I pray...04

「がくぽー、あのさ……っと、ゎわゎっ」

こここんと、ノック数回。

ほぼ同時に扉を開いてがくぽの部屋に入ったカイトは、慌てて自分の口を塞いだ。

ノックとほぼ同時、部屋の主の許諾を待つことなく部屋へ入るのがこの家の『伝統』だから、応えが返らないことをなんとも思わなかった。より正確に言えば、応えられるほどの間を置くことがないから、そもそも『応えが返るもの』だと思っていないという――

それはともかくだ。

本日、部屋の主たるがくぽの『応え』がなかった理由だ。

不在だったから――ではない。とはいえ、微妙にそれとも近い。

がくぽは文机を枕に、うたた寝中だった。

「ぁわゃやや………めずらし…」

潜めたものの抑えきれずこぼし、カイトはそっと、部屋の中に入った。さらにそっとそっと、気を遣って扉を閉める。

いつもの通り、出すものは最小限に、すっきりと片づいた和室だ。

文机はそんな部屋で常に出ていることを赦された数少ない家具で、がくぽは暇があると、ここでなにかしらして過ごしている。たとえば譜面を読んだり、あるいはメモなどを書きつけたりといった。

で、本日もきっとなにかしらのことをしていて、けれどいつもとは違って、そこで睡魔に襲われた。

カイトとは違い、真昼間からそうそう睡魔に屈するようながくぽではない。

が、ここしばらく立てこんでいた仕事がひと段落ついたところでもあったし、なんとなし、気が抜けていたのだろう。

そのうえに今日は、家の中外を問わずほかほかぽかりんの、春らしい、いい日和でもある。

「そーだよ……おひるねびよりんなんだよ…!」

がくぽは正しいと、カイトはぐっぐっと拳を握り、力強く請け合った。

もちろん、声は潜めている。しかしあまりにもがくぽの選択が素晴らしいものであったため、とてもではないが称賛を我慢することができなかったのだ。

とはいえ、募る感動まま大声を出したところで、ロイドが一度『睡眠』に入ればおいそれと起きはしないものだが、気持ちの問題だ。

飛び抜けた素晴らしさゆえ称賛せずにはおれないが、カイトはがくぽを起こしたいわけではないのだし、ああ、否、――

「ぅん。でも、どうしよう?」

気配も声も潜めて、けれどカイトは部屋から出ることをせず、文机に凭れて眠りこむがくぽのそばへ行く。傍らに座りこむと、ちょこりと首を傾げ、がくぽの顔を覗きこんだ。

暇を持て余し、遊びに来たわけではない。それなりに急ぎめの用事があって、来た。

しかし来てみたなら、がくぽはこれだ。こうだ。起こしたくないのは『感情』で、起こして用事を片づけなければ――

「ん………?」

「ぁ…」

カイトは再び、自分で自分の口を塞いだ。

起こすか起こさないか、カイトがその決断をつけられないうちにがくぽの瞼が震え、起動の兆しが見えた。

カイトがうるさかったとか、がくぽが気配に敏いからという話ではなく、おそらく、タイミングだ。くり返すが、一度『寝た』ロイドはちょっとやそっとのことでは『起き』ないのだから。

がくぽがいつ寝たかは知らないが、ちょうどよく『今』、『お昼寝』として規定される時間を満たしたとか、そういうことだろう。

まあ、あれだ。せっかくだし寝かせておいてやりたい気持ちは強かれ、起きるなら、それもそれだ。

文机に顔を、横を向く形で預けているがくぽだ。カイトはそのがくぽの顔を覗きこむ位置にいたが、さらに姿勢を微調整して、起き抜けのがくぽと目が合うようにした。

「んん………」

再びがくぽが呻き、瞼が震える。一度、きつく、きゅうっと閉まってから緩み、上がったところから覗く、花色――

思うこともなく、カイトは自然と、花開くように微笑んでいた。

「おはよ、がくぽ」

「んぁ……?」

寝起きの耳にはことに心地よく響く、おっとりほやんとした春の陽だまりの声だ。人間相手であると、うっかり『おやすみなさい』と返された挙句、二度寝を決めこまれたりもする――

が、相手はがくぽだ。ロイドであって人間ではないということもあるが、それ以上に、機敏で、堅実な性質だ。

の。

はず。

なのだが。

「………がくぽ?」

しばらくたっても『おはよう』と、返ってこない。

なにより花色の瞳がいつまでも茫洋と、不可思議を彷徨って定まらない。

まさか自分が昼寝をするとは思わず、挙句、起きた途端にカイトの笑顔で迎えられまでして、現実の把握に手間取っていると――

いうのは、あり得ないんだよなあと、がくぽを窺い見つつ、カイトは眉をひそめた。

たとえばカイト――KAITOであればスペックの問題で、こういった『寝惚ける』といったことはある。

しかしがくぽ――『がくぽ』はない。スペックの高さもあるし、性格のこともある。起きたら『起きた』のだ。そこにラグもブラフも、いっさいない。

のに、今のがくぽはまるで、寝惚けているようだ。起き抜けのカイトがよく経験する、妙なラグが生じているように見える。

だから、そういったことは通常、『がくぽ』にはあり得ないのだ。もしもあり得るとしたら、不調――

「がくぽ?」

「ぁあ………」

わずかに焦り、先より少し強めの声で呼んだカイトに、がくぽはようやく応えた。『応えた』とはいっても意味のない音を返しただけだが、まるで反応できないよりはましだ。たぶんおそらくだろうという程度だが、きっとましだ。

逆に考えると、ここで明瞭な反応を返してこないのだから、やはりがくぽには今、なにかしら、重篤な障害が起こりつつある可能性が非常に高い。

そもそも、いくら気が抜けたとはいえ、滅多にしない昼寝を、それもカイトに誘われたわけでもなく自らやったのだ。これがもう、異常のサインで、あんなところでほっこりしている場合じゃなかったと――

カイトは焦りを募らせつつ、湖面の瞳を揺らがせながら身を乗り出した。ごく間近から、花色の瞳を覗きこむ。

「がくぽ、からだ」

「ゆめを」

――互いの言いだしが重なって、互いに中途半端に黙りこむという結果となった。

カイトは聞き逃しかけたがくぽの言葉を懸命に思い返し、首を傾げる。

――ゆめを。

耳馴れない単語というわけではないのだが、がくぽの言い方もある。らしくなく、雲の上でも歩いているような、曖昧な、ぼんやりとした言いだしだった。

おかげでカイトの思考は一瞬、ひどくやわらかでゆんわりとしたあめのなかを揺蕩った。

そのあめはとても甘くて、口のなかをゆわふわと満たしてからだに溶けこんでいく。食べたものを芯から幸福へ導いてくれる、すてきなあめなのだ。

「うんっ。ちがうっ」

束の間飛び掛けた意識を、カイトは『がくぽが心配』の一念で自ら呼び戻した。これをして愛と言ったりもするが、ともかく。

「がくぽなぁに?」

カイトとしてはできるだけ早く、そう、がくぽが話せるのであればそのうちに、どう具合が悪いのかということを問い質したかった。

が、そこの焦りはぐっと呑みこんで、まずはがくぽがなにを言おうとしたのかを確かめる。

がくぽは先よりははっきりした、けれどやはりどこか彷徨うような目を、わずかに眇めた。

迷い、ためらい、――

「がくぽ」

焦りはあっても、だからこそ、いつものほえほえほやんとした春の陽だまりのような声でおっとり促したカイトに、がくぽは軽く、目を伏せた。

迷い、ためらうくちびるが、ゆっくり開く。

「ゆめを――みた。ような、………気がする」

「ゆめ」

を、見た。

と。

カイトはきょとんとして、くり返した。

その『ゆめ』というのはカイトが先ほど思ったような、とてもすてきなあめの一種ではないだろう。しかし似ているといえば似ているかもしれず、――

がくぽは今の今まで寝ていたのだ。昼間で、うたた寝とはいえ、『寝た』ことに違いはない。となれば『ゆめ』、つまり『夢』を見ることも――

ないのが、ロイドだ。

便宜上『寝る』だの『睡眠』だのと言ってはいるが、その様態は人間のものとは違う。たとえ最新型となれ、未だロイドに夢を見る機能はない。

だからこれは、これこそがもしかしたなら、不調のなによりのサインであるかもしれず――

「あー……うむ。否……ぇえ、その」

がくぽは徐々に顔を逸らし、文机に埋まるような形となった。かしかしかしと頭を掻きつつ、のっそりと身を起こす。

覚えた違和感を口にしたものの、口にした途端、それこそ『夢から覚めた』ような。

危うい均衡で揺蕩っていたシャボン玉が割れた瞬間にも、似ているかもしれない。

とにかくがくぽは自分が言ったことのあり得なさぶりに、口にしてからようやく思い至り、ひどく気まずい思いを抱いたようだった。否、それが『あり得ない』と思えるようにまで、覚醒したと言うのか。

「否、そのな、カイト」

「あのね、がくぽ」

なにかしら言い訳を連ねようと、顔を逸らし、うつむいたまま口を開いたがくぽと、カイトの言いだしとが、また重なった。

再び落ちる、束の間の沈黙――

カイトはずいと膝を進め、うつむきつつちらちらと視線を寄越すがくぽをじっと見つめた。

「いいゆめだった?」

訊く声音は、真剣だ。真っ向真っ正直、どう表現しようとも、茶化す色合いは皆無以上の絶無だ。

がくぽこそ意表を突かれたように顔を上げ、そんなカイトを見返した。

カイトは揺らぐ湖面の瞳でその視線を受け止め、引きこみ、さらなる深みへと潜る――

「あー………」

かしかしかしと再び頭を掻きつつ、がくぽの花色の瞳はゆっくり、部屋じゅうを彷徨った。あちこち見て、探すように見回して、ぽつりとこぼす。

「きらきらぴかぴか、していた」

気がする。

と。

具体性の欠片もなく、曖昧にもほどがあり、確かなものなどなにもない。

けれどその答えを聞いたカイトは、にっこり笑った。

「よかった」

「え?」

つぶやきに、はっとしたようにがくぽが顔を戻す。重ねてなにか問おうとして、くちびるはもごつくだけで言葉をこぼさず、閉じた。

――おやすみ、がくぽ。いい夢を見られますように。

夜寝る前、別れ間際にカイトがささやく、お決まりの挨拶だ。

ロイドが夢を見ないことはむしろ誰よりよくわかっていて、それでもがくぽへ、『特別に大事な相手』へ、毎夜毎夜、欠かすことなく続けられる――

――大事なひとが健やかたれと願う、小さな祈りの言葉よ。

「そうだ、な。………うむ。よかった」

ややしてがくぽも微笑み、そう返した。

顔を合わせて二人して穏やかに笑い、ふとがくぽが真顔に戻る。

「それはそうと、カイト。なにか用事があって、来たのではないのか?」

「ぅわあぉおぅ」

促されて、カイトはムンクの叫びに近い表情を晒した。

そう、少しばかり急ぎめの用事があればこそ、がくぽが寝ているのを知っても部屋に上がりこんで、けれど少しばかりだしなあとか、うかうか悩んだりしたのだ。

壁に掛けられた時計を慌てて確認し、カイトは腰を浮かせた。

「あのさ、がくぽ……」

「よしよし…」

腰を浮かせながらあわあわと口を開くカイトに、がくぽは苦笑しつつ、自らも腰を上げた。並んで立って、ふと、顔を上向かせる。

説明の言葉をどうにかまとめたカイトが口を開く、その寸前。

カイトの、あめよりよっぽど甘くてすてきなコイビトは、『ゆめ』の続きのようなきらきらしく輝く笑みで、告げた。

「おはよう、カイト」