クリスマスだ。
それはわかっている。
わかっているが、そのうえで。
「いいじゃない、日本酒でお祝いしたって…………」
目の前の薄ピンク色のシャンパンを睨み、メイコはぶすっと吐き出す。
カウンター席の隣に座ったマスターが、グラスを掲げて笑った。
「今日くらいは妥協してください。それにたまには、西洋酒もいいものですよ」
Snow White in the River side of Lethe
マスターが取った新しい部屋には、マスターとメイコが泊まることになった。元の部屋は、がくぽとカイトが。
妥当な部屋分けだ。
このうえさらに、がくぽとカイトを引き離しておけるわけもなく、ましてや「そんな」ふたりと共に過ごすのでは、女性ふたりも迷惑だ。
カイトはロイドである自分が部屋を移る、と言ったが、マスターは笑っていなして、自分の荷物を移動させた。
そうやってマスターが「お引越し」をしている間に、メイコはその新しい部屋のバスルームであたたかいシャワーを浴び、人心地を付けた。
機械部品を使っているために熱に弱いロイドだが、有機素体も使っている。
実のところ、寒いのにも強いわけではない。
機械部品からの自家熱があることで人間よりは平気だが、あまりにも凍えれば、それはそれで故障の原因になる。
熱いお湯で生き返ったと思うことは少ないが、今日に関しては、生き返った心地を味わった。
人心地がついたメイコが、ホテルの備品のバスローブを着て出てくると、マスターはどこから調達したものか、かわいらしいワンピースを取り出した。
きちんと冬仕様で長袖で、もうひとつ言うと、いつものメイコの服装より格段に露出が少ない。
マスターはワンピースだけでなく、上から下から衣装をひと揃い、きちんと用意していて、メイコに着るようにと促した。
そのうえで、着替えの済んだメイコを伴って、クリスマスムードに湧くホテル内のバーへと連れ出したのだ。
「メイコさんがほんとに人心地がつくなら、それは熱いシャワーでもあたたかいお布団でもなく、お酒でしょう?」
いたずらっぽく笑って言われたが、メイコは曖昧に笑い返しただけだった。
言っていることは、合っている。否定しようもなく。
確かに、酒以上にメイコを生き返らせるものはない。そうでなくても、激務の続いたクリスマス週間だ。
いい酒を好きなだけ飲めること以上のご褒美などない。
ない、けれど。
「日本酒にだって、発泡酒はあるのよ。ピンクがいいならピンクのだってあるし」
「さすがに物知りですねえ」
「…………っ」
笑って言いつつ、マスターはグラスに口を付ける。
メイコはくちびるを噛み、結局堪えきれず、隣に座っているマスターへと、ぐいと身を乗り出した。
「あたしが悪かったって言うんでしょう?!ええもう、自分でも自分がどれだけ、ばかなことしたか、わかってるわよ!反省できないわけじゃないわ、確かにあんまりばかで考えなしだった!」
他の客の手前もある。
メイコは極力声を潜め、しかし苛立ちを隠せないままに叫んだ。
涙がこぼれそうになるのを懸命に堪えて、グラスを傾けるマスターを見つめる。
「でも、済んだことよ。もうしないって誓えって言うなら、誓うわ。だから、いつまでも怒っていないで!――いいえ」
きゅ、とくちびるを噛んでから、メイコは抑えた声を絞り出した。
「………………怒っているなら、怒っている顔をして。怒っているんだって、怒鳴って、喚いて、叱って。怒っているのに、わらわないで…………っ」
クリスマス週間の、マスターの仕事の入れ方は無茶苦茶だ。
マスター自身も含めた家族のだれもが、まともに休息も取れなければ、家に帰ることも覚束ない。たまにロイド保護局から、虐待警告を受けることすらある。
そんな状態で各地を走り回り、まともに顔を合わせるのが、クリスマス終了数時間前――
それが常態だと聞かされていたし、ほとんど残っていない記憶の中にも、その文言だけは残されている。
残っているということはとりもなおさず、忘れたら深刻な事態を巻き起こすほどに、常軌を逸しているということだ。
そして覚えていたとおり、忙しさはまともではなかった。よくもまあ乗り切れたものだと、我ながら感心するしかないレベルだ。
そしてその忙しさの渦中にあったのはもちろん、メイコだけでなく、弟であるカイトとがくぽもで――
熱愛というより、ほとんど溺愛状態のがくぽが、数日間、恋人であるカイトと離れると、精神に異常を来たすことは、この家における残念な不文律となっている。
さらに、疲労が募るとその傾向が加速されることも。
その異常を極めた状態で、まともな判断力もない大ばかな弟は、ようやく会えると待ち望んだ恋人が吹雪に閉ざされて帰れないと知るや、最低限の金と装備で家を飛び出した。
目的は明らかで、無茶も甚だしかった。
止めることが出来ようはずもないが、せめてメイコは後を追うべきではなかった。
けれど、メイコもまた、最低限の金と装備で、大ばか弟の後を追っていた。
そして強行軍の末に、奇跡としか言いようもなく、マスターとカイトが泊まるホテルへと辿りついた――
メイコにも、わかっている。
がくぽを異常だと、ばかだと言っているが、メイコもまた、異常で、ばかだった。
いつもなら、後を追ったりしなかっただろう。
マスターに報告だけ入れて、警察やらロイド保護局やらに、理性を失った弟の捕獲を頼んで終わったはずだ。
なのに、追いかけていた。
そして止めもせず、共に来てしまった。
無事だったことが不思議としか言いようがないから、そんな危険を冒した自分をマスターが怒ることは、むしろ当然だと思う。
思うのに、ラウンジで会ったときこそ怒り心頭を隠しもしなかったマスターは、今は笑う。
いつものように笑ってメイコに接しながら――言葉、だけが、怒りを隠せない。
メイコを赦せないと、鞭打つように知らせる。
「どうして、笑って、なんでもなかったみたいに…………なんでもなかったって、ほんとに思ってるならともかく、まだちっともあたしのこと赦せないのに、どうして笑うの…………っ」
「…………赦していないことなど、ないですよ」
泣くのを堪えて俯いたメイコに、マスターは平板な声で言った。
メイコは、ぎゅ、とくちびるを噛む。
うそつき!
こころの中でだけ、大きく、叫んだ。
――だったら、どうして、敬語でしゃべるの?!
マスターは生い立ちゆえに、ですます調で話すことが自然だ。フランクな口調のほうが、難解で頭を使うのだという。
そのマスターは、ただひとり、メイコにだけはですます調ではなく、フランクに話す。
なによりも、メイコがそうと求めたために。
その無理は、マスターがメイコをだれよりも思っている、あからさまな証だ。
そして無理ゆえに、精神的に余裕がないときには、容易くですます調へと戻る。
たとえば、仕事のとき。
たとえば、雷やお化けに怯えているとき。
たとえば、怒っているとき――
再会してからこちら、マスターはずっと、ですます調だ。
一向に、言葉がフランクにならない。
いくら笑って、いくら愉しそうに振る舞っても、意味はない。
一言、話すだけで、メイコは打ちのめされる。
「…………っ」
「…………ただ」
言葉を失って俯くだけのメイコに、マスターは平板な声のまま、続けた。
「…………ただ、私は…………あなたが、失われていたのかもしれないと、考えました」
「…………」
瞳を見開き、メイコは慌てて顔を上げた。
マスターは、メイコを見ていない。瞳は、カウンターの中を虚ろに見つめていた。
「雪に埋もれて、遺骸さえ見つかることがなかったかもしれないと。――生きているのだと必死に自分に言い聞かせながら、あなたの姿を捜し求めて雪解けを待って」
「マスター」
「数ヶ月、雪に埋もれたまま過ごしたあなたの――雪解けによって、泥に汚れ、もはや再起動の掛ける隙すらないあなたの体を、抱くのかもしれなかったのだと」
言葉も思い浮かばずに凝視するメイコに、マスターはきつい瞳を向けた。
バーの中は、クリスマスのムードに弾んで明るい。
けれど照明は落とされて薄暗く、その瞳の色はわからない。
明るければ、いつものように見えただろう――マスターの瞳は、古木の樹皮のような色をしている。それが光の加減で時折、金色に光った。
マスターの瞳を覗き込んで、そこに映る自分を見ることが、好きだった。
見つめても見つめても、必ず逸らされることなく、愛情に溢れて見返されることが。
マスターの片目から、ひとしずく、思いが溢れてこぼれ、流れた。
「…………いいえ。そうなってすら、見つけることも出来ないままに。あなたがきっとどこかで生きていると、狂うほどに願いながら、生涯会えることもなく。生きていると思えば、軽々しく後を追う真似も出来ず、帰らぬあなたを待ち続けて」
「…………」
言葉もなくして見入るメイコに、マスターは瞳を閉じた。
「…………雪だるまさんのあなたを見て、その可能性に思い至りました。私は、あなたを失っていたかもしれないのだと」
ひそやかに吐き出し、マスターは小さく深呼吸をくり返した。
ややして瞳を開くと、凝然と見つめるメイコへ打って変わって明るく笑ってみせる。
「とはいえ言うとおり、済んだこと…だわ。なかった仮定の結末にいつまでもこだわるなんて、くだらない…わね。だってこうして、ハッピーエンドを迎えてるんだし」
「…………」
未だに強張ったままのメイコへ、マスターは笑ってグラスを掲げる。
「せっかくのクリスマス。聖夜…よ!そして隣にメイコさんがいる。これ以上、望めることなんてない、しあわせ…よ。起こらなかったことにこだわって夜を台無しにするなんて、愚かの極み…ね」
「………………ええ」
ぎこちなく、メイコは頷く。
それでも視線が外せないままのメイコへ、マスターはこっくりと頷いた。
「今頃、カイトさんとがくぽさんも、熱烈な夜を過ごしているはず!恋人になって初めてのクリスマス。偶然にも二人きりの聖夜。いいえ、これぞまさに、性y」
高らかに唱えようとしたマスターに、メイコは思わず腰を浮かせた。
「それ以上言おうもんなら、張っ倒すわ!あんたにはムードやデリカシーってもんが、絶望的に足らないのよ!!」
「A-HA!」
「しかもおやぢネタだわ!百年の恋も冷めるからね!」
いつものように叫んでツッコミを入れたメイコに、マスターはこころから愉しげに笑う。
けれど、無理がありありとわかる。
言葉尻の覚束なさが、なによりも、未だ割り切っているわけではないと言っている。
それでも、思い切ろうとしている。
しているから、メイコもそれに乗る――乗っているように、見せる。
マスターはいたずらっぽく笑い、憤然とするメイコへウインクを飛ばした。
「でも冷めないから、メイコさんの恋は百年以上もの…ね」
「言ってなさい!」
鼻を鳴らし、メイコはカウンターへと向き直った。勢いままに、シャンパンを飲み干す。
ジュースのようだ。
おいしい日本酒は水のようだと表現するけれど、西洋酒はジュースのようだ。
メイコは「オトナ」なので、ジュースよりは水を好む。絶対的に。
「言ってなさい」
もう一度、つぶやいた。
――あなたが、私のことを好きになってくれたなら、そのときには…………
一度だけ。
記憶に、残っている。
なにより彼女が、これだけは覚えていてくれと、言ったことだから。
初めて、「マスター」と出会った日――なにを忘れても、これだけは覚えていてと、言われて。
その記憶だけは、映像にも音声にも、一切触れることがないように、ロックを掛けた。
だから、覚えている。
ただ一度。
見た、――彼女の、涙。
――あなたが、わたしのことをすきになってくれたなら、そのときには、おもいだして
「…………ああ」
頷いた。
すとん、と。
腑に落ちた。
――「忘れるんだ」って、思うことのほうが、くるしかったよ。
流された、涙。
メイコが失われる、仮定の話。
こぼれた、ひとしずく。
――「忘れたくない」って、こういうこと…………
「メイコさん?」
空になったシャンパングラスを小突き、次はなにを飲むのかと無邪気に訊ねるマスターへ、メイコは笑った。
薄暗くても、マスターの瞳に映る自分が見える。
笑う自分が。
愛されていることを、実感して幸福に染まる自分が。
どうか瞳に映るままに、マスターが見ているといい。
思いながら、メイコは片手の人差し指を目元に当てた。
く、と皮膚を引っ張り、舌を出す。
「次は日本酒よ。もうぜったいに!」