妹たちは、クリームにまみれた兄が見たかった。
進展するとかしないとかは、この際どうでもいい。というか、進展するしないということは端から頭にない。
ただ、クリームにまみれた兄が見たかった。
のちのまつり
「…………まあ、言いたいことはわかります………」
「そ、そうだよね、マスター!ボクたちの言いたいこと、わかるでしょう?!」
「そうよそうよ、マスター!リンたちの言いたいこと、わかってくれるよね?!」
珍しくも頭痛を堪えるかのような渋面のマスターに、ミクとリンは手をお祈りに組んで、必死に言い募る。
「わかりますよ…………私だってあの結末にはひとこと、物申したいですから。ですが……」
言いながら、マスターはリビングを見渡した。
札束が羽を生やして飛んでいく幻想が見えた。
「……………………とはいえ、だからといってさすがに、家の中でパイ投げ合戦をしてはいけませ…っっ」
お説教中のマスターの頭に、新たなパイがぶつけられた。
「あははははは、マスター!!」
笑い声の主は、妹たちが是非にもと望んだクリームまみれの兄こと、カイトだ。
「これ、待て、カイト殿!」
「ぁはははははははっっ、がくぽっ!!」
「のわっ!!」
いつもとは違う、どこかイっちゃった感のある笑い声を響かせて、カイトは止めに入ったがくぽに抱きつく。
カイトもクリームまみれだが、がくぽもクリームまみれだ。
そしてもっと言うと、家族全員、例外なくクリームまみれで、さらにトドメを刺すと、リビング全体がクリームまみれだった。
どうしても兄をクリームまみれにしたかった妹たちは、あほの子なのにドジっ子属性がなく、自主的にクリームを被りそうにない兄に対し、一計を案じた。
クリームパイを用意したのだ。
テレビ局などで使われる、罰ゲーム用のクリームパイだ。
洋菓子店のものと違い、とにかくクリームだけが山盛られ、その他のことは二の次になっているアレだ。
知り合いのスタッフに頼んで大量に用意してもらい――がくぽの誕生日祝いの余興として、兄弟チームと姉妹チームに分かれて、パイ投げ合戦を……………家の中で、行った。
その結果、見事にカイトはクリームまみれになった。
ついでに、がくぽも、家族全員も、そしてリビングも。
「がくぽがくぽがくぽっ!!このクリーム、すっごいまっずい!!」
「わかった、わかったから少し落ち着け!!」
がくぽに抱きこまれても、カイトは少しもおとなしくならない。
パイ投げがあまりに愉しくて、なけなしの理性がどこかにすっ飛んでしまったのだ。
もはや無事なパイは残っていないのだが、落ちているのを拾っては、あちこちにまた投げつける。
一応これでいて年齢がそれなりに設定されているのだが、基本の性格の部分がお子様なのだ。
子供が理性を失うお遊びは、もれなくカイトの理性も奪う。
「ふひゃ、びっくりするくらいまっずいよ、このクリーム!!」
「ああもう、わかったからいい子にせんか…………っ」
手についたクリームをべろっと舐めて笑うカイトに、がくぽはすでに諦めモードだ。
そもそもの始めから、家の中でパイ投げというのが、無茶苦茶だった。
止めようとした瞬間に、口を塞げとばかりにパイが投げられ、――やられっぱなしだったというなら言い訳も立つが、つい、投げ返したりもしたから、もう同罪だ。
同罪だが、ほどほどにしておくのと際限なくやるのでは、たぶん五十歩百歩程度の違いはある。
「ほらほら、がくぽもお味見してみて!」
「あああ…………っ」
抱えこんだカイトは、きらきら輝く笑顔で「びっくりするくらいまっずい!」と太鼓判を押すクリームを、指に山盛りにして差し出す。
そんなもの食えるか、と叩き返すことも可能だろうが、現状、そこまでする気力がすでに尽きている。
がくぽは項垂れ、それから自棄を起こして顔を上げた。
カイトが差し出した指に、咬みつくように口をつける。
「…?」
「ね、すっごいまっずいでしょう?!」
「………??」
確かにそれほどおいしくはない。べったり張りつくことと、おもしろいように潰れることだけを考えて、味は二の次にされているクリームだからだ。
だが、そんな、びっくりするとかなんとか、そこまでまずいものかというと…………。
「あれ?」
訝しげに首を傾げるがくぽに、カイトがわずかに正気に返ったような顔になる。
「まずくないの?」
「…………いや、美味くはない、が」
「ええ?がくぽ、味覚平気?!」
「…」
ちょっと自信がない。
このクリームがまずいことは有名だし――だが、そんな伝説と化すほどまずいかというと、どうしても首を傾げる。
「なんで?」
「って、こら、カイト殿っ」
不思議そうに首を伸ばしたカイトが、がくぽの顔についたクリームを舐め取る。
「ほら、まず………………………く、ない…………………………?」
「ん?」
得意げに胸を張ろうとしたカイトが、顔をくしゃりと歪める。
「えー…………?なんで?おんなじクリームでしょ?なんでまずくないの?」
「カイト殿?って、待て、なにをっ」
訝しげなカイトは、そのまま舌を伸ばしてがくぽの顔を無造作に舐める。正確には、がくぽの顔についたクリームだが。
「ん…………やっぱり、あんまりまずくない……………あれ?なんか、『当たり』のパイとかあったのかな?それともつくったひとによって、ちょっとずつ味が違ったとか?」
「なんの話だ?」
不可解なのはがくぽも同じで、そうまで言われると自分の顔についたクリームの味が気になる。
用心深くカイトの体は抱きこんだまま、片手を離すと顔についたクリームを掬い取って、舐めてみた。
「………っ」
まずかった。
カイトがはじめに言った、びっくりするほどまずい、の意味がしみじみとよくわかる。
「不味いぞ、普通に」
「ええ?そんなわけないよ、…………おいしーとは言わないけど」
「だから、不味い」
「だーかーらー、『まずい』っていうレベルじゃないんだよー。さっき舐めたのは、ほんっとにまっずい!!ってレベルで」
言いながら、カイトは自分の手についたクリームを再び舐める。その顔が、くしゃりと歪んだ。
「ん、ほら、まっずい!」
「そうは言うが………」
不可解さのほうが先に立って、がくぽは顔を傾けると、カイトの顔に舌を伸ばした。頬についたクリームを、そっと舐め取る。
「………こちらのほうが、………やはり美味いとは言わぬが」
「そんなはずないったら………。おっかしいな。いつも、こんなに味覚って違わないよね?おいしいの、いっしょだよね?」
「大体な」
「そうでしょ?なんで今日だけ………」
がくぽの腕の中で首を傾げたカイトは、リビングを見回して、比較的きれいに残っているパイを指差した。
「ね、ちょっとあれ、お味見してみよう。それで、どう感じるか!」
「ああ、そうだな」
大分冷静さを取り戻したようには見えるが油断はせず、がくぽはカイトの腰を抱いたままリビングを移動した。
ふたりでパイの前に座りこみ、顔を見合わせる。
「せーの」
仲良く指を伸ばし、クリームを掬って口に運んだ。
同時に、二人の顔が歪む。
「まっずい!」
「不味いな」
同時にこぼれた感想に、さらに不可解さが増す。
二人の味覚がずれたわけではないらしいとわかった。
わかったが、そうなるとわからないのは、どうしてお互いの体についたクリームだけはまずくないのかだ。
「なにが違うんだろ………?」
「…」
つぶやきながら、カイトは再び舌を伸ばしてがくぽの顔を舐める。
カイトが首を傾げながら離れると、がくぽも舌を伸ばしてカイトの頬を舐めた。
「………なにが違うのだろうな………」
「ねえ………?」
「なにも違いやしません……………………お互いの体まで『込み』で味覚を構成しているから、味が違うように感じているんですよ………そういう夢もへったくれもない恋愛トリックです…………」
ぺろぺろ舐めあう長男たちを遠くから生温く見やり、マスターが小さくつぶやく。
疲れ切った彼女は今にも消えそうな儚い笑顔を、悄然と項垂れるミクとリンに向けた。
「これで満足ですか……………?」
家具も家電も、おそらく壁紙から天井板まで総取り換えだ。業者を呼ばないことにはどうにもならないだろう。
無邪気な兄の様子を堪能した少女たちは、顔を見合わせて頷いた。
「「おこづかい減らしてください…………」」
仲良く声を揃えて言ってから、リンがさっと手を伸ばす。
傍ではらはらと事態を見守っていた片割れの腕を掴んで、引き寄せた。
「三人で頑張って稼ぐから!三人分、おこづかい減らしたら、ちょっとくらい早く、なんとかなるでしょ?!」
「さんにん?!!」
補記しておくと、企画したのはミクとリンだ。用意したのも、強引に実行したのも。
レンはどこにも関わっていない。
当然の反応として声が裏返ったレンを、リンはきっと睨む。
「あったりまえでしょ!あたしの失敗はレンの失敗!ふたりで責任取るに決まってるでしょ!!」
「っておっまえ、俺の失敗は俺の失敗だって言うくせに?!」
「なに言ってんのよ!男のくせに女の子を巻き込もうとか、考えが浅はかなのよ!」
「ぅわぁああああああ………………っっ!!」
理不尽過ぎる姫の主張に、レンは頭を抱える。
そのレンの肩を、マスターがぽんと叩いた。
「レンさん……」
「マス」
「マスターも監督責任で、おこづかい減額します。四人分ですよ☆」
「マスタぁああああああ……………っっっ!!」
ちっとも慰めになっていない。
涙目のレンを置いて、マスターはきりっと顔を上げた。
「それでいいわよね?!」
お伺いを立てる先は、メイコだ。
「まあ、妥当なとこね」
尊大に頷き、もれなくクリームまみれの彼女は、腕についたクリームを舐めて顔を歪めた。
「まっず!!」
「保て理性、唸れ正気、吹っ飛べ常識……………!!」
「あ、マスターの理性と正気と常識がカスのように」
ミクはつぶやき、お年頃の弟妹の肩を抱くと、そろそろと後ずさってリビングから退避した。