エジソンのユートピア
カイトの部屋に置かれた、本棚を兼ねた飾り棚。
その一段にちょこなんと座る、紫色の生地でつくられた、小さなくまのぬいぐるみ。
の、横に、青色のオトモダチが増えていました。
「ぅー……ん……………」
仕事から帰って来たところで気がついたカイトは、着替えかけの中途半端な姿で止まり、棚の前でことりと首を傾げた。
昨日――少なくとも昨日、仕事から帰って来て、夕飯を摂った直後あたりまでは、青色のオトモダチはいなかった。これはきっぱり、断言できる。
ので、増えたとしたなら、その後だ。昨夜の寝る前あたりから、今日、仕事に出かけて帰って来るまでの、その間。
しかしてすでに目星をつけている『犯人』の性格などからすると、カイトが不在の間に部屋に入ってどうこうというのは、考えにくい。たとえばそれが、ガラス扉すらもないフルオープンな飾り棚の上に、くまのぬいぐるみを一体増やすという程度のことであったとしてもだ。
「…ん?『こっそり』なんだから、俺がいない間にヤったほうが、カンタンじゃん…?なんでそんな、難易度上げるんだろ」
――ツッコミは、自分の想定に対してではない。目星をつけた犯人に対してだ。
そう、カイトに内緒でカイトの部屋に『仕掛け』を施していくなら、カイトが仕事に出かけたあとのほうが絶対的に簡単だ。施錠していくわけでもないのだ。難易度など、なきに等しい。
自分のほうが先に出かけるからというならともかく、僅差とはいえ、今日はカイトのほうが先に出かけた。朝がばたついて忙しいにしても、くまのぬいぐるみを一体、飾り棚に置いていくくらいなら大した時間でもない。
少なくともカイトがいる間に、カイトに内緒でこっそり増やすより、ずっと楽なはずだ。
きっとカイトなら、そうやる。
が、目星をつけた『犯人』は、主が不在の部屋に勝手に入ることを好まない。ここは頑固だ。決して曲げない。
というわけで犯行時刻は、昨日の夜、寝る前あたりから、今朝、カイトが出かけるまでの間だ。
「今朝、は、なあ………覚えてない、んだよ、な………」
もさもさつぶやき、カイトは目を細めた。
今朝は起き抜けに少しばかりしくじったせいで、出かけるまでが慌ただしかった。
『しくじった』とはいえ、なんのことはない、昨夜はがくぽといっしょに寝たという、それだけのことなのだが。
補足するとこの『寝た』は、言葉通りだ。素直にただ、『睡眠を取った』と言い換えられる。
カイトの部屋の、カイトのベッドでカイトとがくぽとふたり並び、きつく抱き合って、しかしとにかく『寝た』だけだ。
なにしろ翌日に、カイトもがくぽも仕事を控えていた。差し支えるようなことに及ぶわけにはいかないから、とても素直に、言葉まま、ただ『寝た』。
――とはいえ、まったくコイビトらしい振る舞いがなかったかといえば、そこまで徹底して禁欲的であったわけでもない。そして『そこまでではない』からこそ、しくじったとも言う。
ことに及ばずとも、コイビトが仲良く過ごす時間は光陰の如し、気がついたときには時計の針が、てんてんてん。
まあつまり、なにをしようがしまいが、ふたりで寝ればどのみちなにかしら差し支えるという話だが。
とにかくそういうわけで、出がけにばたつくことになった。慌てていたから、今朝の部屋の様子をきちんと覚えていない。
ので、今朝の段階ですでにオトモダチが増えていたのか、まだいなかったのか、判然と――
「あ。そか。そしたら難易度、あんまり高くなかったかも?」
はたと思い出したことに、カイトはぽんと手を打った。
なにかといえば、先に推理しながら呆れた『犯人』のこだわりだ。たとえどんなに難易度が上がろうとも、カイトが不在のうちに部屋に入ってあれこれいたすことは好まないという。
つまり、犯人だ。
がくぽだ。
だからがくぽは、昨夜はカイトといっしょに、カイトの部屋で寝た。
だが、がくぽはカイトの部屋を訪れてすぐ、寝たわけではない。
タイミングだ。がくぽがカイトの部屋を訪れたちょうどそのとき、カイトは明日の仕事のことで確認したいことができて、マスターを探しに行こうとしていた。
カイトが部屋を出ようと扉を開けたら、手をノックの形にしたがくぽとばったり会い――
『いーよ、入って待ってて!マスターにちょっと訊くだけだから、すぐ戻るし!』
出直そうとするがくぽを部屋に押しこみ、カイトはぱたぱたと小走りで、マスターがいるはずのリビングに向かった。
というわけでこの時点から、カイトが用事を済ませて戻ってくるまでの間、がくぽはカイトの部屋でひとりきり、お留守番をしていた。
確かに言った通り、カイトはあまり待たせず部屋に戻りはしたが、くまのぬいぐるみを一体、飾り棚に置いておく程度、余裕でできたはずだ。
あとは、そのばったり会ったときに、がくぽの手にぬいぐるみがあったかどうかだが、これはあまり問題とはならないだろう。
がくぽが普段、寝間着としているのは浴衣だからだ。振袖ほどではないにしても、相応に袂が余っている。手のひらに乗るようなサイズの小さなぬいぐるみなら、五、六体は違和感も持たせず隠しておけるだろう。
となると残りは、カイトが用事を済ませて部屋に戻ってからがどうかという話になるが――
「ぅ、……………………ふっくくく、くぅっ………!」
虚ろな目となり、どことも知れず視線を漂わせ、カイトは乾いた笑いをこぼした。
覚えているかというのだ。
マスターに無事、仕事の確認を済ませ、おやすみなさいまでして部屋に戻ると、ベッドに座って待っていたがくぽは、とてもうれしそうに迎えてくれた。
カイトが扉を開いた瞬間に閃かせた、あの笑み――
あんなにうれしそうで、しあわせそうな笑みを見せられて、ほかに目がいく理由がわからない。
――カイト。
呼ぶ声もまたとろとろに蕩けて甘く、それで手を広げて『おいで』などとされた日には、だからそれでほかに目がいく理由など、まるで見当もつかないというのだ。
というわけで、がくぽが訪れてからの部屋の記憶は曖昧だ。見ていないからだ。
がくぽの記憶なら、細部の詳細まで非常に鮮明なのだが――がくぽしか見ていなかった以上、当然といえば当然のことではあるが。
ついでに夜、共寝をした以上、朝の起き抜けにもカイトの傍らにはがくぽがいた。
ので、たとえしくじらなかったとしても、ほかに目がいく理由がない。
これはもう胸を張って、だれ憚ることなく堂々と主張する。
とはいえしくじらなければ、余裕をもってひとり、部屋の中で身支度を整える時間があったはずだ。
カイトがひとりきりで、がくぽがいない以上、部屋の様子を確かめることもしただろう。こうまで記憶が曖昧になることはない。
が、とにかくつまりのそういうわけなので、昨夜、がくぽが来てから、今朝、がくぽと別れて出かけるまでの、この部屋の記憶は曖昧だ。
曖昧だが、犯人ががくぽだと概ね断定できている以上、犯行時刻にしても先の推理で間違いないはずだ。
ところで、いったいどうして『犯人』をがくぽと特定しているうえ、そうまできっぱりと犯行時刻まで推測できるかということだ。
まず、この紫色の、あるいは青色の生地でつくられた、小さなくまのぬいぐるみだ。商品名を、推し色ベアという。
『推し色』だ。
推し――自分の好きなアイドルやキャラクタの、イメージカラーやキイカラーを地色としたぬいぐるみを選んで持つというもので、広範グッズのひとつだ。ひとによってはこのくまのぬいぐるみに、さらにキャラクタの衣装や、アクセサリをまとわせたりとデコレーションして楽しむ。
たとえばカイトは、紫色のくまを買ってきたまま、なにもせず座らせただけだが、青色のオトモダチのほうは首にマフラーを巻いている。メインは白地で、端に水色のぼんぼんをつけたかわいいマフラーで、――
「んっくぅうううっ!はづ、はづか………っ!!」
そこまで思考を進め、カイトはとうとう耐え切れなくなり、頭を抱えて座りこんだ。頬のみならず、耳朶まで真っ赤に染まり上がる。
『推し色』ベアだ。
ただのぬいぐるみとは、多少、持つ意味を異にする。
好きな――フアンである相手の色を選び、このひとが好きなんですと高らかに、あるいはこっそりと主張するための。
一週間ほど前、仕事の合間にたまたま寄った雑貨店で見かけたカイトが購入したのは、紫色のそれだ。なぜその色を選んだかは、わざわざ言うまでもないだろう。
しかしてわざわざ言うが、がくぽの色だからだ。大好きなだいすきなコイビトの色だからだ。
そこで本当は、青色のくまもいっしょに買いたかった。
が、断念した。
それではあまりに、あからさまにあからさま過ぎないかと考えたからだ――念のために強調しておくが、アイスの買い過ぎで、おこづかいが足らなかったわけではない。
考え過ぎといえばそうだが、しかし考え過ぎた。
紫色のくまと、青色のくまと――それがなんの色であるかなど、あえてわざわざ言う必要もないことだ。
が、あえてわざわざ言えば、がくぽの色であり、カイトの色だ。より正確に言うなら、VOCALOIDという商品に於ける特性色ということだがとにかく、がくぽの色で、カイトの色だ。
それをカイトがセットで買うなら、意味は明白だ。
だからといって、カイトが紫色のくまを持つから、がくぽには青色のくまをお揃いで持ってほしいということではない。
ただカイトが自分の部屋に、こうして飾り棚の上に、並べて置いておきたいという――
自分が眺めて、ほっこりするだけの話だ。
カイトの部屋の本棚を兼ねた飾り棚には、そういう、見るとほっこりするものがいろいろ置いてある。ひとから見ればガラクタとしか思えないものも雑多にあるが――
そう、ガラクタも山のように置いてあるのが、カイトの部屋の飾り棚だ。
『これならばいいかな』と、思ったのだ。
ここに紛れさせてこっそり持っているくらいなら、赦されるのではないかと。
実のところ、だれになにを赦されるのかと訊かれると、返答に困るところだ。
そもそも家族はカイトとがくぽの仲を赦して祝福しているし、外の、家族ではないすべてのひとにまで赦され、祝福されたいわけでもない。
だから返答に困るところだが、強いて言うなら、カイト自身に、となるだろうか。
恋人を偲ばせるものを、自分の部屋に飾る――
あまりに堂々とこれ見よがしに飾るのは、つまり、カイトの趣味に合わなかった。周囲からすれば意外でも、カイトの趣味ではない。
気がつくひとが気がついて、『あれ…』と、ちょっと目を見張るような――
そういう、さりげないサプライズ的な趣向が、カイトの好むところだった。
その基準で考えたときに、紫色のくま一体をこっそり棚に増やしておくのは、許容範囲だ。が、紫と青と、ふたつ揃えて置いてしまうと、――
とても欲しいし、並べて置きたかったが、どうしてもそこの『こだわり』が曲げられなかった。割りきれなかったのだ。
そう、カイトひとりでは。
「ばれ、ばれてーたー……!ぁぅうっ、ちがうっ!隠してないし、がくぽだったら気がつくかなーとか期待してたし、それで気がついて増やしてくれたとかなら、そう!タコツボ!タコツボだし!たこ……え?たこ…たこつ………ツボに…ツボにハマるのってうなぎ……じゃ………?」
――極める羞恥のあまりに思考回路があさっての明後日に飛び、カイトはしばらく、たこわさとうなぎパイの発祥について悩んだ。
迷走する思考は最終的に、メイコの晩酌の肴として、塩辛とイカのゲソ揚げといかなごを供することまで決めた。
「よし、おっついた……っ」
なにかをやりきった満足感で羞恥を治め、カイトはしゃがみ込んだまま、遥か頭上高く、飾り棚に並んで座る紫と青色のくまのぬいぐるみへ視線を上げた。
カイトが買ったまま、なにもせずにぬいぐるみを置いただけであるのに対し、がくぽはやはり、やることが細かい。どこで見つけたのか、きちんとミニマムサイズのマフラーを青色のぬいぐるみの首に巻いてくれた。
マフラーを巻いた青色のくまだ。青色の、推し色ベアだ。わざわざ言うまでもないがやはりわざわざ言うが、これがカイトを模したものでなくて、なんだというのか。
先には、がくぽが気がついて買ってくれることを期待していたと言ったが、カイトは実際、そんなことはまるで期待していなかった。ただひたすら、でもやっぱり青色のくまも欲しいなと、腹をもやつかせていただけだ。
自分のこだわりとなんとか折り合いをつけて、早く青色のくまを増やしたいなと。
部屋に入るたびに、ぽつんとひとりで座る紫色のくまを見ては、ただもやもやと。
こだわりは、『自分で増やす』ことだ。だれかが増やしてくれたなら、そこにこだわるところはない。
今日、帰って来るや、やはりまず見た飾り棚に、いつものように紫色のくまがぽつんとひとり、寂しそうに座っているのではなかったとき。
青色のオトモダチが、傍らに寄り添っていてくれるのを見たとき――
天にも昇る心地とは、まさにこのことだと実感した。それはもう、感激した。うれしかった。
紫色のオトモダチを見て、その理由に気がついて、青色のオトモダチを連れてきてくれるのは、他の家族のだれでもない。がくぽだけだ。
他の家族は存在に気がついて、理由もわかっても、だからと勝手に青色のオトモダチを増やすことはしない。
家族は家族でカイトの『こだわり』ぶりを理解しており、それが解消されるまでは基本、手を出さないからだ。
その『こだわり』を無視し、青色のオトモダチを連れてこられるのはがくぽだけだ。なぜなら青色のオトモダチを待っているのは紫色のオトモダチ、『がくぽ』の形代だからだ。
がくぽがいつ、飾り棚の紫色のオトモダチに気がついたかは、知らない。
紫色のオトモダチしかいないことを、がくぽがどう思ったのかも、カイトは知らない。
がくぽに、このオトモダチはどうしたこうしたと訊かれてはいないし、相談してもいないからだ。
それでもがくぽは、青色のオトモダチを連れてきてくれた。
たとえ溺愛を注ぐ相手とはいえ、ひとの部屋に勝手にあれこれすることや、口を出すことは基本、厭う性格のコイビトだ。それがカイトに図ることもなく、勝手に。
おかしな『こだわり』で、カイトが身動き取れなくなっている間に――
こういうときに限って、こういうことをされてしまうのだ。
こういうことをするのだ、あのコイビト。
「んっもぉおおおう、ぅぁあああう、ぁうぁうぁうっ!!」
にへらんと笑み崩れて、カイトは頭を抱えた。わしゃわしゃわしゃと、髪をかき混ぜる。
跳ね飛んで、叫んで、踊り狂って――
それでも、この胸に溢れる感情を発しきれないだろう。こみ上げる想いを散じきれない。
どうしてやろうかと頭を抱えたまま考えこんでいたカイトだが、はたと顔を上げた。しばらく固まって、ぴょんと跳ね上がる。
壊す勢いで扉を開くと、部屋から飛び出した。どたばたと廊下を走り、階段を転げるように下り――
「只今……っと、カイ、っ!」
玄関、ちょうど帰って来たところだったがくぽに、カイトは加減も容赦もなく飛びついた。
多少、よろけたものの、なんとか受け止めてくれたがくぽは、きつく抱きつくカイトの背をあやすように叩く。
「どうした、カイト。ただいま…ん?」
「おかえり、がくぽっ!おかえりっ!!」
万感の想いをこめて返し、カイトはさらにきつく、がくぽに抱きついた。ぐりりと、額を肩に擦りつける。
懸命に興奮を呑みこんで、カイトは顔を上げた。
「あのね、あのね、………がくぽ!だいすきっ!!だいすき、がくぽっっ!!」