西向くねこの尾は南
「だめ、だよ?」
がくぽが言うより先に、察したカイトが釘を刺した。
――カイトでありながら察するとは、と。
がくぽが咄嗟に抱いた感想は、悔し紛れもあって失礼なものだったが、一面、真実でもある。
カイトは空気を読まない。
『読めない』というのも間違ってはいないが、より正確に言うなら、基本、自ら選択して『読まない』。
そもそも『空気を読む』というのは、そのほわっとした語感とまるで相容れない、高難度のスキルだ。
そのために収集しなければいけない情報はろくでもないほど莫大な量だし、さらにはその莫大な量を、ただ集めればいいわけではない。すべて分析・解析・照合しなければ、結論が出せない。
挙句、それを瞬間的というほど、迅速に――
旧型機と称される初期型ロイドであるカイト――KAITOシリーズには、すべてにおいて荷が重い処理だ。
少ない容量はすぐに埋まってしまうし、その量を解析するのも、ましてや迅速にこなすのも、相当の負荷がかかる。
場の空気を読まなかった結果より、読むために費やすあれこれのほうが、よほどにリスキー。
――という事情もあり、カイトは数を数えることを『3よりうえはいっぱい!』で放り出すように、空気を読むことも放り出している。
春の陽だまりのようにおっとりぽややんとした性格で、細かいことを気にしないというのも、もちろんあるが。
そういうカイトが、だ。
まさか空気を先読みし、がくぽがなにか言うより先に釘を刺してきた。
――まあ、今さら力を尽くして『読む』までもなく、習慣からすぐさま判断できるものであったということも、ある。
夜だ。時刻は23時。就寝直前であり、がくぽとカイトとはそれぞれの自室に別れる前、廊下でおやすみの挨拶をしていたところだった。
きゅうっと抱きしめあって、カイトから『おやすみ』の挨拶をもらって――
ここでがくぽが抱く腕にちょっとばかり力をこめ、それで口を開いたら大体、言うことは決まっている。
「あー……否、カイト」
「だめです」
「ぐぅ」
言い訳すらも吐かせてもらえず念を押され、がくぽは呻いた。
往生際の悪い、潔くない態度だ。言い訳をしようとしたこともだし、こうまで拒まれているものを、引かず捻じこもうとする態度もだ。
引きの悪い男は鬱陶しかろうと、こんなことではカイトに嫌われると――
思えばぞっとするから、ここはいい子に引きさがり、大人に寝たいところだ。
が、しかし。
「かっ……カイトの事情は、わかっておる。重々承知しているゆえ、なにもしない。明日に障りの出るようなことは、いっさい――誓って、なにもせぬゆえ」
いっしょに寝たいです、と。
どうしても諦めきれず、がくぽは早口で畳みかける。
明日、カイトは午前中から大事な仕事を控えている。大事な仕事を控えているからには、今夜はしっかり寝て、英気を養っておきたいところだ。
もとよりロイドの『睡眠』に、良いも悪いもない。とはいえ、夜更かしで睡眠時間を削れば影響は否めないし、もちろん恋人と共寝をし、愛し合うがためのあれやこれやをいたすなど、論外――
確かに愛おしみ合えば、心はこれ以上なく満たされる。大事な仕事を控えて強張る心を解き、いい具合に緩めてくれることだろう。
が、体の負担だ。もはや馴れた行為であっても、だからとまったく負担がなくなったわけではない。
ことにがくぽとカイトの関係となれば、カイトの体にはどうしても相応の負担がかかる。
そして明日のカイトの仕事だ。ダンス・オーディションだ。俊敏かつ激しく、でありながら複雑な動きを正確にこなすことを要求される。
おっとりぽややんとした性質であるカイトが、このオーディションの参加権を得るために費やした努力も知っているし、懸ける想いも、がくぽは重々に承知している。
しているから、『あわよくば』という、邪心からのおねだりではない。
ただ、そばにいてやりたい。
たとえカイトが仕事の鬼とはいえ、それと難しい仕事で緊張しないかどうかというのは、別の話だ。緊張はする。相応に。
――なんとなし、思いつめているような雰囲気を感じたのだ。
それこそがくぽは新型ロイドであり、ことに情報処理の精確性を謳われる機種だ。
放棄するという選択肢はもとよりなく、いわばひとが考えもせず呼吸をし、鼓動を打つように、思考も介在させないほどの当然のこととして、細かく『空気』を読む。
だとしても、ロイドとも思えない突飛な言動の多いカイトの機微を読むのは非常に難儀するのだが、まるでなにも読み取れないわけではない。
緊張が過ぎて、思いつめているような気がした。
くり返せば、ロイドの『睡眠』に良いも悪いもない。考えこみ過ぎて寝つけないということもないし、悪夢にうなされ、飛び起きるようなこともない。
『寝る』となれば『寝る』し、『寝た』ならしっかりと『寝る』。
気持ちの有りようと『睡眠』とは、未だ連携していない機能なのだ。
だから、こんなことはきっと、必要ない――
自身もロイドであればこそ、がくぽはよほどに理解していた。
理解していたが、感情が納得できなかった。
思いつめるほどに緊張する恋人を、わかっていてひとり、寝にやることが心苦しかった。
寄り添い、ひとりではないのだと――明日、『戦う』ときにはひとりでも、こうして応援し、見守るものがいるぞと。
たとえばカイトががくぽにそうしてくれるように、言葉でなく伝えてやれれば。
そう、思ったのだが。
「だ・め・で・す・っ」
「ぐぅ……っ」
ひと言ひと言区切って言い聞かせられた挙句、カイトは腕を突っ張り、がくぽの腕の中からすら逃げた。
がくぽは抵抗することなく素直に引き剥がされつつ、ただ呻いてがっくりと項垂れる。
がくぽの思いもあれ――カイトにとっては余計なお世話ということもある。
思いつめるほど緊張していれば、かえってひとりにならなければ落ち着けないという心情も、むしろとてもよく、理解できる。
自分が過保護な性質だということも、がくぽは重々に承知していた。普段はカイトも鷹揚に容れてくれるが、だめなとき、だめなものはやはり、だめなのだ。これは仕方がない。
今回はすでに三度、ダメ出しされている。つまり本当に、まったくもって余地もなく、『だめ』ということだ。
これ以上は思いやりではなく、完全にがくぽの我が儘で、それこそ相手を省みず、慮ることもないやりようということになる。
納得できないものはあれ、カイトの負担になりたくて言いだしたことではない。
ならば今度こそほんとうに、引き時を間違えるわけにはいかない――
「が、くぽはねっ!がくぽは、ね……っ!それで、いーかもしれない、けどっ」
「ぅっ!」
ごめんなさいをして引き下がろうとしたがくぽだが、それより先に、カイトが声を上げた。それも、相当に恨みがましい声だ。
項垂れていた顔を上げて慌てて確認すれば、カイトは声に相応しい、恨みがましい目でがくぽを睨みつけていた。頬も上気して、すっかりおかんむりだと、ひと目でわかる。
緊張に思いつめるカイトを緩めてやりたかったのに、どうやら逆撫でしてしまったようだ。思いやりがきっぱり裏目の、好例だ。良い学習をしたと――
言っている場合では、もちろんない。
「か、カイト……っ」
すまないと、慌てふためきつつあぶおぶと言いかけるがくぽだが、カイトは聞く耳を持ってくれなかった。がくぽを睨み上げる目には、憤りの熱だけでなく、涙まで滲んでいる。
それできっとして睨みつけながら、カイトはぐいぐいと、さらにがくぽの胸を押しやるのだ。
相当おかんむりのご様子だが、その『相当』具合がかつてないという、まさかこんなところでレベルの危機的状況。
「俺はっ……っ!」
「カイト!」
「俺はっ!したいのにっっ!!」
「皆まで言わず………いゎ、ん?」
――激昂したように叫んだカイトに、ほんとごめんなさいと平身低頭しようとして、がくぽは胡乱に瞳を瞬かせた。
今、なにか、アレだろうか。非常になんというか、こう、ソレっぽいことが、都合よく聞こえたような気が。
いやいやまさか、カイトに限ってAH-HA-N?と、がくぽはなぜか、アメコミ――古き良き時代のアメリカン・コミック的なノリで考えた。
動揺のあまりだ。こういうとき、ひとというのは底が知れたり、地が出たり、馬の脚が五、六本もあらわとなったりと、いろいろ忙しい。
そういったふうに、さすがに思考が忙しくなり過ぎて動きを止めたがくぽを、カイトは構わず睨む。頬が赤く、瞳は潤んでいる。怒って――
「俺だって、ね、明日のこととか考えたら、そんな場合じゃないの、わかってるっ!わかってるけど、でも、なんか逆にこーふんして、し過ぎちゃって、したいんだもんっ!すっごくすっっごくっ!したいっっ!!けどっ!だめでしょ?!だめですね?!でもがくぽといっしょにいたら、ガマンできないもんっ!!ぜったい、いっぱいいっぱい、おねだりしちゃうもんっ!!しちゃうけど、がくぽは『しない』っていったら、しないし……っ!なんにもなかったら、してくれるかも、だけど、ぜんっっぜんっ!!なんにもなくないですね、あしたっ?!がくぽ、わかってますねっ!!そしたら、困らせて、呆れられて………」
「か、かい……」
珍しくも興奮ままにまくし立てるようなカイトに、がくぽは気圧されつつ、手を伸ばした。
しかしその手が届くより先に、カイトはがくぽをさらに押しやり、身を翻す。
自室へ飛びこむと、扉を盾するような姿勢を取った。それで隙間から、じっとりとがくぽを睨むのだ。
恨みがましい。非常に恨みがましい。いろいろ危機感が募って仕様がないほど、とても恨みがましい。
恨みがましいが、その恨みがましさとは、つまり――
「カイト」
「おやすみ、がくぽっ!いー夢、見ろよっ!」
カイトはいつになく乱暴な調子で、しかしいつもの挨拶をして寄越す。そしてためらいもなく、扉はばたんと音を立て、閉められた。
がくぽの目の前で、やはり、いつになく乱暴な調子で。
「ぁ………」
呆然と、愕然と立ち尽くすがくぽだが、我に返るより先に、すぐさま扉は開かれた。ほんのわずか、隙間という程度だが。
そこからカイトは、すっかり上気しきった顔を覗かせる。先とは違い、どこか気弱さを含んだ眼差しが、懸命な色を含んでがくぽを見つめた。
「あ、明日……あしたの、ょる……は………お、お……ぉぼえ、てろ、ょ、がくぽ……っ」
言い捨てて、カイトはまた、ばたんと音を立てて扉を閉めた。そして今度こそ、開くことはない――
しばし呆然と立ち尽くしていたがくぽだが、やがてへたりと、廊下に座りこんだ。へたへたと座りこむと頭を抱え、うずくまる。
読み違えた。また、だ。いつものこととも言えるが、しかし、また――
確かにカイトは、緊張していた。思いつめるほどだ。
過ぎ越して緊張していたが、理由だ。違った。否、違わないが、違った。
明日のことを考えて、カイトはいわば、奮い立つような気分だった。が、過ぎ越して、つまり、昂進した。
そう、性的にまで昂ぶってしまったが、それこそ明日のことを考えれば、今夜は決して、『いたす』わけにはいかない。
いかないが、ともすると、過保護で甘やかし屋の恋人におねだりしてしまいそうだ。
しかし理由が理由であればこそ、がくぽの過保護も甘やかしも、今夜に限っては、決しておねだりを容れない方向で働く。
溺愛すればするほど、カイトの懸命のおねだりを容れるわけにはいかないと。
いかないが、カイトはがくぽのそばにいるとおねだりを――
がくぽを困らせ、心苦しい思いをさせるだけのおねだりを堪え、呑みこむためにこそカイトはああまで緊張し、そしてなにより、思いつめまでしていたのだ。
『したい』というおねだりを、懸命に呑みこめばこそ――
――あしたの、よる……おぼえてろ、がくぽ。
羞恥を堪え、なんとか茶化せないものかと迷走しつつ吐きだされた、謝罪含みのおねだり。
明日の夜に覚えていたならどうなるかと言って、きっとそのころには正気に返っているカイトは、羞恥の極みのどん底だろう。羞恥の極みのどん底だが、でも『したい』と。
「………がっくん?もすもーす?いきてるー………?」
廊下の真ん中でうずくまったまま動かない次兄を、不運にもたまたま通りがかってしまったミクは、つい、つついた。通行の邪魔だというのもあるが、次兄がうずくまっている場所だ。だから廊下のど真ん中だが、誰の部屋の前かということだ。
先には、珍しくも長兄の怒声も響いた。春の陽だまりのように鷹揚で、おっとりぽややんとした長兄の、怒声だ。
詳しい内容は聞き取れなかったものの、結果として、長兄の部屋の、閉ざされた扉の前で頭を抱えてうずくまる次兄だ。
いかにミクが普段、悪魔と称されていようとも、さすがに看過できない。
と、ついうっかり、声をかけてしまったわけだが。
「なんっっっぞ、あのかわいいイキモノっ……っ?!」
「あー………」
がばりと顔を上げて叫んだ次兄に、ミクはすっと、目を眇めた。
固く閉ざされたままの長兄の部屋の扉を見やり、必死の、あるいは瀕死の形相を晒す次兄へ、生温い視線を戻す。
「うんまあ、なんだかさっぱりわかんないけど、いつものアレだったっていうのはよくわかったよ、ありがとう、じゃあとっととおやすめ、おにぃさま。現実以上があるとも思えないけど、いー夢みろよ」
――ミクがナナメ感満載にけっと吐きだしたその台詞は、口調にしても、奇しくも先の長兄のそれとよく似ていた。