さて、ここで話は一度、昨日に戻る。

昨日、仁が記憶を失う直前、あるいは仁がどうして記憶を失うことになったか、その経緯だ。

VARCORACI

2部-第7

ちょっとばかりせいせいした仁が、そろそろ昼の仕出し弁当が届いているはずだと病院の表玄関へ向かったところで、侵入者があった。

頭には角に見立てた五徳を手ぬぐいハチマキで巻きつけ、片手には匕首を掲げるという、時代錯誤と時間誤認と他諸々、甚だしく誤りに満ちたスタイルの男である。

「んっだてめえっ?!」

「SHYAGUeAAAAAAAAA!!」

間一髪で匕首を避けた仁の問いに、侵入してきた男は人間ではない叫びを返した。どうやら激昂の挙句の所業ではなく、クスリかなにかで脳みそがご旅行遊ばしてしまったがための愚行らしい。

言っても、脳みそがご旅行遊ばしてしまったためにこの錯誤重複甚だしいスタイルとなったのか、このスタイルで外出する勇を得るために脳みそを後付けでご旅行にやったものかは不明だが、どちらでも結果は変わらない。

一般社会からの退場である。

「んっの、キ印がっ」

ぞっとしながらも罵倒し、仁は匕首を振り回す男の手を掴んだ。

理性を失っている男の力は、途轍もなく強い。いわゆる『火事場の馬鹿力』の大盤振る舞いであるからだ。

どちらかといえば痩せぎすで、身長も標準的日本人といった男に対し、仁のほうが体格では圧倒的に有利であるはずなのだが、抑えこみきれない。わずかにも気を抜くと、あっさり持っていかれる。

それでも仁は、暴力に馴れきっていた。

クスリの力も集団の効用を借りる必要もなく、まったき正気を保ったまま、特に理由もつけずに人間の体を痛めつけられる男だ。

仁は匕首を避けながらなんとか掴んだ男の手にすぐさま両腕をかけるや、ひと息の間も置かず、骨を折った。

「HYuGUeAAAAAAAAAAAAA!!」

口から泡を飛ばして絶叫する男の手が痙攣し、開いた指から匕首が落ちる。なんのクスリをやったものかは不明だが、正気は飛んでも痛覚は残るタイプのものであったらしい。

不幸中の幸いとはこのことだ。

でなければ、だからなんだと攻撃は続くし、いくら痛めつけてもなかなか意識は飛ばないしで、厄介このうえない。

「うっせえっ!」

だからと仁が油断することはなく――筋道立ててそうと考えたからではなく、単にまだ、相手に意識があるからだ――、落ちた匕首を蹴り飛ばして遠くにやる。

ほぼ同時に、男の顔面に平手を叩きこんだ。脳震盪で済めば勿怪の幸い、へたをすれば首の骨までいくほどの力でだ。

「GHuOaGeAHHHHHH!」

「しつっけぇな!」

激痛に喚き、血泡を吹きながらも空いている手でなお掴みかかってくる男だが、仁が叩き伏せるのに必要な時間は、あと五分といったところだった。

なにあれ、後ろ暗いばかりのこの医院にあって、院長が仁を警備として雇ったことは間違いではなかった。こと相手が人間であるなら、たとえヤク中であろうと狂っていようと、仁の敵ではない。

ましてや凶器がアナログで、挙句、たった一人でしかないとなれば。

そう、仁に任せておいて、問題はなかったのだ。

だがこのとき、忘れてはいけないのは、ダーは正常な判断力を失っていたということだ。

なぜといって、拾いたいのに、もう心も絞り上げられ脳みそも沸騰するほど拾いたいのに、心も脳も持たないがために、目の前の種を一粒すらも拾えないからだ。

今年の分はもう、拾ってしまった。

来年にならなければ、たとえ世界を滅ぼしてもこの種は拾えない。ならばいっそ世界、もとい地球を滅ぼしてしまえば種も存在しなくなるからこの苦悩からも永遠に解放されるが、そんなことをしたら種が拾えなくなる――

彼ら以外にはまったく理解不能かつ共感しようがない懊悩であるのだが、とにかくそういったふうに今、ダーは追いこまれていた。

追いこまれ、正常な判断力を失っていた。

ついでに言うなら、プライドを傷つけられ、怒り心頭に発してもいた。

いつもであればまるきり他人事に仁の様子を眺め、「備品を壊したら給料から天引きあるよー」などと、のん気に野次を飛ばしていたことだろう。

しかしダーには正常な判断力がなく、そして昨日の今日だった。

『昨日』――同じように弄ばれた挙句、余計な苦労を背負いこまされた、下水道を彷徨った、あれだ。

ために、今のダーには、仁と戦う男をどうしてもここで倒さなければいけないという発想しか、なかった。

けれど近づくことはできない。種が行く手を阻む。足が前へと踏み出すことを良しとしないばかりか、むしろ回れ右して後退しかしたくない。だめなら回れ左で後退だ。どのみち進めない。

種がすべてきれいに拾えない限りはその道から撤退するしかないのが、定めなのだ。

ダーは学習能力が高かった。それこそ常々、彼自身が自慢するように。

とはいえこれはなにも、ダーだけの特性というわけではない。

『彼ら』は総じてよく学ぶ。学校も試験も存在しないのは、課す必要もなく彼ら自身が常に志高く学び続ける存在であるからだ。

それが証拠に、彼らとの対峙方法、退治方法は、六法全書に勝るとも劣らぬ量で作出され続けている。それというのもこれというのも、彼らの学習能力が高く、すぐと克服されてしまえばこそだ。

そしてダーもまた、この場合における対処法をすでに考案済みだった。

前へ進めないなら、後ろから回りこめばいい。

足が使えないなら、手を使えばいい。

回りこむのが間に合わないなら、手が届かないなら――

物を使えばいい。

「いい加減、寝ろやっ!!」

「GUaHH!」

仁は裂帛の気合いとともに、男の首を掴んで壁へと叩きつけた。

かろうじて骨は折れなかったものの、掴む手が気道にめりこみ、呼吸及び脳への血流が阻害される。重ねて、後頭部への衝撃だ。

さすがに男の意識が飛んだ。

だが、仁は油断しない。簡単には首を放すことなく、

「退くある、貴様!!」

「っ?!」

雷鳴轟くがごとき叫びが、仁の体を痺れさせた。思わず手も緩み、意識のない男の体が力なく、床に頽れる。

伏して動かないそれに構うこともできず、仁は動物的に察知した危機と生存本能に則り、声のしたほうへ素早く首を巡らせた。

ひゅっと――まったく認めたくないことだが、非常に珍しくも怯えて縮んだのどがうまく息を吸えず、ひゅっと、音を鳴らした。

濃厚に過ぎる死の気配を、嗅ぎ取ってしまったのだ。

「ちょ…っ、待て、てめえやめろ、おちっ」

「死ぬよろし!!」

恐慌に潰れ掠れたのどから押し出した仁の呻きなど、血もないのに頭に血を上らせたダーの耳には届かなかった。

そうなってもひたすら麗しいばかりの顔を壮絶な怒りに歪ませ、ダーは力いっぱい――

待合室の来客用ソファを、投げた。

来客用ソファは業務用の三人掛けで、鉄製の骨組みの頑丈さだけが取り柄という代物だった。

人工皮革の座面はすれて破れ、中のウレタンマットも含めてぼろぼろだったが、たとえば仁ほどの筋肉達磨な巨漢がまるで配慮もない勢いで座っても、あえなく折れて潰れるといったことはない。

それを、細身で華奢、なにより妙なる美貌を誇る青年が軽々持ち上げているという現実は、仁からしたら、すでにどうでもいい事象だった。

普段から取っ組み合って感じるだに、骨組みが鉄だろうが合板だろうが、三人掛けだろうが七人掛けだろうが、ダーにとっては羽のように軽いというところで変わりはない。

風が吹けばなよなよとかっ飛ばされそうな見た目で、裏切り加減の激しさは日常と化している。

だからそこで問題だったのは、見た目の印象を今日もまた、裏切られることではない。

ダーの膂力で、頑丈さのみが売りという業務用ソファを力いっぱい投げつけられた、相手の末路だ。

潰れる。

仁の頭に浮かんだのは、その一事に尽きた。

それこそトマトかいちごのように――いや、はっきり言う。貨物トラックに轢かれたがごとく、酸鼻を極めて。

とはいえ侵入者が死のうが生きようが、仁にとっては本来、どうでもいいことだった。別に知り合いでもなし、今の一戦のうちに、殺すには惜しい男だとか、なにかしらもったいぶって語りたくなるようなこともなかった。

ただ、仁もやはり、人間だったのだ。

思いもよらないダーの暴挙に驚き、咄嗟に体が固まってしまった。

何十メートルと離れていればそれでも避けただろうが、互いの距離はほんの数メートル。しかも仁は壁際で、咄嗟の動きにも限界のある狭い室内であり――

そこへ、問答無用の亜高速で投げつけられるソファ。

仁がはたと我に返ったときには、目の前に死神が迫っていた。

そしてここで、仁は再度、判断を誤った。

『避けなければ』ではなく、『ガードしなければ』と思ってしまったのだ。

しゃがむか、右か左かに少し体を逸らせば無事に済んだものを、両腕を振りかざして正面から受けて立つ、もとい、『ガード』しようとしてしまった。

もちろん、そんなもので防ぎきれるような勢いでも、ブツでもない。

結果的に仁は侵入者を庇うような形で、高速飛来により凶器と化したソファに押し潰された。

――その顛末としての、記憶喪失である。

クズの言いようこそ、まさに正しかった。

いったいどうしてそれでトマトかいちごのように潰れず、ましてや骨の一本すら折れることなく、記憶喪失くらいで済んだのかが、まったく不明だ。仁が人間であるという意味と根拠が、ほんとうにさっぱりわからない。

それはそれとして、→モドル現在である。

あれが一度限りの僥倖であったのか、それとも仁は真に人間ではないのか。

今まさに、それが試されようとしていた。

――というわけではないのだが、とにかく同じことが再現されようとはしていた。

「いったいなんなんだ?!どうしていきなり!!」

憐れっぽく叫ぶ仁にも、ソファを構えたダーが斟酌してくれることはなかった。

確か昨日、ダーは自分のことを気が長いと称えていたはずだ。仁が自然と記憶を取り戻すまで、いくらかかろうとも面倒を見てやると。

それが一晩で、こうだ。それもたかが夜の生活の不一致で。

いや、されど夜の生活だ。離婚事由でも頻繁に取り沙汰される。舐めてはいけないのである。それでソファをひと目がけて、致死速度で投げてもいいかとなると、また別の話になるが。

「とっとと記憶を取り戻すよろし!!」

叫んで、ダーはソファを投げた。当然、仁は避ける。

前回は別の相手との闘争中でもあったし、ダーの怒号で意識が攪乱されてもいた。ために、咄嗟に受けてしまったが、今回は違う。

動揺していて平静ではなかったという点では同じだが、相手にしていたのはダーひとりだ。

なにより仁は今、『仁』ではなかった。まさか自分がそんなものを受けても骨一本折らないような人間だという、積み重ねの記憶がない。

ゆえに対処はごくまっとうに『避けなければ』の一択であり、であればこそ、今回は避けたし、避けられた。

豪速で投げられたソファは避けた仁の背後、壁に当たって落ちる。さすがにめりこみはしなかったものの、地下の病院が轟と揺れ、コンクリートの壁には蜘蛛の巣のようなひびが走った。

「おやおや、まずいねえ」

傍観者である院長が、のんびりとつぶやく。

「ソファが壊れるが先か、ビルが瓦解するが先か…」

「大丈夫だよ」

受付に防弾ガラスを下ろしたクズが、中からうっそりと請け合う。

「ふつう、ビルよりソファのほうが弱いから。ビルが半壊したぐらいで、ソファが使い物にならなくなるよ」

そこまで使えるソファなら、ほかに用途がありそうだ。

昨日まで待合室にあったソファといえば、ずいぶんな年代物で、それでも頑丈さが売りではあったのだが、見えないところでずいぶんがたがきていたようだった。

一度の投擲と衝突で各所のネジが飛び、骨組みが歪んで飛び出てとして、さすがに使い物にならなくなってしまった。

それで中古屋で新たに買い直したわけだが、クズの言い方だと、新しく購入した中古のソファは、ビルを半壊まではさせられるらしい。ずいぶんな掘り出し物を引き当てたと言えるのではないか。

しかしてそんなすばらしい掘り出し物の、ほかの用途を模索する間もなく、憤然と歩いて行ったダーが、再びソファを掴む。

苦もなく頭上へと掲げたダーは、忌々しく仁を睨みつけた。

「いや待っ…っ」

「避けるなある!」

雷鳴轟くがごとき叫びと同時、再びソファが投げつけられる。

妙なる美声ではあれ、その威迫の凄まじさはまさに雷轟であり、仁の体は痺れた。なにより、命ずる相手の過ぎ越した美しさだ。つい、すべて言われるがまま、従いたくなる。

咄嗟に体が固まった――

のだが、ぎりぎり、言葉通り髪一筋ほどの間で、なんとか避けた。

再び、病院が轟と揺れ、コンクリートの壁にひびが走る。ぱらぱらと、コンクリ片が剥がれて落ちた。

だがまだまだ、ソファは健在だ。表皮こそ破れても、中の骨組みはまるで歪んでいない。三人掛けのはずだが、もしかしたら百人乗っても大丈夫な代物なのかもしれない。

やはり別の活用方法を考えてやるべきではないかと思うが、ある意味、今日のダーも正常な判断力を失っていた。いや、むしろ今まで以上に、かつてなく切羽詰まっていると言っても過言ではなかった。

なにしろ懸かっているのは食事、食欲だ――

太陽も月も喰らって満足しないほどの食欲を持つ一族にとり、これ以上の危機もない。

「避けるなと言ってるあるに……っ!」

歯噛みしながらダーはソファを拾う。

三度、頭上高くへ掲げられる前に、仁は慌ててダーの元へ走り、その手に手を重ね、取り縋った。

「だから待て待ってくれっ話し合おうまず話してくれ!」