しあわせの定義/前編

がくぽがその音に気がついたのは、とりもなおさず寝る前だったからだ。

新曲の楽譜を追うことに夢中になるあまり、気がつけば十二時を回っていた。

明日は午後からの仕事で朝が早いわけではないが、だからといって夜更かしや朝寝坊をするのはがくぽの流儀ではない。

楽譜を仕舞って、布団を敷いて、さあ横になろう、としたところだった。

玄関が乱暴に開けられて、次いでなにかが盛大に転がりこんで来たと思しい、派手な騒音がした。

寝る前だったのは実に運がよかった。

ロイドが一度睡眠モードに入ってしまったら、一定時間経たない限り、ちょっとやそっとの騒音では目を覚まさない。

真夜中になにがあろうとも――眠ったまま、すべてが終わってしまっていた可能性もあるのだ。

がくぽは枕辺に置いてある美振を掴むと、足音を忍ばせて、しかし最大限のスピードで玄関へと向かった。美振は本来、そのためのものではないが、なにもないよりはましだ。

おそらく、ほかのロイドたちは寝こけていて、まったく応戦できる状態ではない――ただひとつ言うなら、起きていたところで、彼らには戦闘がインプットされていないから、力数にはならないのだが。

それでも、逃げることはできるが、今はそれすらままならない。

曲者は、がくぽが押しとどめる必要があった。

どんな巨漢や悪漢であれ、決して引くまい――と、決死の覚悟で玄関へ降り立ったがくぽの前に現れた曲者といえば。

「あ、まずっ」

「……」

曲者といえば、曲者だった。正しく曲解した意味でもって。

確か一昨日の朝、着て行ったのとまったく同じ服をよれよれと着こなし、メイコがきれいに撫でつけてやった髪――もちろん、一昨日の話だが――をぼうぼうと振り乱し、まるで丑の刻参りでもやりそうな風体のその女性は、誰あろう。

「マスター…」

がくぽの声が、自然と苦くなった。

なにやら大慌てで帰ってきたと思しいマスターは、女性らしさの欠片もなく、玄関で足を絡ませてすっ転んでいた。

「まさか、がくぽさんが起きていようとは。マスター、一生の不覚です!」

「貴殿は何生、生きるつもりだ」

ぼさぼさの髪を振り乱したまま頭を抱えるマスターに、がくぽは冷たく言い捨てた。ついでに、構えていた美振を下ろす。

「何事かと思うであろう。淑やかになれとは言わぬが、もう少しなんとかならぬのか、貴殿の行儀は」

「ご高説ごもっともで耳が痛いです。さてそれは横に置いて」

まったく反省する様子もなく即座に箱を脇に置くしぐさをして話を流し、マスターは立ち上がった。しかしわずかによろける。どうやら、膝を強かに打ちつけたらしい。

「仕方のない御仁だな」

つぶやいて手を伸ばしたがくぽに、マスターはしかめていた顔を無理やりに笑わせた。伸ばされた手をぱん、と叩く。

「それよりカイトさんですよ」

「…カイト殿?」

話の流れが掴めないがくぽを置いて、マスターは軽く足を引きずりながら家の中へと入っていく。

カイトなら、今の時間はもう、自分の部屋で寝ているはずだ。

わかっているであろうに、マスターは迷う様子もなく、ずんずんとリビングへ向かう。

ケガをしている様子のマスターを放ってもおけず、不承不承、がくぽも後をついていく。そこで初めて、リビングの電気がまだついていることに気がついた。

だれが決めたわけでもないが、この家の消灯時間は十一時だ。

メイコがたまに深酒で起きていたりするが、おおむねだれも彼もが十一時には自室へと引き上げ、眠りに入る。

今日も例外ではなかった。

てんでばらばらに遊んでいるのだが、どういうわけかリビングに集結していたロイドたちは、十一時になるや、カイトにおやすみのキスを貰って、みんな自室へと引き上げたのだ。

残念至極な話をすれば、がくぽも例外ではない。

挨拶のキスの習慣がないがくぽはどこまでもどこまでも、カイトの寄越すキスが苦手なのだが、逃げることもできずに頬にキスされて。

「いい夢が見られますように」

囁かれた、声のやわらかさがいつまでも、耳朶に残っている。

がくぽはほうほうの態で自室へと逃げたから、最後にリビングに残っていたのはカイト――電気の消し忘れは、彼ならいかにもやりそうな気がする。

なにしろ、今日はマスターもいなかったが、この家の燦然と輝く家長、メイコも不在だったのだ。

「マスター?」

マスターはリビングの前で立ち止まると、静かに中を覗きこんだ。

「…やっぱり」

「マスター…」

なにが、と問おうとしたがくぽに、黙って、と人差し指を立て、マスターはリビングへと入っていった。

戸惑いながらあとをついて行って、がくぽは驚いた。

カイトがいる。

それも、窓辺に座りこんで、ぼんやりと暗い空を見上げて。

がくぽたちが入って来たことにも気がつかず、カイトは無心に空を見上げている。

どこまでも空虚に、空恐ろしいほど孤独に。

「…」

リビングの入り口からそれ以上動けなくなって、がくぽは立ち尽くした。

いつもいつもおっとりぽややんと微笑む彼の、あまりに空漠とした姿。

家族の中心にいて、輝くばかりにしあわせを体現している彼の、老衰した表情。

まるで、すべての事象に絶望しきってしまったかのような。

「カイトさん」

動けないがくぽに対し、マスターは臆することもなくカイトの傍に寄ると、その頭をやわらかに撫でた。

「カイトさん」

「…」

再度呼びかけられて、カイトがマスターを見上げる。

だが、その瞳は、完全に知らないひとを見るものだった。

不思議そうに、気味悪そうに、居心地悪そうに。

見つめる数瞬が過ぎて、カイトがぱちぱちと瞬いた。

「……あ。……マス、ター?」

掠れた声を上げて、それから、そんな自分に驚いたように、湖面のように揺らぐ瞳が見張られる。

「え……あ、マスター」

もう一度くり返した声はずっとしっかりしていて、いつもの彼の鷹揚さを取り戻していた。

沈んでいた表情が浮かび上がり、ほわわんとしたいつもの空気を、戸惑いに乗せて放つ。

「マスター…あれ、やだな……なんで、俺……」

「カイトさんがぼんやりさんなのはいつものことですよ。マスターはこれくらいのことじゃへこたれないのです」

笑って言い、マスターはまたカイトの頭を撫でた。乱暴だが、愛情に満ちたやわらかなしぐさだ。

カイトが小さく笑いをこぼす。いつものとおり、幸福に満ちた。

「マスター」

「カイトさん、ちょっと待っていてもらえますか。私はお風呂に入って来ますから」

「お風呂?」

なにか言おうとしたカイトを遮り、マスターはやわらかく言う。

「三日間、お風呂に入っていないのですよ。せっかく帰ってきたんだからお風呂に入りたいんですが、それまで待てますか?」

「うん?」

唐突過ぎるマスターの話にも、カイトはツッコまない。

わずかに首を傾げたものの、にっこり微笑んで頷いた。

「いいよ。待ってる。ここでいい?」

「はい。いい子にしていてくださいね」

ずいぶん小さな子に言うように言って、マスターはもう一度カイトの頭を撫でてから、離れた。

顔を上げたカイトが、立ち尽くすがくぽに気がついて、軽く瞳を見張る。

「あれ、がくぽ…」

まったくいつもどおりのカイトだ。

さっきのあの様子はいったいなんだったのか、幻だったのではないかと思うほどに。

気まずく顔を逸らしたがくぽの肩を、ゆったり歩いてきたマスターが掴んだ。カイトにはにっこり笑って手を振りながら、がくぽのことはぐいぐいとリビングの外へ押しやる。

敏いがくぽは、なにか内密の話があるのだとすぐにわかったので、抵抗することもなくリビングから出た。

「マスター」

「私はお風呂に入って来ます。その間、カイトさんに付き合っていてくれませんか」

「…」

言いたいことも聞きたいことも山ほど積み上がっていく。しかしマスターは付け入る隙を見せない。

「大丈夫。だれか傍にいてくれたら、あんなふうにはなりません。だれか傍にいたら、いつものカイトさんですよ。無理をしているとかそういうんじゃなくね。ひとりがだめなんです、今は」

じっと見つめてくるマスターの眼光は強い。確信に満ちて、迷うことも悩むこともないように見える。

そこにはただひたすらに自分が預かるロイドへの愛情があって、躊躇いなどなにもないのではないかと思える。

「…ひとつ、条件がある」

「なんでしょう」

おそらく、今こうしている間もマスターにとっては惜しいのだろう。

わかるがくぽは、訊きたいこともなにもかもとりあえず「横に置いて」、厳しい顔でマスターを見つめた。

「烏の行水は止めろ」

「…はい?」

きょん、と瞳を見張るマスターは、まるで無邪気な少女にも見えた。そんな年ではまったくないのだが。

意味がわからない顔のマスターに、がくぽは苦々しい声で厳然と告げる。

「きちんと肩まで湯に浸かって芯まであたたまり、体の隅から隅までくまなく丁寧に洗って、石鹸がきちんと泡立つようになってから出て来い、と言っておる」

「…それ、ひとつですかね」

論点のずれるマスターに、がくぽは傲然と胸を逸らした。

「烏の行水をするな、という一言に収まるのだぞ。ひとつに決まっておろう」

「はあ…」

マスターは情けない顔で自分の体を見回す。ぼうぼうの髪をひと房掴むと、鼻に持って行った。

「臭いますか」

「知らんわ」

「そうですね」

素直に頷き、マスターは笑った。

「わかりました。徹底的にお湯を汚してきましょう。…ついでに、お風呂掃除もしましょう。さもないと、ミクさんとリンさんに怒られますよね?」

「湯冷めせぬ程度にな」

肩を竦めると、がくぽはリビングへと踵を返した。

マスターが笑っているのを、気配で感じる。愉快ではないが、仕方がない。

「がくぽさん」

リビングに入る手前で声を掛けられて、がくぽはちらりと顔を向けた。

「あなたは私の自慢の子です。私はあなたが誇らしい」

「…」

折に触れて言われる言葉だ。マスターは自らのロイドを肯定する言葉を、衒いもなく放つ。

彼女のスタンスがどこから来るものかは知らないが、彼女のロイドたちがそれで安定しているのは確かだ。

がくぽは眉をひそめてみせた。

「『子』は止せ。いくつだと思っている」

マスターは声もなく笑った。