sweet kitchen
キッチンに立つカイトの手際はいい。
普段の食事をつくるために立っているときもそうだが、手慣れていて迷いがない。動きは滑らかで、安心感がある。
がくぽはまだ、そこまでとはいかない。
おそらく持っているレシピはカイトより多いと思うのだが、ツールに体がついていけていない。
「そんなの、俺だって最初はそうだったんじゃないかなあ」
もう覚えてないけど、とカイトはのんびり言った。
「でも、どんなにゆっくりやっても、失敗しても、マスターに怒られたとか、そういう記憶ないな。あったら、ブクマして残しておく気がするんだけど。褒められた記憶はいっぱいあるよ。カイトさん、貴方ってひとは天才です、天賦の才です、天性の才能です、マスターは貴方が誇らしい!……って感じで」
「いかにも言いそうだな」
そして実際、マスターは褒め言葉を頻発する。
時として、というかごく頻繁に、その褒め言葉は微妙にずれた方向へと発揮されているが、言葉に嘘はなく、常に素直だ。邪気に歪んでいるようなマスターだが、褒め言葉まで撓むことはない。
彼女は感嘆したことは素直に褒めちぎるし、間違っていると思えば冷徹なほどにきっぱりと指摘する。
態度は明確でわかりやすく、ロイドにとっては付き合いやすい人種だ。
「がくぽだって言われてるでしょ?…」
カイトの声は、ハンドミキサーの音に掻き消されがちだ。
がくぽはダイニングテーブルから離れると、キッチンに立つカイトの傍へ行った。
カイトがつくっているのは、がくぽの誕生日ケーキだ。
メインのレアチーズケーキはすでに冷蔵庫の中で冷やし固められていて、今つくっているのは飾りのためのホイップクリームだ。
がくぽは甘いものがそれほど得意ではないが、お相伴するきょうだいたちはみんな甘いものが好きだ。
そのためかどうか、素地のレアチーズケーキにはレモンを利かせてかなりさっぱり目にはしたものの、ホイップクリームの量は半端なく多い。
「なんだ?」
「だから、褒められてるでしょ?マスターに。貴方が誇らしいって」
「ああ」
マスターの誇りであることは、ロイドにとってなによりの称賛だ。
それがわかっていて、マスターはどの褒め言葉の最後にも、必ずそうつぶやく。
作為的に、義務的に付け足された言葉なら、その空虚さに打ちのめされるだろう。だが、マスターはどこまでも真剣に、本気で言っているから。
真っ白い生クリームがふんわりと膨らみ、もったりしてホイップクリームらしくなったところで、カイトは慎重にハンドミキサーを止めた。
ホイップクリームの難しいところは、混ぜているとある地点を超えたところで唐突に成分が分離し始めるところだ。
その性質を活かして家庭でつくる手作りバターの材料にもなるが、今回の場合、ケーキの飾りだ。見た目は重要で、どこまでも滑らかでありながら、固さもある、その絶妙の地点に着地しなければならない。
「…いっかな。…でもな……」
ヘラですくったクリームの具合を見て、カイトが頷く。きれいに出来たクリームを眺めて、しかし、すぐに思案顔となった。
「カイト殿?」
なにか問題があるのか、と訊こうとしたところで、カイトの手がヘラの上のクリームに伸びた。ひと盛りすくって、口に運ぶ。
「…カイト殿」
行儀が悪い、と瞳を尖らせたがくぽに構わず、カイトは眉間に皺を寄せたまま、もうひと盛りすくうと、がくぽへと差し出した。
「あーん」
「…」
その瞳に切実な感情が隠されている。
言いたいことは山ほどあったが、なにか事情があるのだろうと察して、がくぽはとりあえず小言は呑みこんだ。
あとは、その指を咥えるかどうかだ。
「…」
「がくぽ。お味見して?」
凝然と眺めていると、カイトはさらに懇願してきた。
儘よ、と天を仰ぐと、がくぽは注意深く、差し出されたカイトの指を口に含んだ。
指の上のクリームを舌ですくい取る。
「…っ」
カイトが小さく身を竦ませた。がくぽの歯が当たったのだ。
だが、すぐに平静な顔に戻ると、指を引き抜く。
「ど?」
「ん…」
お味見して、と言われた以上、がくぽは真剣に舌に広がるクリームの味を見る。
「…おそらく、ずいぶんと甘さが控えめだと思うが……」
「うん。あんまりお砂糖入れてない」
「これでほかのものは満足できるのか?」
訊いたがくぽに、カイトは肩を竦めた。
「がくぽの誕生日ケーキだよ?がくぽがおいしく食べられるのが前提だもん」
きっぱりと言い切られる。
おそらく家族にしてもカイトのこの姿勢については理解しているだろうから、ブーイングが出はしないのだろう。
カイトはわずかに濡れた指先を口に運び、もうクリームの残っていないそれをぺろりと舐めた。
「でもまだ、がくぽには甘い気がするんだよね。もう少し控えたほうが良かったかなあって。とはいえ、あんまりお砂糖減らしちゃうと、今度はうまくホイップできないし……」
真剣に検討していたカイトが、返答のないがくぽにようやく気がつく。
ホイップクリームを眺めていた視線をがくぽに流し、きょとりと瞳を見張った。
「…がくぽ?」
「…」
どういうわけか、がくぽの顔が真っ赤だ。その表情は、怒っているような、戸惑っているような。
「え、クリーム、そんなに」
「違うわ!」
カイトの言葉を途中で遮り、がくぽは憤然として流しを指差した。
「まずは手を洗え!」
「ええ?」
いきなり怒られるわけがわからない。
戸惑いながらも、カイトは素直に流しへ行き、手を洗った。
がくぽはよろよろとダイニングテーブルのほうへ歩いていき、落ちるように椅子に腰かける。
眉間を揉んで、高速でなにかをつぶやく、その癖は、なにか対処に困ったことが起こったときの。
「がくぽ、クリームそんなにだめなんだったら」
「だから、違うと言うておる」
手を拭いて傍に行ったカイトに、がくぽはどこか諦めたように答えた。
がくぽが舐めた指を、ごく自然に舐めたカイト。
その仕種に、どうしようもなく煽られただけだとか、どう説明しろと。
という以前に、ひとが舐めた指先をそうも躊躇いもなく口にするカイトの、おそらく本人はまったく意識していない行動なのだろう、それが悔しいと思う自分の思考回路の入り組みさ加減が理解不能だ。
どっと疲れ果てたがくぽを、カイトは心細げに見つめている。
所詮カイトだ。
どうせカイトだ。
カイトに対して幾重にも失礼な考え方で気を落ち着け、がくぽは顔を上げた。
「クリームのことは気にするな。下地のレアチーズが大分、レモンを利かせていたであろう。一切れくらいなら、問題なく食せる」
「…」
そう言ってやってすら、まだ、疑わしそうに、心配そうにしているカイトに、がくぽはひどく苦労して微笑んだ。
「ほんとうだ。こんなことで嘘など言わぬ。せっかくの誕生日ケーキなのだぞ?」
「…ん」
そこまで言ってようやく、不承不承な感じで頷いたカイトの腰を、がくぽは軽く叩いた。
「それより、良いのか、放っておいても。あまり暑い中に出しておくと、クリームが溶けないか」
「あ、やば!」
カイトが慌ててキッチンへと戻る。その背を見送り、がくぽは小さく肩を落とした。
「まこと、貴殿のやること為すことといったら……」
駆動系が灼き切れそうだ。
つぶやいてから、自分で首を傾げた。
なぜ、これほどこころ騒がせられるのだろう。嫌悪するでもなく、むしろその反対の感情で、こころが泡立ち、掻き毟られる。
カイトに対してだけ。
この感情は――
「がくぽ!クリームの香りづけね、ラムとバニラ、どっちがいいかな!」
真剣な顔でラムの小瓶とバニラエッセンスの小瓶をかざすカイトに、がくぽは軽く瞳を見張った。
なにを考えていただろう。
しばし黙ってから、立ち上がると再びカイトの傍へと行った。
「カイト殿はバニラが良いのではないか?」
「俺じゃないの、がくぽなの!」
カイトは真剣に叫ぶ。
傍らに立つと、バニラが甘く香る。今日もまた、カイトはお気に入りの香水をつけているらしい。
わずかに身を屈めてその香りを愉しみ、がくぽはくちびるを歪めた。
「そうだな、どちらが良いか…」