しあわせの定義/後編
リビングに入って来たがくぽを、窓辺に座ったままのカイトは瞳を瞬かせて見た。
「…」
「…」
無言で見合うこと、数秒。
そう、請け負いはしたものの、がくぽはカイトに対して、なにかの案を持っていたわけではなかった。
最新型のロイドであるがくぽは、旧型のロイドたちと比べればずいぶん聡くもなっていたし機敏でもあったが、それがうまく使いこなせているかどうかというと、それは別の話だった。
特に、カイトに対してはうまく発揮できていない。
このおにぃちゃんを苦手に思う由縁だが、彼と絡んでいると、どうにも空ぶかしし過ぎてしまって、うまく自分を制御できなくなるのだ。
「がくぽ、寝ないの?もう夜遅いよ?」
気まずい沈黙は数秒で、いつものとおり、カイトがぽややんと笑って道を拓いてくれる。
がくぽはわずかに安堵しつつ、三人掛けのソファに座った。
「新曲の譜を洗っていたら、目が冴えたゆえな。もう少し、起きている。明日は午後からで、急ぎ起きる必要もない」
「あ、そうなんだ」
ほんとうと嘘を混ぜこぜたがくぽの言葉をまったく疑うこともなく、カイトはぽやぽや笑う。
がくぽは注意深く、そんなカイトを眺めた。
いつもどおりだ。
まったくもって。
「貴殿こそ、寝ないのか?明日、遅いわけでもなかろう」
「…」
そっと水を向けたがくぽに、カイトはてきめんに表情を強張らせた。
だが、それも一瞬。
わずかに困ったようになって、ソファに座るがくぽを見つめた。
「…となり、行ってもいい?」
「…」
断る理由もない。わずかに構えたのは習い性というもので、カイトが傍にいるのがいやだというわけではないのだ。
無言でソファの端へ寄り、空きを叩いて示したがくぽの傍らに、カイトは頼りない足取りで歩いてきた。
ぺしゃんと潰れるように座りこむと、体をがくぽのほうへ向ける。
「さわってもいい?」
「…」
それはどういう確認なのだ。
意図が掴めずにわずかに頭を抱え、しかしどうにも不安そうなカイトの様子に、断るとも言えない。
「好きにいたせ」
「ありがと」
顔を向けずにそうつぶやいたがくぽの寝間着を、言葉よりずいぶん遠慮がちにつまんで、カイトは項垂れた。
「なんだろ。……よくわかんないんだけどね」
つぶやく声が泣いているようだ。がくぽはぎょっとして、項垂れるカイトを見た。
「なんかね……寝るの、こわいの。なんだろ……こわいゆめ、見そうで」
「…」
カイトの言いように、困惑するがくぽだ。
ロイドは夢を見ない。
それは当たりまえ過ぎるほど当たりまえの事象で、がくぽがこれまで夢を見たことなどないし、カイトだってないはずだ。そこに新型と旧型の違いはない。
いくらぽやぽやでぼんやりさんなカイトにだって、それくらいのことはわかっているだろうに。
「なんだろ……なんか、やなんだ。こわいものが、いっぱい来るような……そんな、気がして……」
自分でも、自分が怯えているものの正体が掴めないのだろう。
つぶやきながら、カイトは小さく震え、寝間着をつまんだ指が力なく落ちていく。
項垂れる顔は見えず、ただ泣きそうな声ばかりが届いて。
「おかしいなって思うんだけど……考えるの、やめられなくて……っ」
「カイト」
手が伸びたのは、意識してのことではない。
ただ、震えるカイトを見ていることが耐えられなかった。
ひとりきりで、世界に怯えている彼が哀れで、――多分に、愛おしかった。
胸の中に抱きこんだカイトは、はじめ、驚いたように身じろいだ。
その体をきつく抱きしめて、背を撫でてやる。
「こわいなら、こうしていてやろう。少しはましにならぬか」
我ながらイカレている、と思いながら、囁く。
成人した男が、成人した男に抱きしめられて、なにがうれしいだろう。
いくらカイトがぽやぽやのほえほえでも。
「こわいものが来たら、俺が追い払ってやろう。案ずるな。おそらくこの家で、俺がいちばん闘うのに向いている。お主ひとりくらい、楽に守ってやる」
深く考えたら負けだ、と自分に言い聞かせ、がくぽは口早に言い募る。それがカイトの不安をやわらげる効果があるかどうかなど、考える余裕もない。
ただ、ひたすらにきつく、震える体を抱きしめた。
ひどく迷い、そこまでするか、と自分に散々ツッコみ、しかしここまで来たら乗りかかった舟だ、と腹を括った。
瞳を見張っているカイトのおとがいに手を当て、上向かせると、額にくちびるを落とす。
「いい夢が見られるように」
声がみっともなく震えた。
がくぽの価値観からすれば、こんなキスは羞恥の極みだ。それも男相手にやっている時点で、いろいろ終わっている。
だがこれはカイトにとっては、なにより愛情を伝える言葉で、態度で、表現だ。
怯えて視野が狭くなっている彼に、もっともわかりやすく思いを伝えるためには、自分が妥協するしかない。
「…がくぽ」
再び抱えこんだ胸の中で、カイトの声が甘く蕩ける。ずるりと力の抜けた体で凭れかかってきて、小さく寝間着を掴んだ。
「ずっと、ぎゅうってしててくれる?俺が寝るまで…」
「朝までくらい、付き合うてやる。お主がそれでこころ安く眠れるというなら」
「…それじゃ、がくぽに悪いもん…」
おっとりしていてひとの機微には鈍くても、人一倍気は遣うカイトだ。その答えに、がくぽは抱きしめる腕に力を込めた。
「構わん。俺はそれほどやわではない」
「…」
言い切ると、カイトの体からさらに力が抜けた。
「がくぽ……おっきいなあ……」
意味不明なつぶやきを最後に、言葉が途絶える。体から完全に力が抜けきって、カイトが寝入ったことがわかった。
幼くもない。
小さくもない。
…弱くもない、はずだ。
ケンカに負けても、虐められても、笑って相手を赦せる度量の広さは、なにより精神的な強さの上に立っている。
だから、決して弱くはない。
けれど、強いばかりでもない。
こんなふうに頽れる彼を、彼を――
「あらら。びっくりしたなあ、もう。寝ちゃいましたか」
「…っ」
考えに沈んでいて気配に気がつかなかった。
いつの間にか背後に立っていたマスターの、潜めてはいても愉しげな声に、がくぽは駆動系が止まりかけた。
「びっくりしたなあ、もう」
「二度もくり返すほどのものか。だいたいにして、古いぞ、あまりに」
「わかっている時点でがくぽさんがこわいですよ、私は」
ふざけた声音で言いながら、マスターはがくぽにしがみついて眠るカイトを覗きこむ。
濡れた髪からぽたぽたと水滴が垂れて、がくぽは眉をひそめた。
「マスター、髪は」
「まことにごもっともであります。カイトさんが濡れちゃいますね」
言いながら、体を起こす。放り出したタオルを取ると、軽く絞ってまた放り出した。
「なんでしょうねえ」
「なにがだ」
どこからどう躾ようか、と考えを巡らせるがくぽに、マスターは感慨深げにつぶやく。
「カイトさんが、寝るとは思いませんでした。いえ、薄々予感はしてましたけど」
「……そういえば、用事があったのだったか」
待っていろ、と言いつけて、マスターは風呂に入ったのだ。成り行き的に寝かしつけてしまったが、まずかった。
とはいえ、起こすのも忍びない。
迷うのも一瞬で、即座にマスターに反旗を翻す気満々になったがくぽを呆れたように見下ろし、マスターは肩を竦めた。
「いいんですよ。添い寝しようと思っていただけですから」
「…なに?」
胡乱な声を上げたがくぽに、マスターは笑う。
「そうなったカイトさんはね。私かメイコさんが添い寝しないと、眠れないんですよ。ミクさんやリンさん、レンさんではだめなんです。だから慌てて帰ってきたんですが……」
「…」
がくぽは数時間前を思い返す。
だれひとりとして、カイトの異変に気がついたようなものはいなかったはずだ。
自分も含めて家族全員、まったくいつものとおりに、いつもの態度で、いつものしぐさで。
「だれが連絡したのだ?」
「それは置いといて」
箱を横に置くしぐさで、マスターは話を流す。だれが、と明言しないことで、答えは明らかだ。
マスターはカイトがこうなることを、あらかじめ知っていたのだ。今日、こうなっていることを思い出して、仕事を放り出して、慌てて帰ってきた。
だが、なぜわかる?
「…」
「長く生きていれば、いろんなことがありますよ。人間もロイドもね」
険悪な表情になったがくぽに微笑み、マスターはつぶやいた。
「カイトさんは、たまにそうやって、不安になるんですよ。でも、自分でもなんでそんなふうになるかわからない。わからないから、どうにも出来ない」
「マスター」
誤魔化すな、と低く凄むがくぽを穏やかに見返し、マスターは肩を竦めた。
「しあわせなんですよ。今がね。でも、それでいていやな感じに不幸慣れしている子なので、そのしあわせが今にも消えそうな気がして、不安になる。寝て起きたら、全部ぱあになっているんじゃないかってね。だから、眠れなくなる。起きていれば、ずっとずっとしあわせが続くはずって」
明るい声音でそこまで言って、マスターの瞳は遠くを見つめる。
「私が至らないんでしょうね。カイトさんに、なんの不安もないしあわせをあげられない。保証してあげられていない。……まあ、それだけのことです。あとはマスターの努力義務です」
自己完結するのはいつものことで、そこにロイドが口を挟む隙はない。
がくぽは口を歪めると、眠りこむカイトを抱いて立ち上がった。
「なんの不安もないしあわせが存在すると思うのか。そう思うなら、貴殿はあまりに夢想家だ。理想を追い求めるあまり、現実が見えなくなっているなら、それがカイト殿を不安にさせるのだろう。現実のカイト殿を見ろ。実にしあわせに満ちて笑うではないか」
「…」
マスターに背を向けて歩き出しながら、がくぽはつぶやいた。
「たとえ不安に見舞われたとしても、それを庇う家族がいる。怯えて泣いていることに気がついて、なにもかも放り出して駆けつけてくれるものがいる。そういうものを、なんの不安もないしあわせと言っていいのではないか」
カイトを抱いてリビングから出たがくぽを、マスターの声が追う。
「がくぽさん」
「…」
軽く首だけ振り向いたがくぽに、リビングから顔を覗かせたマスターは笑った。
「あなたは私の自慢の子です。私はあなたが誇らしい」
がくぽは軽く眉をひそめた。
「『子』は止せ」
マスターがひそやかに笑う声を聞きながら、がくぽはカイトを抱えて自分の部屋へと向かった。