ディストピアのプラトン
ノックしようと手を上げて、がくぽはふと首を傾げた。動きのすべてが、止まる。
その刹那だ。
「っと…」
「あ、がくぷごっ!」
勢いよく扉が開き、同時に飛び出して来たカイトが止まりきれず、がくぽの胸に埋まった。
言うなれば、すでにわかっていた『攻撃』だ。小動ぎもせずに受け止めたがくぽは、『クッション』もない自分の胸でべっちゃりつぶれているカイトの腰へ手を回して支えつつ、案じる顔となった。
「無事か?」
「んっ、俺はへーき……がくぽこそ、だいじょぶ?」
「ああまあ、俺はな。頑丈ゆえ…」
「んへへぇ……でも、ごめんなさい。次から気をつけます!」
「んー…」
胸に埋まったままながらも殊勝らしく言うカイトに、がくぽは微妙な鼻声を返すに留めた。
実のところ、こういったことは馴れている。
否、この程度ならもはや、そよ風程度のと言っても過言ではない。
つまり、比較対象だ――普段のカイトが、なにかで興奮しただとか、たまさかがくぽを見かけただとかで、遠くから走って来て、その勢いまま飛びつく、あれに比べればという。
できればあちらのほうをこそ、『次から気をつけ』て欲しいのだが。
しかしことごとにくどくどしく言うこともないため、カイトはただにこにこと、うれしそうにがくぽに懐く。
にこにことうれしそうに、しかし少々、慌ただしく、困ったように――
「なにか、用事か?」
訊いてやったがくぽに、カイトはひょっと眉尻を下げ、こくんと頷いた。
「うん、明日の仕事のことで…ちょっとマスターに訊いておきたいこと、できて。リビングにいると思う?」
「ああ、そうだな。引き上げた様子はない。まだメイコと呑んでいるだろう」
「んっ、そか!ありがと!」
ぱっと表情を輝かせて礼を言い、カイトはがくぽから離れた。が、リビングに向かうより先に、まずは自分の部屋の扉を大きく開く。
入れと――
しぐさでわかっても、がくぽは半歩ほど、足を引いた。
「出なお…」
「すぐ戻るから!入って待ってて!すぐ!ほんとすぐ!!ちょっと訊いたら終わるから!ねっ?!」
「ん、ああ………」
たとえ恋人同士とはいえ、相手が不在の部屋にいることは気が引ける。だから自分は出直してくると、がくぽが主張しきる前に察したカイトが首を横に振った。
だけでなく、腕を引き、背中を押してがくぽを部屋に入れる。
「ね、すぐだから……待ってて?ね?」
不安そうに嘆願するカイトに、がくぽは押される体から力を抜いた。振り返り、愁眉のカイトへ笑いかける。
「ああ、………待つ。ちゃんと待っておるゆえ、慌てずとも良い。きちんと納得いくまで、訊いて来い」
おっとりぽややんとして、春の日だまりに喩えられるカイトだが、仕事に関しては鬼だ。その仕事に絡んで確認したいことがあると言うなら、中途半端なことはやらせないほうがいい。
下手に急かして消化不良で切り上げさせると、いつまで経っても思考が仕事から離れられず、結果、せっかくの恋人の時間が台無しになる。
本当に恋人としての時間を大切にしたいなら、カイトには思いきり仕事をやらせてやったほうがいい。
――という程度は学習しているがくぽの、なにかしら肚を据わらせたとわかる返しに、カイトはほわんと苦笑した。
「そこまでおおげさなことじゃないんだよー…ほんのちょっと、ひと言二言で済む話だし……」
なにやらぼさぼさと言っているが、そうしている間にもせっかくの時間が過ぎていく。
「カイト」
「ん、だねっ!」
そっと、しかし厳然と促すと、カイトはばいばいとがくぽへ手を振って踵を返し、扉を閉めた。
だから姿は見えなくなったが、廊下を走るぱたぱたという足音が聞こえる。その足音はすぐに、たかたかたかと階段を駆け下りる音に変わり――
「転んでは元も子もなかろうから……慌てずとも良いと言うに」
ぼやいて、がくぽは改めてカイトのいないカイトの部屋に顔を向けた。
ベッドに、机と椅子、それに本棚を兼ねた飾り棚があるだけの部屋だ。
『だけ』のはずなのだが、どうしてか雑然、もしくは混沌という言葉が相応しい。
だからといって、散らかっているというのとは違う。不快かといえば、それも違う。
なるほど、カイトだと――『KAITO』だと思う。そういう部屋の具合だ。
たとえばがくぽだと、出ているものも最小限ならしまうものも最小限の、そもそも持っているものが最小限の銘品ばかりという部屋だ。どこを見ても洗練され、厳選されたとわかる。
対してカイトは、基本的にオープン収納だ。しまっているものがあるのかと思うほど、あちこちにあれこれと置いてある。それも多くが、いわゆるガラクタだ。価値があるのかないのか、本人以外には判然としないという。
そのガラクタの飾り方も、がくぽから見ればめちゃくちゃだ。秩序もなく、決まりも定めもない。
だが、バランスがいい。
――ここが、だから『KAITOだと思う』由縁だ。
あちこちにあれこれ置かれ、雑然としていると言っていいような、カイトの部屋だ。散らかっているといえばそうだが、不快ではない。
理由が、絶妙なバランスの良さだ。
適当に放り出したように見えるペンの一本いっぽん、あるいは石ころや小枝といったものが、うまく共鳴し、絡み合い、不思議と風を通して流れる。
自分には決してない才能だし、まねることのできる境地でもないとがくぽは思う。
ただしそう言うと大概が、恋人の欲目だと呆れられるのだが――
「………欲目でも良かろうさ。少なくとも恋人の部屋に行って不愉快に指図し、相手を歪めるようなやりようよりはな」
つぶやいて、がくぽは軽く、目を細めた。
この部屋で、ことにがくぽのお気に入りであるのが、本棚を兼ねた飾り棚だ。
『飾り棚』というだけあって、ここはもう、カイトの『KAITO』たる才能が遺憾なく発揮されている場所だと言える。
いつ見てもなにかが違って、あるいは同じであってすら以前と違う発見があり、常に新鮮な気持ちで愉しめる。
ここはカイトの部屋の中でも、ことに聖域だ。
眺める以上に、口を出すべき領分ではないし、手を出すなどもってのほかだ。
「……………とは、思うのだが、なあ………」
ぼやきながら、がくぽは飾り棚の前に立った。その、ちょうど目線あたりに来る棚――
雑多さまざまなものが並べてあるその中に、小さなくまのぬいぐるみが一体、ある。がくぽの手のひらの上に、ちょうどよく乗る程度のサイズだ。
手足が可動式になっているのだが、今は足を曲げ、棚板の上にちょこんと座っていた。
小さく、そして紫色の生地をメインに縫われたそのくまのぬいぐるみは、一週間ほど前にカイトの部屋に増えた、新たな住人だ。
推し色ベアというらしい。
推し色だ。
そして紫だ。
カイトは飾り棚に増やした住人のいちいちを、がくぽに見せたり解説したりすることはない。
先にも言ったが、志向も嗜好も違うことがわかっている。自分がいいと思ったものが、がくぽにはひたすら『ガラクタ』にしか見えないことが多いというのも、よくよく理解しているのだ。
そして恋人だからと、すべてを理解し、共感してくれるべきだとも考えていない。
――だってなにより、俺ががくぽのこと、全っ然、わっかんないしー!
けららと明るく笑って、自分にできないことをがくぽに強いるのは違うと説いたカイトだ。
それもそうだとは思うが、少しは歩み寄らせてくれとも思う。
歩み寄ってくれとは思わない――ただ一般の生活をしているだけで、カイトにとってはずいぶん歩み寄っていることになるのだと、がくぽは理解しているからだ。
だから今度はがくぽのほうからカイトへ、歩み寄らせてほしいのだが――
「なかなか、そう、なあ………」
目は、棚板に座る紫色のくまに当てたまま、がくぽは寝間着である浴衣の袂を探った。取り出すのが、同じくまのぬいぐるみだ。
ただし色は、紫ではなく青色だ。
もうひとつ言うなら、その青色のくまの首には、白地をメインに、端に水色のボンボンが付いたかわいらしいマフラーが巻いてある。
紫のくまから、手に取り出した青色のくまに目をやり、がくぽはひくりと表情を引きつらせた。
「………………引くな。何度確認しても、引くな……!」
確認しよう。
カイトが一週間ほど前に購入し、棚板に飾っているくまのぬいぐるみだ。推し色ベアという。
最近、一部界隈で多少流行っているらしいグッズのひとつで、推し――好きなアイドルやキャラクタの、イメージカラーやキイカラーと同じ地色の布でつくられたくまを持つものだという。
キャラクタの転写された缶バッジや、キャラクタそのものを模したぬいぐるみを持ち歩くよりは多少、刺激が緩和された、いわばこっそり応援グッズとでも言うべきものか。
それの、紫色の――
皆まで言う必要もなく、がくぽの色だ。
これまでカイトはそういった、恋人を思わせるグッズといったものを持つことに興味を示さなかったのだが、どうやらくまのぬいぐるみは趣向としてヒットしたらしい。
気がついたら購入されて部屋に増えており、――しかし紫色だけだった。
がくぽが調べたところ、このぬいぐるみはものの性質上、多色種で展開されており、当然、青色のくまもいた。
が、カイトが購入したのは紫色のくまだけだ。
否、別にセットで買わなければいけないという決まりはないし、恋人を思わせるものとして、ただ欲しただけという可能性が高い。
『恋人を』思わせるものだ。
『カップルを』思わせるものが欲しいわけでなければ、紫と青、がくぽとカイトをセットで揃える必要はまるでなく、――
「余計なお節介という気しかしないうえに、どう足掻いても引く……まずなにもっても、第一に俺が引く……」
げっそりしながら、がくぽは手に持った青色のくまを見る。
手のひらに乗るサイズの、小さなくまだ。くまの首に巻かれたマフラーは、そう、きちんと『マフラー』の形状を取っている。
適当なリボンで代用したものではなく、人形用に、ミニマムサイズで再現されたマフラーだ。
ただし、くまとセットで売っていたわけではない。
別売りのオプションで、専用に用意されていた衣装でもない。
わざわざおもちゃ屋の着せ替え人形エリアを物色し、ようやく見つけた逸品だ。
ぬいぐるみを買うだけなら、がくぽとしてもぎりぎり許容範囲だ。
が、セットでもなくシリーズオプションでもないグッズまでわざわざ探して、買い足す。
そこまでする自分に、がくぽは自分で引く。
カイトはそこのところ鷹揚だから、ただ恋人が手間暇かけてくれたと歓ぶだけだろうが、がくぽは自分で自分に引く。引かざるを得ない。
そもそも今日、いっしょに買い物に行ったレンは引いていた。
こういったことに多少は詳しいのではないかと、あてにして連れたリンのほうは、なにか大喜びだったが。
おそらくそこから話が流れるミクやメイコは、引くだろう。どういう表情を浮かべるか、わりと詳しく、細部に至るまで想像することも可能だ。
そこまでげっそりして引くならやらなければいいものを、しかしてどうにも腑に落ちず、結局こうしてやらかした。
つまり、紫色の『がくぽ』を一体のみで置いておくのではなく、傍らに青色の『カイト』を添えて欲しいと。
これまでカイトがなにを飾っていようが、がくぽは飾り棚に関して口も出さなければ手も出し控えていた。あまりに気になる配置や物品について訊くことはあれ、だからどうしろこうしろと指図したことはない。
才能だ。
がくぽにはない、カイトに突出した。
その才能と感性の為せるわざに、がくぽが入りこむ隙はない。それはバランスを崩す行為で、カイトのためにもならないががくぽのためにすらならない。
それでも――
「南無三」
つぶやき、がくぽは手に持っていた青色のぬいぐるみを、紫色のそれの横に置いた。
せめてと、手足の配置は丁寧に整え、マフラーの形もきれいに直す。間近で眺めて整え、直してから、多少離れ、角度を変えてとしてさらに確かめる。
最終的にベッドの上に座って眺めると、ようやくそこで、肩の力を抜いた。
悪くない。
――気がする。
きっと自己満足だろうが、紫色の隣に青色が座ってくれただけで、あのぬいぐるみを見たときからもやついていた腹が治まるのを感じる。
このあと、気がついたカイトになにか言われたとして――もしも困ったようだったら、ちょっとした悪戯だったのだと、言い訳しよう。
カイトが驚いたならもう終わりだと言って、回収する。
ここは本来、自分などが手を出していい領域ではないのだし、ほんのわずかにも関われただけで十分、十二分というもの。
「やれやれだ」
なににともなくつぶやいて、がくぽは天井を仰ぎ――
その顔が、ふと扉へ向く。ややして階段を駆け上がってくる音がし、次いで廊下を走る音に変わり、
「がくぽ、おまたせっ!」
勢いよく扉を開き、カイトが飛びこんで来た。
その瞬間――
がくぽはすべてがどうでも良くなった。
がくぽがきちんと待っていて、部屋にいてくれたと、確かめた瞬間に閃かせたカイトの笑みだ。
安堵と、歓喜と、なによりも凌駕して突き上げ、こみ上げる情愛だ。
不安に思う暇も、隙もない。
カイトはこれほどに自分を愛して、慈しみ、求めてくれている。
がくぽもまた笑みながら、両手を広げた。
「おいで」
「ふひゃっ!」
呼ぶと、カイトは笑って、素直にがくぽの腕の中に飛びこんで来てくれる。甘えるねこのしぐさで擦りつかれ、がくぽは慰撫する手つきでカイトの後頭部を撫でた。
「用事はきちんと済んだか?もういいな?」
「んっ!だいじょぶっ、カンペキっ!ありがと、がくぽ」
念を押すがくぽに明るい声音で答え、カイトは顔を上げた。きらきらと輝き、熱に潤んで甘く蕩ける瞳ががくぽを映す。
なにを考えるまでもなく顔を寄せ、がくぽはカイトのくちびるをついばんだ。くちびるはそこに止まらず、頬に、鼻に、瞼に額にと、顔中にキスの雨を降らせる。
くすぐったいと笑って身を捩るカイトが逃げないことはわかっていて、それでもがくぽは抱く腕に力をこめた。
ちらりと、飾り棚を見る。
雑多なガラクタに紛れ、紫色のくまと青色のくまが仲良く並んで座っている。
そして腕の中には、なにより愛おしい恋人そのものがいる。
すべてはこれに尽きる。
――そう思いきったがくぽが、天井を突き破るほどの歓喜に見舞われるのは、翌日、仕事から帰って来てのことだ。
飾り棚に増やされた青色のくまに気がついたカイトが、がくぽが思ってもみなかったほどに歓んだ、それを知ってからの――