VARCORACI
第2部-第9話
その瞬間のダーの表情を、どう表現すればいいかはわからない。どういった感情に由来する表情なのか、その感情はそもそも、人間が持ち得るものなのか――
ただ確実に言えるのは、歓喜ではなかったということだ。
いつものダーの様子から考えれば、これ見よがしに勝ち誇り、うざったいほどはしゃいでもいいはずだったが、そういったことはまったくなかった。
ただ、静かに容れた。
なぜなら『仁』がそう答えることはダーにとって当然の、もはやすでに起こったに等しい結果でしかなかったからだ。
「やれやれ……結構な逸材だったのにねえ、もったいない……」
つぶやきつつ、院長は踵を返した。
見た目から明らかなように、彼は結構な老齢だった。医師として健康維持に気を遣ってはいるが、立ったまま野次馬を続けるに、これ以上は体力が持たないのだ。
なによりほとんど状況は収束した。となれば彼がやるべきは今回の損害をだれに被せるかという算段であり、あるいは、『失われた』従業員の補填をどうするかといった経営に関わる判断で、それは受付で立ったまま頭を巡らせるより、自らの巣である院長室に戻ったほうが格段に捗る仕事だった。
クズといえば、院長の背を見送るだけで、声をかけることもしなかった。かける言葉もなかったからだ。
ただしこれは比喩的な話ではなく、単純な事実だ。クズは院長に対して、特に今、どうしても話さなければいけないようなことは、いっさいなかった。
迂闊に話しかければ、なにを押し被せられるかもわからない。話しかけなければ無事に済むかといえば、そんなこともまったくないのだが、経験上、自分から話しかけるよりはましだ――
そういうわけで観客がひとり減ったのだが、仁もダーも構わなかった。仁は気がつかなかったからだし、ダーは気がついていても、大したことだと判断しなかったからだ。
もとより、見せ物ではない
ダーはただ、仁を見据えていた。
「男に二言はないあるね?この言葉は『武士に二言はない』だったものが転じてこうなったあるが、おまえあとで、自分は武士ではないからとか、サムライだった覚えはないとか、言いださないあるね?確かに了承、承諾したあるね?」
――今の仁は以前よりずいぶん鷹揚だったし、従順でもあったが、このダーの物言いには少々、辟易とした。言い回しのくどさというか、念押しの多さだ。どれだけ自分は信用がないのかという。
もちろん信用など、いっさいない。
が、これもやはりもちろんで、仁はそんなこととはまったく知らないのである。
だから少々とはいえ辟易としつつ、しかし善良な彼はひたすら誠実だった。
「ああ、大丈夫だ。そんなことは言わない。屁理屈をこねて、約束を破るようなことは決してしないから」
真摯に誓って、わずかにおずおずと、付け加えた。
「だからあんたも、もう、……ソファを投げるとか、そういうことは」
「必要ないある。おまえが血を寄越すというなら」
仁が皆まで言うのを待たず、ダーはきっぱりと返した。ほんとうに珍しいほど、きっぱりとしたものの言いだった。
が、『仁』はダーとの付き合いが浅い。もとの仁だとてそう深いわけではないが、この『仁』はさらに浅いのだ。そんなことはわからないし、それを異様に感じることもできなかった。
それで、だから――
ダーはにっこり笑うと、仁へと手を伸ばした。
「ならば首を寄越すある。吾は吸血鬼ではないあるが、蚊でもないあるからね。まったく痛くないとは言わないあるが、なに、すぐ終わるある。ろくに物を思う間もないあるよ」
「ん、ああ…」
仁が躊躇ったのは、ことここに至って危機感を持ったとか、そういったことではない。今すぐ、まさにこの場でなのかという、いわばTPO的配慮からだ。
けれどすぐ、思い直した。
なにしろ『ひと口』だ。『ひと啜り』だというのだ。がぶりごくんで、あっという間に終わりだ。もったいをつけるほうが、かえっておかしいのかもしれない。
なによりここには、ほかにひとがいるわけでもない――受付のカウンタにクズはいるが、それだけだ。しかもクズの顔は、明後日のほうを向いている。
微妙に窺える表情から推測するに、気を遣っているわけではない。ただ、興味を失った、飽きたという。
「首、な…」
仁は首を撫でた。求められるままシャツの襟を開こうとして、ふと、手が止まる。
「右か?左か?」
どちらに咬みつくのかと訊いた仁に、ダーは牙を剥きだしてにやりと笑った。
「左ある」
「だよなあ…」
なにが『だよなあ』なのかは、言った仁にも不明だったが、なんとなくダーは左からを好むような気がしたのである。
ので、仁は左側を大きく開き、首も右に傾げ気味とした。血管がよく見えるよう、咬みやすいようにしてやる。
まな板の上の鯉どころではない。自ら包丁を振るって調理から盛りつけまで済んだ、皿の上の鯉だ。
従順な態度に、ダーは蕩けるように笑った。同時に仁の鼻腔をふわりと、薔薇の香りが掠めたような気が――
仁は唐突に、ひどい眩暈に襲われた。
思考が眩み、視界が白濁していく。世界が狭まり、体から力が、感覚が失われていく。
だというのに目の前のダーだけは、牙を剥きだして笑うバケモノだけが、よく見える。
うつくしいバケモノだ。
ただひたすら、うつくしいバケモノだ。
言葉が死に、それでも仕方がない、うつくしいうつくしいうつくしいうつくしいうつくしいうつくしいうつくしいうつくしい――…………………
「ん、っ」
ただひとつだけ見えていたダーの顔が、小さな呻きとともに見えなくなった。それでも仁の思考は茫洋として戻らず、戻らないが茫洋と、なぜだろうと考えた。
この世界にはあのうつくしい顔だけがあればよく、それがこんなふうに失われるのは耐えられない。耐え難い。いったいなにが、だれが、あのうつくしい顔を隠したのか。あのうつくしい顔を仁の視界から、世界から奪ったのか。
「………へえ?」
小さなつぶやきは、クズだ。とはいえ、相変わらず彼は分厚いガラスの向こうにいるし、声は小さすぎて、仁の耳に届くほどではなかった。
クズは横目でちらりと状況を見て取り、思わずといったふうにつぶやいて、――少し考えてから、顔を正面に戻した。
興味が戻ったのだ。
仁の手が、近づこうとしたダーの顔を鷲掴みにして止めていた。
そんなことは不可能なはずだった。
迂闊にも『契約』を交わした仁はもはやダーの虜であり、抵抗どころか、人間としての意志を失っている。
顔を鷲掴みされて(実のところ、この光景だけ取ればよくあるもので、ダーにとってもある意味、馴染みの感覚ではあった)、ダーは束の間、動きを止めた。
仁の手のひらは、ダーの小さな顔を余裕で覆い尽くし、完全に掴んでいる。
だとしてもダーにとって、振り払うのは容易いことだった。仁が全力を尽くしたところで片手間に払えるが、今の『仁』は茫洋としたままで、掴んでいてもほとんど力を感じない。なおのこと、軽く首を振るだけでも――
それでもそうすることはなく、ダーは手のひらの下に埋まるくちびるを開いた。
「なにをするあるか。これでは血が飲めないあるよ」
手のひらの下でくぐもっているにしても淡々と、指摘する。
激することもないが、だからと普段の軽さや能天気さがあるでもない。話し方だけはいつも通りの残念さだが、それ以外はひどく平板で、『窺い知れない』。
「おまえ、『約束』はどうしたある。吾に血を寄越さないつもりあるか」
淡々と、たんたんと、坦々と――
詰められて、仁はぶるりと震えた。
ぶるりと震え、ぶるぶると震えた。ダーの顔を鷲掴みした手も震え、指が開き、手のひらが浮く――
途中で、仁の関節が不自然に軋み、筋が立った。震えながら歪み、歪んで震えながら筋が軋んで立って、ダーの顔を掴む指に力が戻る。
いや、単に戻ったのではない。倍の力、倍々の力だ。今や指はほとんどダーの顔にめりこみ、いっそ潰そうとしているかのようだった。
指だけではなく、仁の顔もまた、黒いほどの赤に染まって歪み震えていた。それも『ぶるぶる』という形容で済まない、異様な歪み方で、震え方だ。
強いて、あえて挙げるなら、芸人などが前面から強風を当てられてやる顔芸に近いだろうか。
ひとの技で表情を変えるのではなく、如何ともし難い力により、強制的に、抵抗のしようもなく歪められ、震え、風が吹いている間は決して、一定にも一律にもならない、留め置けない表情。
念のため言うなら、彼らがいるのは室内であり、そこまでの強さの風は吹いていない。空調は効いているものの、しかし空調だ。顔芸の助けになるほどの強さでは、決してない。
なにより言うなら、仁の顔だ。もとからの、地の、顔相だ。ここ一日ほどは鬼瓦程度の穏やかさを保っていたものを、だから、そう、――
あれほど善良で誠実かつ温厚な人柄であっても、仁の顔面はせいぜいいって、鬼瓦程度の穏やかさでしかなかった。
それが黒いまでに赤く染まり、額に血管を浮き上がらせ、挙句、これだ。それで、あれだ。
酒呑童子が正体を明らかとしたところで、隣にこの仁が立っていたなら、楚々とした美少年に見えたことだろう。それ以前におそらく、酒呑童子がまず、恐れをなしてこの仁の隣に立たない。立てない。回れ右で脱兎だ。
そういう顔で、表情を晒してだ。
「ぅ゛、あぇ、ぁ、あ゛、ぅう゛、か゜っ……っ」
歪む顔面は、口も含む。
形の定まらない仁のくちびるは当然、まともな言葉も作れず、発せない。
ますますもって、ヤってはいけないクスリをヤった挙句の、末期的様相だ。
「ぅう゛、ぁ、か゜、ぶぁ」
「………面倒あるね。もう首は諦めて、手のひらからいただくあるか」
歪み震えながら声をこぼす仁を手のひら越しにしばらく観察してから、ダーはそう結論した。その声は手のひらの下でくぐもっているほかは、まったく平静だった。
が、ダーの顔を鷲掴みにする仁の手を見れば、筋の立ち方、血管の盛り上がり方が尋常ではない。
相当の力が入っていると、荒事のしろうとであってもひと目でわかる。おそらく常人であれば、頭蓋を割られているだろう力だ。
しかしダーは相変わらず飄としていたし、指が表皮を多少なり歪めていたことは確かだが、大きく肉を歪めるというまでには至っていなかった。
なにより、痛みを訴えない。
なにかで非常な頑丈さを誇ったとしても、これだけの力をこめて顔面を鷲掴みされれば、相当な痛みは覚えるはずだ。
けれどダーは淡々として平静であり、痛みらしい痛みを訴えることも、感じさせることもなかった。
ただ、美貌がそこにある。
ただひたすらな美が、厳然と。
「やれやれある。どこまでも手間をかけさせる男あるね」
「が、ぁぶ、ふ゜、……っ」
呆れたように言いながら、ダーは口を開いた。開いた以上にくちびるがめくり上がり、白い牙が覗く。
仁の親指はダーの顎に掛かっており、閉ざす方向で力をかけている。ダーは本来、普通に口を開くのも苦労するはずだった。
それでも普通に、話す。常と変わらず話すだけでなく、捕食のために開く。
覗いた白い牙が、仁の手のひらに刺さる。
寸前。
仁の全身が膨らんだ。そうでなくとも筋肉達磨を着こんだような巨躯が、爆ぜる寸前の火薬よろしく膨張した。
そう、見えた。
実際、仁は爆ぜる寸前の火薬であり、そして、爆ぜた。
「っっっるぅるるるっぅうううううっっせぁあああああああああああああっっ!!」
「っ!」
ひと際大きな――もはやほとんど地獄の鬼を束にしたがごとき雄叫びを轟かせ、仁はダーの首を折った。
折れて、しまった。
まさか、ダーの首が、だ。
小首を傾げたなどというかわいげのある話ではなく、どう考えても不自然に、ダーの首は折れた。首の骨が折れ、つまり、損傷を被った。
これまで仁がどう拳を打ちこんでも、ダーは平然と流し、受けきってきた。顔面を鷲掴みされても、大過なく振り払った。
だというのに、まさか――