記憶の定義-前編-
「おやすみ、おにぃちゃん」
「ん、おやすみ、ミク」
夜も十一時になると、この家ではそれぞれ自室に引き上げ始める。それまでは好き勝手なことをしていてもリビングに集っているのだが、三々五々に散っていく。
散っていくときに恒例となっているのが、カイトとの「おやすみ」のキスだ。これに関しては、難しい年頃の少年として矜持を張るレンも素直で、きちんとカイトにおやすみのキスを貰い、お返しをして、部屋へと引き上げる。
いつもいつもくり返される、その光景――の、なにが、そう、引っかかったのか、わからない。
わからない、の、だけれど。
「がくぽ、がくぽも……」
「ああ」
恋人となる以前は、苦手としていたこの、夜の時間だ。がくぽに挨拶のキスの習慣はないからだ。
だが恋人となってからは、それほど苦手でもない――それほど、というのは結局、「挨拶の」キスの習慣がないことは、変わらないからだ。
キスをされたらこころが騒ぐし、夜ともなれば、その先へと進みたくなる。
けれどカイトにとっては、あくまでも挨拶。その域を超えるものではないから、齟齬が生じる。
それでも、以前よりはずっと落ち着いた心持ちで、カイトのキスを受ける。
頬に触れられて、ささやかれる言葉は、変わらず、安寧を願う祈り。
「いい夢が見られますように」
吹きこまれると、勝手に頬が緩む。
だらしない顔をすれば呆れられると思うから堪えるけれど、どうしても緩んでしまう。
「カイトも……いい夢が、見られるように」
「ん」
ささやきを返し、額にキスを落とす。おとなしく受けたカイトが、笑った――その顔も、いつもどおり。
なにが違って、なにがこころに引っかかったのか、わからない。
わからない、けれど。
「………がくぽ?」
リビングの床にへちゃんと座ったカイトを見下ろし、がくぽは首を傾げていた。
カイトから離れがたいのは、いつものことだ。いっそ共部屋にしてしまえとも思うが、そうなると四六時中いっしょにいるわけで、四六時中、「して」しまうことになる。
特に防音や遮音に気を使った家でもないから、音はすべて、筒抜けだ。
からかわれるくらいならもう、やり過ごすことも出来るようになってきたが、問題はそれだけではない。
年頃少年少女の弟妹に、そういった物音ばかり聞かせているのでは、彼らの精神衛生上、よろしくない。
だからといって、傍にカイトがいるのに、そうそう触れることを我慢するのも無理だ。
すべてを勘案すると、この距離が最低限、家族と暮らしているうえでは、大事なのだと理解している。
しているから、どんなに離れがたくても、カイトを部屋に連れ込むのは三日に一度くらいに我慢している。
――離れがたいのは、いつものこと。
そう、いつものこと、で。
それ以上に、気にかかることが、あるとするならば。
「………」
「?がくぽー?」
がくぽはぐるりと、リビングを見回す。
メイコとマスターは、仕事で不在だ。
どうもレコーディングが上手くいかないらしく、問題なくパート録りが終わったカイトのことは帰すが、二人はスタジオの近くに泊まりこむと連絡があった。
メールではなく、電話を寄越したマスターは、「よろしくお願いしますね、がくぽさん」と――
きょとんとしているカイトを見下ろし、がくぽは首を傾げた。
「………………………カイト、その…………今日は、俺と、共に寝ないか………?」
「………」
遠慮がちに吐き出された言葉に、カイトは瞳を見張る。ややしてうっすらと頬を染め、瞳を伏せた。
「………明日は、朝から仕事だからって……」
「あ、いや、そうではなく………」
当然の誤解に、がくぽは慌てる。
がくぽと「いっしょに」寝て、行為に及ばなかったことはない。そもそもが別の部屋で寝ることが当たりまえの二人が、いっしょに寝るのは、もちろん、「した」ついでだからだ。
だからカイトの言葉も当然なのだが、がくぽはしばらくくちびるを空転させた。
「そうではなく……………その、ただ、共に寝るだけで……」
「……」
言葉を探して、がくぽは口を噤む。
カイトはまだほんのり頬を染めたまま、不思議そうにがくぽを見た。
うろうろと視線を彷徨わせたがくぽは、ややして諦めた。
なにが気にかかっているのか、自分でもはっきりしないのだ。はっきりしないものを、人にわからせるように話すことなど、出来ない。
考えることを放棄すると、がくぽはカイトを抱きしめた。いつもならすぐさま甘く解ける体が、なぜかびくりと強張る。
――ああ、やっぱり。
去来する思いがあり、言葉があり。
「……………お主、今日はひとりでは、眠れぬだろう?俺が一晩、抱いていてやるゆえ。なにもせぬ。抱いているだけだ。ゆえに、心安く、眠れ」
「……っ」
腕の中で、カイトが大きく震える。
しばらく固まっていた体は、ややして、ゆるゆると解けた。やわらかく凭れて、がくぽにしがみつく。
「……………なんで、わかったの………?」
「いや………」
やっぱりそうなのか、とわずかに安堵し、がくぽはますます強く、カイトを抱きしめた。
思い返せば、去年の今頃の時期だった。
いつもと変わらずに、別れた夜――自室へと一度は引き上げたがくぽは、階下で響いた騒音に、部屋から飛びだした。
そうしたら、仕事から帰ってくるはずもないマスターが、慌てふためいて帰って来ていて。
二人で行ったリビングに、カイトがひとりきり、座りこんでいた。
果てもなく空虚で、恐ろしく孤独に苛まれ、途轍もなく老衰した子供の顔で。
そのときに、カイトは言った。なにか、とても怖いものがやって来るような気がして、眠れないのだと。
そして、慌てて帰って来たマスターも言った。
――「そう」なったカイトさんは、ひとりでは眠れないんです。私か、メイコさんが添い寝しないと。
けれど、カイトはがくぽの腕の中で寝解けたから――
「………怖いのか」
静かに訊くと、カイトはがくぽにしがみつく指に、ぎゅっと力を込めた。
「…………がくぽが抱っこしててくれたら、へーき」
「そうか」
頷き、がくぽはカイトを抱きしめた。わずかに考えてから、カイトの体を抱えて、立ち上がる。
「がくぽ、俺、自分で…」
「お主はごちゃごちゃ考えず、俺にしがみついておれ」
「でも…」
「そうしていてくれたほうが、俺が心安い」
「ん………」
一度は離れようとした体が、再びがくぽに擦りつく。その体をしっかり抱え、がくぽはリビングを出た。
扉も照明も、器用にひとりで操るがくぽに、カイトは腕の上で楽しそうに笑う。
その笑顔は、まるきりいつもと同じように見える。
見えるけれど――
がくぽの部屋では布団を敷かねばならず、布団を敷くためには一度、カイトと離れなければならない。
そのくらいの間は平気だろうが、がくぽがカイトを離したくなかった。
結論的に、カイトの部屋へと行く。
ベッドはシングルで、成人男子二人には狭苦しいことこのうえないが、ぎゅっとくっつくなによりの言い訳になる。
布団の中に体を入れると、カイトはがくぽの胸に顔をすり寄せた。がくぽはやわらかに、カイトの後頭部を撫でる。
「必ず、抱いていてやる。安んじて、眠れ」
「ん………」
ささやくと、カイトは顔を上げ、がくぽのくちびるに軽く、キスをした。がくぽも軽く、触れるだけで返し、あやすようにカイトの背を叩く。
そうやっても、カイトはすぐには眠らない。ここにある感触を、確かに刻みこもうとしているような、そんな気配がある。
マスターは言っていた。
これでいて、いやな感じに不幸慣れしている子なので、今あるしあわせがぱあになりそうで、怖いんですよ、と。
だが、それもおかしな話だと思う――たとえカイトが「不幸慣れ」していても、その不幸な出来事を、覚えているはずがないのだ。
去年の年末に、ようやくメモリの改造を行うまで、カイトは旧型ロイド特有の、限りあるメモリを使用していた。
限りあるそれを使い続けるために、年末ともなると、一年の記憶のほとんどを、きれいさっぱり消してしまっていたのだという。
だからカイトには、「過去」がない。
どうしても残しておくと決めた、ほんのわずかな断片を除いて、カイトが覚えていることはまるでないのだ。もちろん、不幸な出来事があったとしても、それも。
なのに、怖いと言う――人間とは、違う。ロイドの記憶消去だ。
そこに、残る欠片もなにも、ありようはずがないのに。
「…………なにか、心当たりはないのか」
ぽつりと訊いたがくぽに、すりついたり髪を引っ張っていたカイトは、ぴたりと止まった。
訊くべきではないことを訊いた、と思いつつ、こぼした言葉は取り戻せない。
沈黙して待つがくぽに、カイトは再びすりついた。
「………………俺ね、いっかい、初期化しちゃったことがあるんだって」