無に帰してしまう美貌を見やった。

「…記憶喪失を治す方法ね」

「そうある」

力強く頷くダーの背後で、仁が呻く。生まれたての象のように身ぶるいしながら、その巨体がゆっくりと起き上がり、頭を振って、混濁した意識を取り戻そうと努めていた。

まったくもって同情の余地がなくても、あれは同類だ。ダーという化け物に魅入られ、支配された。

それが、情けや容赦に繋がることはないだけだ。

「いちばんオーソドックスな方法は、同じ状況を再現することだけど」

「同じ状況?」

訊き返され、クズは虚ろな表情で頷く。そこに血の通った感情は、まったく窺えなかった。

「階段から落ちたなら、階段から落ちる。バナナの皮で滑って転んだなら、バナナの皮で滑って転ぶ。つまりこの場合」

「わかったある!!」

エウレカを叫び、ダーは鬼気を漲らせてソファに座る仁を振り返った。

「ああ、あのな、あんた……ここは」

「再現すればいいあるね、あのときの状況を同じ衝撃を食らわせることで、衝撃の相殺となって記憶を取り戻す雑なつくりの人間らしい治療法ある!」

雑なつくりなのはむしろ、ダーの思考回路のほうだ。

「ええと?」

仁が戸惑った声で、殺気を振り撒くダーを見つめる。その瞳は無垢で翳りがない。面相はどこまでも凶悪なだけに、怖気をふるう対比だ。

「…それで記憶が確実に戻る保証はないんだけど」

クズが小さく付け足す。ダーは鼻を鳴らした。

「構わないある戻らないなら、次の方策を試すだけあるよ。吾はもう、一刻も早くコレを元に戻すある。そのための手段は選ばないあるよ!!」

高らかに宣言するダーの、尋常でない様子にようやく気がついたらしい。仁がソファから立ち上がり、逃げ道を探してじりじりと下がっていく。

だが助言するならば、仁はソファから立ち上がるべきではなかったし、ダーから距離を取るべきでもなかった。

緊張漲るふたりを眺め、クズがぼそりとつぶやく。

「……次があるか以前に、今度こそ生き残れるかどうかっていう問題があるけど」

「そこを動くなある!」

叫んだダーが、買ったばかりのソファを持ち上げる。三人掛けのソファだ。軽くはない。

「おやおや」

嘆息する声に、クズは顔を向けた。いつの間に来たのか、院長がカウンタの前で困ったように首を捻っていた。

「ダーはなにをしようとしているんだい?」

訊いたのはこの場合、クズにだ。クズは肩を竦めた。

「殺人?」

「おやおや」

身も蓋もない答えにさらに困ったように顔をしかめて、それから院長は、昨日修理したばかりなのにもう破壊された玄関を眺める。

昨日の破壊はまだ、かわいらしいものだった。少なくとも、半日での修理が可能な範囲だった。所詮人間のやったことだからだ。

ダーが同じことをやると、ミサイルをぶちこまれた並みの衝撃がある。

「あれはだれに請求したらいいんだろうね?」

「壊したのは間違いなくダーだよ」

「やれやれ」

再び嘆息し、院長はいつもの孫かわいいじーさんの顔で微笑んだ。

「ダーの給料から、玄関の修理代を引くしかないね」

言うことは容赦がない。孫かわいいじーさんではない。

クズは顔を歪めた。わかりにくい以前に理解できるものが存在しないが、笑ったのだ。

「これからさらに破壊するんだから、それも併せて請求したら?」

「やれやれ!」

院長は好々爺然とした笑顔のまま、微笑ましそうにダーを見つめた。

三人掛けのソファを頭上高くに掲げ、記憶喪失で弱っている仁を容赦なく追い詰めるダーを。

「あんた、なにしようとしてるんだ?!!」

非現実的な光景と、これから予想される事態の両方を同時に思考させられ、仁の声が裏返る。

重たげなく三人掛けのソファを頭上高くに掲げたダーは、鼻息も荒く叫んだ。

「決まってるあるおまえが記憶を失ったときを再現するあるよ!!」