玄関の扉を開く。
「たっだいまーっ」
仕事帰りとは思えない、元気な声で帰宅を告げたカイトに、リビングの扉が勢いよく開いた。
勢いがいいのは扉に止まらず、そこからばたばたと緑色の弾丸が走り出してくる。
「ぉおおにぃいちゃぁああああああんんんっっ!!」
もっとおつかれに効くくすり
「わ、ミク……?!」
小柄で華奢な体とはいえ、勢いが勢いだ。飛びつかれたおにぃちゃんは、ちょっとばかり揺らいだ。
それでもさすがにしりもちをつくことはなく、なんとか妹を受け止める。
「どーしたの、ミク……っわ、わわっ?!」
「早くはやくぅっ!!」
半べそ状態のミクは、すぐさま体を離すと、まだ靴も脱いでいないカイトの手を引っ張る。
俺様ボクっ子アイドルとして、普段は天上天下唯我独尊、なにがあっても揺らぐことなく強気に振る舞うのが、ミクだ。
あからさまに尋常ではない。
カイトはわずかに眉をひそめると、なんとか足だけで靴を脱ぎ捨て、引かれるままにミクについていった。
ミクが兄を連れこんだのは、自分が今まさに飛び出してきたリビングだ。
「あー……………」
入って中を見回し、カイトはすぐに事態を理解した。
「…………………………」
「あーあ………」
物凄く、凶悪な目をしたイキモノがいる。
いや、ロイドがイキモノかどうかは未だ決着のついていない、国際的な論議の最中だが、それはこの際置いておいて。
「ぉにぃちゃぁあ~ん……っ」
「よしよし、かわいそうだったね、ミク………」
べそべそと泣き声を上げる妹の頭を撫でてやると、その妹に手を取られ、件の凶悪なイキモノのほうへと体を押しやられた。
「はやくっ!!もぉボクはいやだぁああ………っ」
「………」
つまり、自分は人身御供――もちろん、歓んでだが。
他のだれに譲る気もないけれど、件のイキモノから『悪魔』の称号を与えられるような妹が、ここまで怯えさせられるとなると。
ある程度の覚悟は、したほうがいい。
「……………」
軽く天を仰いで腹を括ってから、カイトは凶悪な目つきのイキモノが陣取る、三人掛けのソファへと歩いていった。
「………ただいま、がくぽ」
「……………」
一応、帰宅を告げてみたが、普段なら甘く蕩けて迎えるがくぽの瞳は、極めつきに凶悪なままだった。
だれよりも溺愛し、偏愛している恋人を、無言のままに睨み上げる。
「………あのね…、っわっ」
なにを言えばと言葉を探したカイトの腰を掴み、がくぽは無言のまま、体を引き寄せた。
強引に招くと、膝の上に乗せる。大人しく座ったカイトを抱き締め――
「っぁ、邪魔…って、んぅう…………っ」
「………」
がくぽは苛立たしげにカイトの首からマフラーを取り去り、コートの襟を開いた。そうして晒した首に、勢いよく顔を突っ込む。
「………………ん…よしよし」
「……………………」
ぐりぐりと肩口に顔を擦りつけてくるさまは、動物にも似ている。
そうやってしばらくカイトに懐き、ややして落ち着く場所が見つかったらしい。ぴたりと動きを止めたがくぽは、抱き締める腕からわずかに力を抜いた。
「…………………………つかれた………」
「うん」
ぽつりとこぼれた言葉に、カイトはやわらかく微笑んで頷いた。
そんなことだろうと思ったのだ――疲れたがくぽは、普段の温厚さが嘘のように、凶悪な顔つきになって、そのうえにまったくしゃべらなくなるから。
いつになく振り撒かれる不機嫌オーラは、普段は悪魔と呼び畏れる妹すらも、怖がらせるレベル。
そんな凶悪お疲れがくぽが癒されるのは、恋人の腕の中――正確に言うと、恋人を膝抱っこして、首に顔を埋めているのだが。
多少の疲れならキスやハグで癒されるが、疲れ過ぎるとどうも、安心くまさんならぬ安心カイトをぎゅうっとしたくなるらしい。
恋人らしい振る舞いもなく、ひたすらに首元に懐いて、カイトを抱き締めていたがる。
「よしよし………ん…っ」
「………」
「……っ、っっ、ぅ…………」
がくぽの擦りつくさまは、まるきり犬かなにか、動物のようだ。
おそらく大型犬に懐かれると、こんな感じに。
とは思えども、実際のところ、がくぽは恋人で、その恋人が「弱点」である首に擦りついている。
「……………」
「………………ぅ……」
煽られる体を仕込んだのが、そもそもこの恋人だ。
がくぽを抱き締めて長い髪を梳き、宥めあやしていたカイトだが、そのくちびるからは堪えきれない呻きが漏れた。
いつもならカイトを煽れば、きっちり責任を取ってくれる恋人だ。
しかし現状、がくぽは常態ではない――お疲れマックスだ。煽っている自覚もなく、煽られて色づく恋人にも気がつかない。
「……」
わずかに天を仰いでから、カイトはがくぽの髪を掴み、軽く引いた。
「…………なんだ」
「ん、とね」
不機嫌そのものの声音で、しかも半眼で睨まれて、それでもカイトはめげなかった。疲れているだけだとわかっているからだ。
軽く顔を上げただけで、すぐにも首元に戻る気満々のがくぽに、カイトは微笑んだ。
「……俺が『おつかれ』、取ってあげる」
「…?」
「がくぽの『おつかれ』、俺が取ってあげるから……」
頭の回転も鈍っているのだろう。がくぽは訝しげに瞳を眇めるだけで、カイトの言いたいことがわからない。
構うことなく、カイトは見上げてくるがくぽに微笑み、くちびるを寄せた。
軽く、触れるだけ。
羽ばたくようなキスを、こめかみに。瞼に、頬に――くちびるに。
「………」
「ね、取ってあげるからね……」
「………」
騙すように言いながら、カイトはがくぽのくちびるに、深くくちびるを合わせた。
疲れているのはわかっている。
だから、あまり感覚を揺さぶらないように。
けれど、どうしても触れたいから。
応えることのないがくぽのくちびるをやわらかに舐め、甘噛みして吸い、カイトはそっと離れた。
動きを止めているがくぽを見て、軽く首を傾げる。後悔しても仕様がないので、ただ、笑って見せた。
「………………」
「………………」
そうやって、見合うこと、しばらく。
がくぽはカイトの背に回した手に力を込め、軽く爪を立てた。
「んっ………」
「もっと」
痛みにわずかに顔をしかめたカイトに、がくぽはあどけない口調で強請った。
きょとんと瞳を見張ったカイトを、がくぽは表情を変えることもなく、じっと見ている。
「もっと」
「………………」
再度強請られて、見張られていたカイトの瞳が和んだ。
「ん」
頷くと、がくぽの髪を梳く。そっと、くちびるを寄せた。
「いっぱい、してあげるね」
つぶやきは、合わせたくちびるの中に。