なんて悩ましい存在だろう。

「♪‐♪」

「………っ」

傍らを歩く、ミク。

楽しそうに弾む足取りで、ルカとひとつ傘に収まった彼女の肩が、濡れている。

指摘するべきかどうかに迷い、ルカはくちびるを噛んだ。

ピアニィ・レイン

某スタジオでの仕事を終え、帰ろうとエントランスに出たところで、ルカは呆然と立ち尽くす羽目に陥った。

「………聞いてないわ」

雨が降っている。けれど、傘を持っていない。

ルカは個人マスターではなく、ラボが直接所有しているロイドだ。住んでいるのはラボの敷地に隣接する、ロイド専用居住区となる。

そこに住むロイドの面倒を見るのは、ラボの研究員や事務員、その他ラボ関係者だ。

最近、ペアで仕事をすることが増えた『ミク』――個人マスター所有のロイドだ――によれば、ラボのロイドの生活は、過保護だという。

ルカとしては反論したくもあるが、ミクを見ているとどうも、そうかもしれないと思わざるを得ない。

ミクはとにかく、機転が利く。どんな状況にも臨機応変に対応可能で、まるで『プログラム』とは思えない。

それはとりもなおさず常からマスターに、己で考えて行動しろと躾けられていればこそだ。

ラボの研究員たちのように、先回りしてロイドの困難を取り除こうとする姿勢は、少なくともミクのマスターには見られない。

そんなミクに完全に振り回されているルカは、素直に褒めることなど出来ないが――

言ってみれば今日もルカは、そのミク曰くの『過保護』にされてきたツケを払っているところだった。

突然の雨に、どうしたらいいかわからなかったのだ。

帰るためには、最寄り駅まで歩いていく必要がある。

けれど傘を持っていない。差さずに歩いて、濡れない降りでも距離でもない。

――スタジオの二軒隣にはコンビニがあり、反対隣、脇道を挟んだビルの一階には、生活雑貨も扱っているドラッグストアが入っている。

小銭はある。

ちょっと走っていって、ビニル傘を買えばいいだけだ。この距離と雨量なら、大した濡れにもならない。

それができない、思いつくことすらもないのが、つまりはルカ、ラボの過保護のツケだった。

そうやってルカが呆然とし、身動きも取れずに立ち尽くしているところに来たのが、件のペアでの仕事相手であるミクだった。

彼女はルカをからかい、弄ぶことに全身全霊を尽くす――少なくとも、ルカの認識においては。

「あっれ、ルカちゃん帰んないの珍しいね、どーしたの……って、ああ、雨だ雨だ雨だ、土砂降りだ………って、ついうたっちゃったけど、土砂降りってわけでもないねー」

のんびり言うミクは、まったく困った様子がなかった。

持っているバッグは小さい。折り畳み傘が入っている様子もないのに、突然の雨に戸惑う素振りもない。

「……っ」

「ん?」

身を強張らせたルカに、ミクは目敏く気がついた。そう、この目敏さがなにより、ルカをからかい弄び倒すうえで、物を言う武器だ。

「ルカちゃん?」

「傘がないわ」

「えうん、ボクもないよ」

閊える咽喉を押して、低く潰れた声でつぶやいたルカに、ミクはきょとんとして答えた。

「………………っ」

「…………………」

そのまま、間抜けに見合うことしばらく。

「ああ、そっかカサがないんだ!」

「っっ!」

考えた末にエウレカを叫んだミクに、ルカはぐっとくちびるを噛んだ。

涙が浮かびかけるが、懸命に堪える――軽いパニック状態だ。突然の雨に戸惑っているところに、『天敵』の出現。

新型ではあっても、『過保護』のせいで臨機応変さや柔軟さに欠けるルカには、手に余る事態だった。

「なんだ、そっかぁ。うん、ルカちゃん、ちょっと待ってて!」

「ちょ、ミクさ………?!」

しかし今日のミクは、そこでルカをからかい倒すことはなかった。

明るく笑うと、固まっているルカにひらりと手を振り、軽やかな足取りで外へと飛び出して行く。

「あ、あめ………っ、ぬれ…………っ」

驚きで、ルカは言葉にならない。

待っていろということは、外でなにか、手立てを講じて戻ってくるのだろうが――

予想もつけられず呆然と待っていたルカに、ほどなくしてミクが持ってきたのが、コンビニで買ったビニル傘だった。

一本。

いるのは二人。

傘は一本。

「いつもの駅でしょ、ルカちゃんボクもおんなじだから、相合傘していこ♪」

くり返すが、ミクは天敵だ。少なくとも、ルカの認識においては。

目が離せないし(離した瞬間になにをされるかわからないからだ)、口を出さずにはおれないし(ツッコまずにはおれないことばかりするからだ)、常にその声を追っているし(下手に聞き逃すと危険なのだ)、時には手も出るし(口で言っただけでは通じないせいだ)、以下略。

だが『相合傘』の響きに、ルカはつい、気を取られてしまった。

ときめき単語だ。

乙女趣味はないと主張しているルカだが、『外』の習慣に、それなりに憧れはある。

マイペースクイーンである、ミクだ。

ときめいているルカが正気に返るより先に腕を取ると、傘を広げて共に雨の下へと出た。

開いた傘の下、二人並んで歩くだけでなく、ミクはルカの腕に腕を絡め、ぎゅっと身を寄せてくる。

「一寸、貴女………恋人同士でもないのに」

慌てたルカを見上げ、ミクはあっけらかんと笑った。

「ルカちゃん、女の子同士で腕組みなんて、大したことないよよくあることじゃん」

「………そう、…………なの?」

「なのー」

壮絶に疑わしそうなルカの態度は、この場合仕方ない。相手がミク、常々自分をからかい弄ぶ相手だからだ。

自業自得だからというわけではなく、ミクはそんなルカの反応をさっぱり気にしない。

楽しそうに笑んだまま、組んだ腕とは反対の手で持つ傘の柄を、軽く振ってみせた。

「それにさ、ルカちゃん。カサ、よく見て。大きさ。フリーサイズだけど、そもそもカサって、一人用でしょそんなに広くないから……」

「あ………」

言われてよく見れば、確かに二人で単純に並んで歩いたのでは、半身ずつ出てしまう。

くっつけるのなら、そのほうがずっと、濡れが少なくて済む。

気がついた顔で呆然とするルカに無邪気に笑って、ミクはさらにぎゅっと体を寄せてきた。

「………まあ、いいわ。誰かさんの胸がぺちゃんこなせいで肋骨が当たって痛いけれど、我慢してあげてよ」

照れくささからそんな毒を吐いたルカに、ミクはうっそりと笑った。組んだ腕に、ぎゅううっと力を込める。

「ふ……………っ、ルカちゃん……………このうしちちが……………っ。駅着いたら公衆の面前で揉み上げて、あんあん言わせたろか………っ」

「止めてよ!!貴女、言ったとおりに本当にするから、嫌なのよっ!!」

――というような、ようやく普段どおりの会話を交わしつつ、歩いてしばらく。

気がついたことに、ルカは頭を悩ませていた。

ミクの肩が濡れている。

ルカが濡れないようにと殊更に傘を傾けた結果、ミクの半身はしっとりと濡れてしまっていた。

だというのに、なにも言わない。

いつもいつも些細なことに、暴利としか言えないほどの恩を着せて主張する彼女だというのに――

それどころか、まったく関係のない話題ばかり振ってきて、気が向かないようにとすら、している。

悩ましいこと、このうえない。

どうして、こういうふうに――さりげなく、ひとを気遣ってしまうのだろう。

下手をしたら、ルカは気がつかないまま毒を吐き続けるのに、ミクはいつも通りに笑って応じて。

無言で差し掛けられている、やさしさ。

過保護に育てられたせいで、箱入り娘の世間知らずなルカは、そんな態度にひどく戸惑うというのに。

「ルカちゃん?」

黙ったルカを、ミクが不思議そうに見上げてくる。

心当たりもない顔。これがルカを謀ってのものならいいのに、ごく自然と。

「…………濡れていてよ」

「え?」

戸惑いから閊える咽喉を押して、低く潰れた声で指摘したルカに、あろうことかミクは身を乗り出してきた。

自分ではなく、ルカのどこが濡れているのか、確認しようとしている。

「違うわよ貴女よ、貴女肩が濡れているでしょう?!」

「え…………ああ」

戸惑いが過ぎてキレたように叫んだルカにも、ミクは平然としたものだった。

言われたままに自分の肩を見てから、泣きそうな、怒っているような、複雑な表情のルカへと笑いかける。

「だいじょーぶだよ、これくらい。すぐ乾くから」

「そういう問題じゃあ………っ」

「そういう問題だって」

うまく言葉が継げないルカに、ミクは飄々と笑う。

笑って、持っている傘の柄をさらに、ルカへと傾けた。

「ルカちゃんはさ、濡れるの慣れてないっていうか、そもそも『雨』自体、慣れてないんじゃないでも、ボクは違うもん。ルカちゃんよりずっとずっと『雨』のこと知ってるから、ちょっとくらい濡れても気にしないの」

「……………っ」

言われる通り、確かにルカは『雨』そのものに慣れていない。

だが、それにしても。

「先輩風、吹かせないで頂戴。あたくしより、ちびっちゃいくせに」

もつれる心まま、毒を吐いたルカに、ミクは高らかに笑った。

「はっはっは悔しかったら早く、ボクの売り上げを抜いてごらんっボクと肩を並べる数字を出したら、対等に扱ってあげないこともないよ!」

「く………っ!」

上から目線だ。激しく。いつもの通り。

なにをするのでも、喚くルカにミクは必ずこの条件を出す。

数字という結果を出さない限りは、決してルカを認めないと――

そうやって強いられる無体と、施されるやさしさと、差し伸べられ引きずり上げられる手。

混乱するしかない。

柔軟性に欠けるルカに、このミクは難物過ぎる。

それ以上に言葉もなく、ルカとミクは沈黙したまま、駅に着いた。

「ルカちゃん、こっちのホームだよねボク、ホームあっちだから、ここでバイバイはい、カサ。ちゃんと持ってね!」

「一寸!」

――このうえさらに、一本しかない傘を押し付けて走り去ろうとするミクに、さすがにルカの堪忍袋の緒が切れた。

容赦なくがっしりと、ミクの襟首を掴む。

「ぐぇっ!!」

アイドルとして出してはいけない声を出したミクにも構わず、ルカは襟首を掴んだまま、凹凸に欠ける華奢な体を引き寄せた。

「貴女………っこのあとってもう、仕事はなかったわね?!」

「おうち帰るだけだよその前に軽く、三途の川に寄り道するとこだったけど!」

ねこの仔のように襟首を掴まれたまま、ミクは呆れたように叫ぶ。

抗議をきれいに聞き流し、ルカはさらにきつく襟首を引いた。

「ちょっと、ルカちゃ………」

「だ、だったら………っ、あ、あたくしの部屋に、招待して上げるわ寄ってお行きなさい!」

「はあ?!」

唐突になんの話だと瞳を見開いたミクに、ルカは露出している肌のすべてを赤く染めていく。

怒っているとしか思えない顔で、きっとミクを睨み据えた。

「お茶くらいは、淹れてあげてよ。あ、あっつあつのお茶ですからねっ飲みきるのに、時間がかかるわっそ、その間に、濡れた髪も服も、乾くでしょうっ。う、うちからなら、傘もあるし………っ」

「…………ぅーわーぁお」

とんでもない『お誘い』に、ミクは微妙な声を上げた。

真っ赤に染まって――あまりに懸命に必死に、縋るようにミクの襟首を掴んでいる、ルカ。

しばし眺めていたミクの顔は、事態をきちんと飲みこむと、堪えきれない歓びに無邪気に笑み崩れた。

「いっえいっやったね、ルカちゃん家に、初お呼ばれだっ濡れ得濡れ得ぅ☆」

「なにが得よっ!」

怒ったように叫び返し、ルカはミクの襟首を掴んだまま、つかつかとホームに向かって歩きだした。

背後でミクが抗議していたが、主に懊悩のあまりに聞き流す。

本当に、悩ましい存在だ。

こんな些細な誘いを、あんなに無邪気でかわいらしい顔で、歓ぶなんて――