VARCORACI

2部-第8

ところで再三言っている『正常な判断力』だが、さてこの基準はいったい奈辺にあるものかということが、実のところ明確にされないまま、ここまで至ってしまっている。

これは同じ人間同士であってすら、国や地域、あるいは時代によって移ろうものであり、あえて言うなら『一貫できるものがなにもない』という一点のみが常に一貫しているとかいう、非常に面倒な問題だ。

挙句、ダーだ。

ダーはそもそも、人間ですらない。ではなにかというとそれもそれでまた難しい問題なのだが、とにかく人間ではない。もっと言うなら、イキモノですらないらしいのだが。

とにもかくにも、必然、正常な判断力のその『正常』の範囲がまず、人間とは違うだろう。

たとえば下水道で狩ったどぶねずみをおやつに齧るのは、ダーにとってはまったき正常な判断の範囲だ。

洗浄・消毒をいっさいせず、火も通さない生のまま、内臓から骨まで、あるいは頭の天辺から尻尾の先まで丸ごと喰らい尽くしたところで、むしろそれこそが彼の種族にとっては『正常』だ。

対して、人間だ。もちろんこのうちのひとつでもやろうものなら、狂気の沙汰以外のなにものでもない。その原因が飢餓の果てであれ、しかし決して正常な判断であったとは見なされない。

よって、ダーの今のやりようにしたところで、彼と、彼の種族的にはまったき正常な判断において行われているかもしれないのだが――

「なにか不満が、気に食わないことがあるんだろう?!じゃあまず、言ってくれ聞かせてくれ、あんたの考えを。それでとにかく、話し合おう!」

ダーに取り縋り懸命の説得に励む仁だが、彼の言うことはつまり、そう、人間として、非常にまっとうだった。少なくとも彼らの生きる時代、社会通念において、人間として非常にまっとうであると評して構わない言い分で、態度だった。

仁である。

そして、ダーである。

「nOGhue………!」

――なんとも表記し難い声を上げ、ダーの手から掲げかけのソファが滑り落ちた。美貌も引き歪み、それであっても美貌が未だ美貌以外のなにものでもないから絶望にも果てがないわけだが、とにかく凶器もとい、ソファから手は離れた。

のみならず、ダーは取り縋る仁からも器用に離れた。だいたい二歩分ほど後退し、愕然と唖然をまぜこぜてからどぶに捨て、代わって諦念を拾い出したような表情で仁を眺める。

「おまえ………たかが記憶を失ったごときで、おまえ………」

「どの口で話し合いとか言いだしてんのかっていうか話し合いという語彙が一応脳みその端だか底だかには存在していた事実の発覚に人間神秘が過ぎてもう不信しかない」

ダーが小さく言いかけたなにかは、感情が死に絶えたような、異様な淡泊さで吐きだされたクズの言葉に呑まれて消えた。

異様とはいえ、しかしこれはクズの常態だ。この異様さこそがクズの正常であり、この異様さが失われたときが、クズの異常だ。

振り返ったダーを、クズはやはり感情が死に絶えた、億劫しかない目で見返した。重ねた絶望に虚無が宿った瞳だ。

臆することもなくまともに見返して、ダーは片腕を上げ、自らのもう片腕を指し示した。

「見ろある。毛穴もないのに鳥肌立ったある」

「それをなんで俺に見せる」

もちろん、毛穴もないのにどうにかして立ったという鳥肌の原因は、仁だ。仁がくり返しくり返して求め、希った『話し合おう』という。

仁だ。

仁が、だ。

話し合う前に拳が出る男が、さもなければ蹴りを飛ばす男が、求めようものなら『黙れ』、『うるせえ』、『四の五の言うな』のどれかか、そのすべてを吐いて全力で拒否する男が、である。

まったくもって記憶喪失で人格が変異したにしても、クズの言う通り、人間神秘が過ぎるというものだった。

とはいえだから、原因は『仁』であってクズではないのだ。

まるでクズのせいだとでも言わんばかりにそんな、ないのにあるとかいうものを示されても、はた迷惑以外のなにものでもない。

そもそもダーは腕まくりしたわけでもないから、肝心要の肌が未だ袖の下、服地に隠されて見えないときた。

吐き捨てて目を逸らしたクズに、ダーは笑った。似つかわしくなく、それはひどく穏やかな笑みだった。

「やれやれ……」

目を逸らしたクズは当然ながら見ていなかったが、院長はダーのその笑みを見ていた。

嘆息して、皺と区別のつかない細い目はますます細められ、かわいい『孫』の前におろおろと立つ巨躯――仁を、遠くに眺める。

「やはり、壊れたらもう、玩具は要らないんだねえ………久しぶりにずいぶん、気に入っていたようだったのに」

「院長?」

隣り合っていても、クズと院長の間には分厚いガラスが挟まれている。ぽつりとこぼされた老人の独白はもとよりかすれて聞き取りにくく、クズの耳には『なにか言った気がする』という程度にしか届かなかった。

束の間首を傾げたクズだが、すぐに忘れた。どうでもいいからだ。

たとえそれが自らに関わることであったとしても、どのみち彼らにかかればクズの意思はすべてきれいに無視される。覚えていたところで、もはや底を突いている精神をさらに消耗するだけ、無駄の極点越えでしかないのだ。

振り返っていた体を戻し、ダーは再び仁と向き合った。凪いだ笑みは一瞬のことで、向けた顔はすでに不機嫌に歪んでいる。

「なにが不満か言えと言ったあるな吾の要望ならなんでも聞くと」

いや、確かそこまでは言っていない。言えば聞くとまでは。

仁が言ったのは、話し合おうというところまでだ。互いの意見を出し、すり合わせることをしようと。

しかし確信を持ったダーの言い方だ。なにより、突き抜けた超越級の美貌だ。捏造も真実へと反す。

それでも仁が『仁』であれば、そこまでは言ってねえと耳を貸さなかっただろうが、今、彼は『彼』ではなかった。

だから、頷いた。ただ、素直に。

「ああ、ああ言ってくれ。俺はなにをすればいい俺になにをしてほしくて、あんたはそう、荒れた?」

――もうひとつ言うなら、『荒れた』挙句に、ダーがなにをしたかだ。

どう考えても惨劇しか予感できない大きさと重量と頑丈さとを誇るソファを、まるで投石器にかけたがごとくの勢いで投げつけてきた。

それも、単に癇癪を起こして手あたり次第にモノを投げたというのではなく、明確に仁をめがけて、仁の頭を潰すために。

いや、ダーの側から言えば、潰す気はない――あくまでも、仁が記憶を失った瞬間の再現だ。

だが、非常に常識的に人体の耐久度を鑑みたとき、あの大きさとあの重量とあの頑丈さにあの勢いを乗算しては、ごくごく控えめに言っても頭蓋陥没は避けられない。

仁の耐久度が常識的な人体の範疇にあるかどうかという問題はあれ、しかし『仁』だ。

それは記憶を失う前の『仁』の話であって、今の『仁』は自身の耐久度の正確なところを知らなかったし、もし人体の範疇を超えられるとしても、その方法も知らなかった。

『今』の仁では、ビルを半壊させられるほどの頑丈さを誇るソファと、戦うことはできない。つまり、比喩でもなんでもなく、命が懸かっているのだ。

――念のため補記しておくと、あのソファがビルを半壊させられるほど頑丈かどうかについては、未だ真偽が定かでない。議論の余地のある、検証もなされていない仮定の話だ。この比喩はあくまでも、深く考えることを放棄しているクズの、無責任極まる放言でしかないからだ。

だとしても、あまりまともに戦いたい相手ではないことに、変わりはない。それもダーが振り回すなら、なおのこと。

というわけで、重なる理由から捏造も素直に容れざるを得なかった仁に、しかしダーが容赦することはなかった。

胸を張り、畳みかける

「ならば、血を飲ませるあるおまえの血を吾に与えるあるよ!!」

「ああ、そうか、ち…………………血?」

勢いまま安請け合いしそうになった仁だが、さすがに止まった。

なんだかんだあれ、今の彼はまっとうな判断をする、まっとうな精神の持ち主だった。

そのまっとうな頭でまっとうに考えるだに、ひとに血を飲ませろと迫るのは、まったくもってまっとうではない。まっとうの対極だ。

それに、そう、思い返してみれば、確かダーは昨夜もそんなようなことを言っていた。結局、有耶無耶のうちに布団に流れこみ、挙句ダーは途中で意識を飛ばしてしまったし――

それが今、ダーがこれほど荒れた最主因となっているわけだが、もちろん仁は知らない。クズ相手にダーが喚き散らしていたとき、仁は家から病院までを好き勝手に振り回された(これは比喩でもなんでもなく、まったくもってこの通りのことが起こった)後遺症でのびていて、まともにものを聞ける状態ではなかったからだ。

それはともかくだ。

ダーの主張は、一貫している。

ならば記憶のない仁をからかっているわけではなく、ほんとうに、ダーは飲みたいのだ。仁の、人間の血を。

ぞわりと背筋を這いのぼる感覚があり、仁は鬼瓦程度の鷹揚さに保っていた表情を曇らせた。

「血が飲みたいって、血を飲むって、あんた、いったい……」

「まったくもって度し難いもの、それは人間あるそれが人間ある!」

正体を質す仁の言葉にほとんど被せるように、ダーは高らかに唱えた。そこには自らと、自らの一族に対する折れることも曲がることもない誇りと、矜持と、自負とがあり、同時になぜか、人間に対する肯定が感じられた。

少なくともこのとき、この『仁』にはそう、感じられたのだ。

血を飲ませろと、まったくもってまっとうではないことを、堂々迫る相手であるというのに。

もとより姿勢のいいダーだが、さらに胸を張った。朗々と、唱える。

「仕様がないから、最後にもう一度だけ、聞かせてやるあるが………吾はVarcoraci、誇り高き闇の眷属ある。太陽も月もなんでも喰らうあるが、いちばん食べたいのは血人間の血あるというわけでおまえは吾に血を供するよろし!」

話し方と言っていることともあれ、ダーの美貌だ。絶世も超越して、もはや人間離れした。

それに、話し方と言っていることはともあれ、ダーは見た目のみならず、声もいい。高らかに誇らかに発すれば、なおのことだ。

そう――ここにも罠があった。

話し方はいいとしても、言った内容は『ともあれ』で流してはいけないはずなのだが、諸共に『ともあれ』で横に置いて棚に上げ、とにもかくにも了承を求められているのだからと、ただ頷いてしまう。

そういった力に満ち満ちた美という、ろくでもない罠が。

「あんた、つまり、きゅうけ」

「Varcoraciある!」

仁に皆まで言わせず、ダーは断固として返した。

「わ…」

くり返して言おうとしてしばらく口をもごつかせ、仁は諦めた。

語尾諸々の問題はあれ、ほかの部分は流暢な日本語を話すダーなのだが、一族の名を発するときだけ、どうにも母語だ。どこの国の言葉かはわからないものの、とにかく日本語の並びではないし、発音でもない。

ダーが訛りもない流暢な日本語を話すぶん、油断していた脳は突然挟まれた、しかも単語でしかない外国の言葉を認識しきれない。うまく聞き取れないから、当然、くり返して言うこともできない。

「ええと、とにかく、………それで、血が欲しいと」

「そうある」

細かいところをなんとか誤魔化して念を押した仁に、ダーはきっぱり頷いた。しかしすぐ、首を横に振る。

「とはいえ、吾は慎ましさを知るVarcoraciある。ほんのひと口、ひと啜りも貰えれば、十分あるよ。それにしたって、何度もなんども寄越せというのではないある。たった一度、一回こっきりの話ある」

「え、そうなのか」

てめえは『慎ましい』の意味を辞書で調べたことはあんのかと――

きっと以前なら言った。以前の『仁』なら間違いなく、怒鳴りつけていた。が、もはや耳のタコが病的に膨れ上がるほどくり返しくりかえしくり返して言うが、今の仁は『仁』ではなかった――

まっとうな話ではないことに変わりはないが、今のダーの言葉により、一気に規模が縮小された感があった。

思わずといった形でつぶやいた仁は、ダーの求めに対して相応に肯定的な気分となっていた。確かにまともではないし、どうかしているとは思うが、ひと口程度であれば別にいいのではないかと。

これは詐欺の常套である。

先に出された難題にNOと答えた人間は、次に出された縮小した(ように感じられる)要求にはNOと答えにくく、つい、YESと答えてしまいがちであるという、普遍心理を利用した。

人間が無意識のうちに備えている良心や善意といったものに付けこむやり方で、詐欺師の本題は当然、次に出した要求のほうだ。

もちろん、先に出したほうを素直に受けてもらっても別に構わないが、本題はあくまでも後のほうなので、こうなったときの詐欺師は、最終的にはどちらの要求も呑ませる方策を取る。

さらにこの場合、被害者の損害は二倍ではなく二乗であり、詐欺師の儲けも二倍ではなく二乗だ。

とにもかくにも、どのみちダーの要求は血を飲ませろの一択だ。

しかしだとしても、具体的に示された量だ。ただ飲ませろというならともかく、腹が膨れるほど欲しいというならともかく、たったひと口でいいという。

そして今の仁だ。

非常に良心的な、善意に溢れた――

「それに吾は、病原菌ではないあるからね。吾が血を啜ったらおまえもVarcoraciになるとか、まったくあり得ないある。というか、そんな程度で吾が旧き正しき邪神の一族入りできるとか、ばかにしているにもほどがあるある!」

実のところダーの本意とは別に、最終的に仁を納得させた、ほんとうに腑に落ちて疑念を捨てさせた理由とは、後半の部分だった。

仁に言い聞かせるというよりは独白に近い、吐き捨てるように言われた、『そんな程度で』、『ばかにしている』という件だ。

自らの一族をほんとうに誇りとしているのだと、いかにももっともらしく流布された『噂』を心底から憎み、悔しがっているのだとまざまざわかる、声の調子に、響き――

だから仁は、つい、とうとう、頷いた。頷いてしまった。

「わかった。ならばあんた、俺の血を飲むといい」