エゴイスティック・カインド
仕事を終えて、帰宅した。いつもなら玄関に飛び出してくるカイトが迎えに来ないから、不在かと思えばリビングにいた。
「只今…」
帰った、と告げようとしたがくぽに、リビングの窓辺にへちゃりと座っていたカイトは、顔を歪めた。
くしゃくしゃくしゃと盛大に歪めて、体を震わせ。
「カイ…」
「がくぽのっっ!!ぶゎああああああっっか!!!」
――叫ぶと、すっくと立ち上がり、がくぽの脇をすり抜けて、リビングから飛び出して行ってしまった。
「……………あっちゃー。がーっくん、がっくん。ナニしたのっていうか、がっくーんっ」
「………」
石柱と化しているがくぽに、近づいたミクはふりふりと手を振る。それでもしばらく、がくぽは呆然と立ち尽くしているばかりだった。
「がっくーんっ、『おっき』してくださーい」
「っ」
びし、と額を指で弾かれて、ようやくがくぽはびくりと震え、目の前に立つミクを見下ろした。
その花色の瞳が盛大に困惑し、動揺に歪むのを、ミクは仕方なさそうに見上げる。
「お心当たりは、がっくん?」
「あるか!」
あったらこんなふうに、のこのこ顔を出したりしない。完全に不意打ちで、心当たりもないからこそ、咄嗟に追うことも出来ずにいたのだ。
慌てて踵を返そうとしたがくぽは、振り返ったところで、さっと足を引いた。瞬間的に、腰が落ちて身構える。
「ふっふっふっふっふ」
「くっくっくっくっく」
リビングから出たいがくぽの行く手を阻むように、黄色い小鬼が二匹、怪しい笑いを閃かせて立っていた。
「リン殿……レン殿」
がくぽは低く這う声で、二人の名を呼ぶ。
笑うリンとレンは壮絶な眼差しで、構えるがくぽを睨みつけた。
「おにぃちゃんにナニしてくれたの、がっくがく………!」
「滅多に怒らないにぃちゃんが怒るような、ナニをしやがった、てめえ………!!」
「「おーしーおーきーだーべさーーーっっっ!!!」」
「ち……っ!!」
そんな場合ではないが、この鬼っ子たちを倒さなければ先へは進めない。
くちびるを噛むがくぽの後ろで、ミクが菓子鉢を取り、スプーンで底をかん、と打ち鳴らした。
「れっつふぁいっ☆」
***
へちゃんと座りこんだカイトは、ぐすぐすと洟を啜る。
がくぽがなにをしたかというと、実際のところ、「なにもしていない」。
今日のカイトとがくぽは別々の仕事で、いっしょに行動していなかった。それが、とあるスタジオの前を通りかかったところで、偶然にもがくぽを見かけて――
うれしくて声を掛けていこうとしたカイトは、そのまま、固まった。
がくぽは、女性と話をしているところだった――カイトも知っている相手で、マスターの友人のひとりだ。
どういう人物かわかっているから、彼女ががくぽをどう思っているかもわかっている。深い意味などない、楽しい友人のひとりだ。
けれど、女性の手ががくぽの体をべたべたと撫で回して――本当はきっと、撫で回していたというのとは違うのだろうが、カイトにはそう見えた――、がくぽも、その手を拒まなくて。
だからといって、キスをしていたとか、手を繋いでいたとか、がくぽから女性に触れていたというのではないのだ。
楽しそうに話してはいても、それは友人同士で片付くレベル――
「………ぐすっ」
カイトは大きく、洟を啜った。
ふざけたのだろう、女性ががくぽに抱きついたところで、カイトは耐えきれずにその場から去った。
浮気をしていたわけではない。がくぽが女性を抱き返したわけでもなく、どちらかといえば、そこまでの接触には迷惑そうでもあった。
それでも、胸がもやもや、むかむかして、ひどく苛々として。
だれもさわらないで!!
おれのものなんだから、だれもだれも、さわっちゃだめ!!
心が、激しく叫ぶ。すでに、痛いほどに。
そういうカイトのほうは、接触過多で、いろいろなひとに触るし、親愛のキスも贈る。
なのにがくぽにはそんなふうに思うなど、公平ではないし、ワガママだとも思う。
けれど、心が叫んで、止まらない。
がくぽをひとりきり閉じこめて、だれにも触れさせないように、見られないようにしてしまいたい。
――本当にがくぽがひとりきりになどなったら、きっと苦しくて泣くと思うのに、その思いを押し潰して、叫ぶ凶暴な考え。
こういうことを考える自分は、嫌いだ。嫌いなのに、いやなのに。
「…………ぅ、ひっく」
しゃくり上げて、カイトは自分を抱きしめた。
がくぽは悪くない。悪いのは、自分だ。早くがくぽのところに戻って、ごめんねと言いたい。
がくぽは悪くないからね、赦して――きらわないで。
言いたいのに、もう、立ち上がれないから、どうしたらいいか、わからない。
***
疲労困憊し、がくぽは自分の部屋の襖を開いた。
鬼っ子二匹を相手に死闘をくり広げ、なんとか勝利して――というより、隙をついて逃げ出し、家の中をカイトを探して歩き回った。
さっぱり見つからないと来た。
靴はあるから、外には出ていないはずなのに、どこにも姿が見当たらない。
どうしたものかと考えあぐねて、とりあえず、自分の部屋に――来たら。
「………」
「………………………カイト………」
まさかのご在所。
果てしなく疲れて、がくぽは畳に膝を着きかけた。
あんなふうに怒って飛び出しておいて、まさかがくぽの部屋にいるとは、真実考えが読めない。
恨めしげな瞳で見上げるカイトに、がくぽはどうにか態勢を整え直し、部屋に入った。
襖を閉め、困ったようにカイトを見下ろす。
なにをしてこうまで拗ねさせたのか、原因に心当たりがない。
そもそも、朝出掛けるまではいつも通りで、そしてさっき帰ってくるまで、顔を合わせることもなかったのだ。
なにをしようもないというのに。
それとも、なにかして欲しかったのに、してもらえなかったと怒らせたのか。
しかしメールの着信があったわけでも、電話の着信があったわけでもなく――特に、約束していたことすら、なく。
とにかく、怒りの原因が思い当たらないから、どう謝ればいいのかもわからない。
戸惑う視線が見合ったのは一瞬で、カイトの瞳はすぐに潤んだ。涙が盛り上がり、ぼろりとこぼれる。
「………………………ごめんなさぃ…………」
「…っ」
涙とともに吐き出された謝罪は、カイトから。
凝然と瞳を見張るがくぽに、カイトは顔をくしゃりと歪め、ぼろぼろと泣きこぼした。
「ごめんなさい…………………ごめんなさぃ……………っ」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、何度も何度も、謝罪の言葉をくり返す。
がくぽは顔をしかめてしばらく考え、カイトの傍らに膝をついた。かわいそうに泣き濡れる顔を、見据える。
「……………俺が悪いのでは、ないのか?」
訊くと、カイトはぶるぶると首を横に振った。そして堪えきれずに瞳を閉じると両手で顔を覆い、しゃくり上げる。
「ごめんなさい…………っっ」
「………」
そうも一言をくり返されるだけでは、なにがあって、どうなったのかがわからない。
途方に暮れて、がくぽは手を伸ばした。カイトの頬に触れ、雫を拭う。
けれどカイトはびくりと震えると、がくぽの手から逃れた。そうやっておいて、怯えるようにがくぽを見つめる。
「……………ごめ、ん………なさぃ…………っ」
「………」
謝ってほしいわけではない。理由が訊きたいのだ。
とはいえこのままではおそらく、埒が明かないだろう。カイトはたまに、自分の感情に対してひどく強情になる。
「………俺が悪いのでは、ないのだな?」
「………ぅくっ」
念を押したがくぽに、カイトはしゃくり上げながら頷く。
がくぽは頭を振ると、立ち上がった。文机まで行くと、引き出しを開いて漁る。きれいに整理されているから、目的のものはすぐに取り出せた。
がくぽはそれを持って、カイトの前に胡坐を掻いて座る。開ける距離は、ひとひとり分。
そうやっておいて、手に持った何枚かの「チケット」を差し出した。
「使うぞ」
「………っ」
泣き濡れていたカイトが、瞳を見開いて、がくぽが差し出した数枚の紙切れを見つめる。
紙にはポップなデザインで、「キスし放題」と「抱っこし放題」、「おさわりし放題」の文字が、それぞれ躍っている。
先頃、がくぽが家族となった記念日に、カイトが贈ったプレゼントだ。
家族となった記念日とはいえ、実態はコイビトだ――そのがくぽに、なにか特別な贈り物を、と考えて、考え過ぎてテンションの箍が外れた挙句に出来た、「カイトが→がくぽに」したい放題出来るという、贈り物としてはいかがなものかなチケットだ。
見つめるカイトに、がくぽはチケットを揺らした。
「……………なにやら知らぬが、俺は悪くないのだろう?そしてお主は反省した」
「……」
言い聞かせるようにゆっくりと、落ち着いた声で、がくぽは言う。その顔が、わずかに笑みに歪んだ。
「………だが俺が、傷ついたことは、事実だ。ゆえなく責められて、それはそれは傷ついた」
「っぅくっ」
しゃくり上げて顔を向けたカイトに、がくぽははっきりと笑う。カイトの視線から外れないようにチケットを持ち上げ、揺らした。
「ゆえにお主はこれから、『ごめんなさい』として、俺のことをそれはそれは、甘やかせ。たくさんのキスと、たくさんのハグと、たくさんのスキンシップで、俺のことを慰めろ」
「……っ」
カイトは瞳を見開き、がくぽを見つめる。
がくぽは再び、チケットを差し出した。
「受け取れ」
「っ!!」
「っと」
ひったくるようにチケットをむしり取ったカイトは、そのまま畳にそれを放り出すと、がくぽに抱きついた。
ぎゅうっと抱きしめると顔を上げ、笑うがくぽのくちびるにくちびるを押しつける。
「ん……っ」
きつく吸ってから、またがくぽを抱きしめる。
「ごめ……」
「もうひとつだ、カイト」
謝罪の言葉を吐き出そうとしたカイトのくちびるに指を当て、がくぽは瞳を細めた。
「……これはチケットがないゆえ、完全に俺のおねだりだが……………しばらくお主、『大好き』か『愛している』以外の言葉は禁止だ。ごめんもすまんも言うな。その二言の、どちらかだけさえずっておれ」
「…」
がくぽの言葉に瞳を見張ってから、カイトはようやく、笑み崩れた。がくぽへとくちびるを寄せ、つぶやく。
「大好き、がくぽ…………大好き…………っ」
「ん」
くり返されるキスと告白に、がくぽは満足そうに笑って、カイトを抱き返した。