久しぶりに仕事場から家へと帰ってきたマスターは、大きな段ボール箱を二つ抱えていた。

あのひ、きみとみた01-

「やほーみなさーん」

段ボール箱二つを重ねてよたよたとリビングへと運んできたマスターの元へ素早く歩み寄り、がくぽは重そうなそれを取り上げた。

「およ、がくぽさん」

きょとんとするマスターに、渋面をつくる。

「転びでもしたらどうする。こういうときは男手を呼べ」

きびきびと言うと、マスターは見ているほうが情けなくなるような怪しい笑顔になった。

「そんなにやわじゃないんですよぉ。これでいて、マスターは力持ちなのです。ね、カイトさん」

声を掛けた先が、ソファから立ち上がりかけた中途半端な姿勢で固まっているカイトだ。どうやら、マスターの元へ行こうとしたものの、がくぽが先を越してしまったらしい。

おっとりぽややんとしていても、一応そういうことに気は回るのかと、がくぽは少しだけカイトの評価を上方修正した。

結局おっとりしていて反応が鈍いから、おそらく間に合わないだろうとかいろいろマイナス点はあるが、心がけがあるだけ違う。

「うん、力持ちだけど…俺、お手伝いするの好きだよ?」

きちんと立ち上がると、がくぽの傍へと歩み寄りながら、カイトがぽやぽや笑う。マスターも笑って、きれいに撫でつけられた青い髪へと手を伸ばすと、くしゃくしゃと掻き回した。

「知ってます。今度はお願いしますね。でも今回は、みなさんへのプレゼントなので、私が運びたかったんですよ」

「まーすーたーっ!!」

そこまで言ったところで、レンと対戦ゲームに熱中していたリンがマスターの胸へと飛びこむ。

「ねえねえ、もしかしてもしかしてっ?」

「もしかしてもしかするの、マスター?」

背中からはミクがにゅ、と顔を出し、わくわくとがくぽの持つ段ボールを眺める。

「はい、もしかします」

なぞ会話を成立させて、マスターが笑う。リンの頭を撫でると、段ボールをローテーブルに置くように指示した。

言われるままに、がくぽはソファの前にあるローテーブルへと段ボールを運び、置く。

「あらあら、今度はなにを企んでいるの」

ひとり悠然とソファに座っていたメイコが、楽しそうに段ボールを眺めた。

リンとミクをくっつけたマスターは器用にテーブルまで来ると、繊細さの欠片もなくガムテープを剥がし、蓋を開いた。

「じゃーん。今年の新作浴衣、ロイドバージョンでーす!」

「「きゃーーーーっっ!!」」

妹たちが声を揃えて歓声を上げる。座ったマスターの頭上でハイタッチを交わし、それから興味津々の顔で段ボールを覗きこんだ。

マスターはやはり繊細さの破片すら見せずにもうひと箱のガムテープを剥がす。

「こっちが女の子用で、こっちが男の子用です。早速、今夜の夏祭りに着ていきますよ!」

「やったあ、夏祭り!!」

「待ってまって、リンちゃんまず浴衣確かめないとマスター、ボク今年、狙ってたやつあるんだけど、それ買ってくれた?!」

「あたしはオーソドックスなのがいいわ。変なの買ったりしてたら、マスターごと段ボールに詰めて叩き返すわよ」

かしましい女性陣に、がくぽはローテーブルから二歩三歩と離れていく。

パワーが物凄すぎてついていける気がしない。

たかが浴衣一着二着で、どうしてこうもパワー全開になるのだろう。

「あ、カイトさん、がくぽさん、レンさん三人のはこれとりあえず、ひとり三種類ずつ用意しましたから、気に入ったのを選んでください気に入らなかったら、マスターごと返品しますから!」

「マスターごと返品してどうする」

かしましい女性陣の相手の合間を縫って、男性用の段ボール箱を投げたマスターに小さくツッコみ、がくぽはカイトとレンと共にリビングの隅へ行った。

「どうしてこれくらいでああも騒がしくなるんだよ」

レンが忌々しそうに腐し、「Sサイズ」の文字もきらきらしい浴衣を取り出す。

「えー、なに言ってるの、レンくんおしゃれって大事だよ。妥協しない女の子たちは偉いと思うけどなあ」

「…にぃちゃんは心が広いよ、わかってるよ……」

Mサイズの浴衣を取り出しながらおっとりたしなめた兄に、レンはがっくりと肩を落とす。

姉妹に囲まれた男の子というものは、えてして女性に対する幻想を端から打ち砕かれてみじめなものだ。しかしたまには、カイトのようなどこまでも鷹揚な男性も存在する。

「確かに心は広いな」

がくぽがつぶやきながらLサイズを取り出し、視線を感じて顔を上げた。

レンとカイトが、揃って驚いたようにがくぽを見つめている。

「…どうした」

いやな予感に顔をしかめて訊くと、カイトは曖昧に笑い、レンはずばっと言った。

「がくぽがにぃちゃん褒めるとは思わなかった」

「…」

なんだと思われているのだ。

だが、むっとしたがくぽがなにかを言い返すより前に、レンへと黄色い弾丸が突っこんで来る。

「レンこっち来てあたしと浴衣の柄合わせるの!」

「あああ?やだよ、適当に好きなの着ろよ!」

「なに言ってるのよ適当なんてだめに決まってるでしょレンとお揃いがいいの!」

「って、リンとお揃いにしたら、俺が…」

年頃の男の子の複雑な事情はいつもどおりさっぱり加味されることなく、レンは女性の戦場へと引きずられていった。

気の毒に、と心の中で目頭を押さえ、がくぽはレンを見送った。屍を拾ってやるつもりはないが、合掌くらいはしてやろうと決める。

そのがくぽの袖が、ちょんちょん、と引かれた。

「…?」

なんだ、と見下ろすと、カイトが小首を傾げてがくぽを見つめている。

いつもおっとりぽややんと緩んでいる瞳が、珍しくも緊張を宿して揺れていた。

「どうした」

女性陣の喧噪に負けぬよう、しかし刺激することもないよう、気をつけながら訊いたがくぽの耳元に、カイトはくちびるを寄せた。

「あのね、がくぽ。がくぽって、浴衣の着付け、できる?」

「…」

訊かれて、ツールを検索する。

がくぽのボディスーツは着物を元にデザインされてはいるが、着物とはまったく異なる。だから彼が普段、着替えられることと、着物の着付けができることはまったく別だ。

別だが、がくぽのツールの中には着物の着付け方が収まっていた。無駄な遊びにもっとも力を入れるラボらしい知識の詰め込み方だ。

「できる」

答えたがくぽの耳に、カイトはますますくちびるを寄せる。

「じゃあ、あのね…。俺に、浴衣、着せてくれない?」

「…」

一瞬、黙りこんだがくぽの顔を覗きこんで、カイトは瞳をゆらゆらと揺らす。

「だめ?」

「いや」

断る理由もない。

ほとんど反射だけで頷いたがくぽに、カイトは花が綻ぶような笑みを浮かべた。

***

女の子たちがいるリビングでいきなり裸になるわけにもいかない。

がくぽとカイトはとりあえず浴衣を持って、がくぽの部屋へと上がった。

「貴殿は、着物を着るのは初めてなのか?」

ボディスーツを脱ぐカイトを傍らに、選んだ浴衣を広げて頭の中の資料を漁りながら、がくぽは黙っているのも気詰まりで訊いた。

「初めてじゃない、かな。毎年、二、三回は夏祭りに行ってるっぽいし、そのときは毎回、浴衣着てるはず、だし…。お正月にも、略式だけど着物着て、初詣に行ったしね」

ひどく曖昧不明瞭な言葉に、がくぽは眉をひそめる。

「では、着付けはいつも誰が?」

「マスター。はい、脱いだよ。そしたらえっと…どうするの?」

「ああ」

顔を上げると、すぐそばに下着一枚の姿になったカイトがいた。

男同士だから恥ずかしがられても気まずいのだが、あまりに堂々とされていても対処に困る。

一瞬、どこに目をやったらいいか悩み、それから自分の思考のばかばかしさに頭を振った。

「紺地ゆえな、透けもしない。肌着はいいだろう。このまま、直接羽織れ」

「うん」

素直に頷き、カイトは選んだ浴衣を羽織る。

紺地に、鮮やかな朝顔の咲いた柄だ。正直、男性柄かと首を傾げるが、製作者はラボ、着用者はロイドだ。男性柄でも、これくらい派手なのが普通なのだろう。

ロイドは日に焼けない。その肌はぬめるように白いのがほとんどだ。

紺地の着物を羽織ると、その肌の白さはますます際立つように見えて、がくぽは軽く目を眇めた。

「おっきくない?」

裾をずるずると引きずってしまい、カイトが不安そうに訊く。

「これは裾上げして着るから問題ない。…それだけ着ていても、覚えぬものか?」

ほんとうに羽織っただけのカイトの背中心を合わせてやり、衣紋を抜きながら、がくぽはわずかに呆れたように訊く。

カイトは悪びれもせずに笑った。

「忘れちゃうんだよ」

「然もありなん」

カイトらしいと頷いて、がくぽは腕を上げさせると、丈を合わせた。丈を決めると、端折った布地を一時的にカイトに持たせる。

「だから、毎回マスターに着せてもらってるんだけど…」

「まあ、マスターは女性ゆえな。男の貴殿では頼みづらかろうな」

「そうじゃなくて」

それくらいの恥じらいはあるのか、と失礼な感想で締めくくろうとしたがくぽに、カイトが苦笑する。

「みんな、覚えないから」

「…みんな?」

いやな予感がして、がくぽは顔を上げ、カイトを見る。カイトは困ったように首を傾げ、頷いた。

「めーちゃんは仕方ないとしても、ミクもリンちゃんもレンくんも、みんな。マスターに着せてもらいたくて、わざと覚えないんだよ。だから、マスターが忙しくてさ」

「…なにゆえだ?」

その行動が理解不能で、がくぽは眉をひそめる。

メイコとカイトが覚えたがらない理由はなんとなくわかる。旧型機の彼らは新型機に比べるとメモリが少ない。覚えることを取捨選択するだろう。

だが、新型機のミクやリンレンは、今さら着付けのひとつふたつ覚えたところで、大した負担にはならないはずだ。

理解が及ばない、とはっきり顔に表したがくぽに、カイトがおっとり笑った。

「甘えたいんだよ」

「…?」

「だから、マスターに…」

珍しく察しの悪いがくぽに、カイトは穏やかに言う。

「ほら、マスターっていつも仕事で忙しくて、たまに帰ってきても、疲れてて休ませてあげなくちゃでさ。あんまり構ってもらえないでしょうもちろん、マスターが俺たちのために忙しいのはわかってるから、それが悪いって言うんじゃないんだけど…。でも、それとこれとは別にして、やっぱり構ってほしいから。こうやって、着物の着付けなんていう、ちょっとしたことでも、ミクたちは覚えてひとりでできちゃわないようにするんだよ。マスターも、わかってるからね。覚えなさい、なんて絶対言わないし、着付けるの、いやだとか言ったりしないんだ。ちゃんと甘えさせてくれるの」

カイトの声はどこか誇らしげでもあり、寂しげでもある。

腰紐を回しながら、がくぽはカイトから顔を逸らした。

「それなら、貴殿だとて…」

「俺が覚えないのは、忘れちゃうからだってば」

明るく打ち消して、カイトは跪くがくぽの髪をいたずらに引っ張った。

「甘えたくて、覚えないわけじゃないんだよ。うっかり忘れちゃうだけだから…。俺はできれば、マスターにはもっとゆっくりしてほしいんだ。もっとゆっくりして、…」

いたずらを止めさせるために、がくぽは首を振ってカイトの手を払う。だが、カイトはしつこくがくぽの髪を引っ張り、弄んだ。

「これ」

顔を上げたがくぽに、カイトが向けた笑みは泣きそうに見えた。

「カイト殿?」

「ごめんね」

そんな顔で謝られる意味がわからない。

花色の瞳を見張って凝固するがくぽの頬を、カイトはやわらかに撫でた。

「そんなの、がくぽもいっしょだよね…。それなのに、俺の着付けなんか頼んじゃって、ごめんね」

「…」

言われて、考えもしなかったことに驚く。

しばしカイトを見つめて、それから腰紐をきゅ、ときつく引いた。

「ぅわ」

カイトが小さく悲鳴を上げる。がくぽは忍び笑い、いたずらに瞳を輝かせてカイトを見上げた。

「無駄な思案だ。どのみち、マスターに着付けなど頼む気はなかったしな。貴殿ひとり着付けるのが増えたところで、大した手間とも思わん」

「…でも」

瞳を揺らがせるカイトに笑いかけて、がくぽはきつくし過ぎた腰紐を適度に緩め、巻いていく。寄った皺を伸ばし、きれいに整えた。

「俺はな…俺は」

言葉にしようとして、その言葉が意外で、けれどひどく納得がいって、がくぽは自分で頷いた。

「甘やかされるより、甘やかすほうが好きなのだ。好きなひとであればあるだけ、甘やかしたくなる」

「…」

おとなしくがくぽの手つきを眺めていたカイトが、わずかに黙りこみ。

「じゃあ、マスターのこと、甘やかしたいって思うんだ」

意外過ぎることを聞いたかのようにつぶやかれて、しかしがくぽは、否、と首を振った。

「マスターを甘やかしたいとは思わぬな。マスターとは、甘やかす対象ではあるまい」

あれは甘やかすとどこまでも図に乗りそうで怖いしな、とは心の中だけでつぶやく。

カイトは戸惑ったように足を踏み鳴らした。

「これ、おとなしうしておけ」

「だって、さっきだって…。すぐに荷物取りに行ってあげて」

さっき、と言われて、呆れて肩を竦めた。

「あれは嗜みの程度だ。甘やかす甘やかさぬ以前にマスターは女性で俺は男子ゆえ。それくらいの常識はある」

ハグやキスの習慣はないが、と言外に匂わせて、がくぽはカイトを見上げる。なぜか不安そうな表情のカイトに、出来る限り穏やかに微笑みかけた。

「貴殿だとて、向かおうとしていただろう。成人した男子なら、だれもが持っていて当然の嗜みだ」

男子ではあっても、レンがさっぱり動こうとしていなかったことを思いだし、この場にいないにも関わらず貶めておいたがくぽに、カイトが小さく吹き出す。

今頃、女性陣に良いようにおもちゃにされているであろうおとうとは、どこまでも不憫でかわいい。

「悪かったな」

唐突に謝ったがくぽを、カイトは不思議そうに見返した。

「なにが?」

無邪気に訊かれて、がくぽは俯く。正面切って言うのは、礼儀に反するような気もした。

「貴殿の役割を取ったのだろう」

ソファから中途半端に立ち上がったカイトの、微妙な表情。

あのとき、がくぽは深く考えもせずに動いたが、がくぽが来るまで、きっと「男手」はカイトの重要な役割だったはずだ。

ロイドにとって、「役割」はひどく重い意味を持つ。

買われてマスターができたそのときから、自分の存在意義を探し続けるロイドは、己が見出した役割に固執する傾向があった。

ただ、無邪気に愛情を受けているだけがロイドではないのだ。

そのために払う努力は人間などには考えもつかないほどだし、それは同じロイドであるがくぽには痛いほどにわかることだった。

黙々と着付けていくがくぽの頭を、カイトはさらりと撫でた。

「かっこよかったよ、がくぽ」

その一言で、自分が受けたであろう衝撃も、揺らいだであろう自我もなにもかも、水に流してしまう。

がくぽはなんとも言えずに、ただ首を振った。

鷹揚な言葉に甘えてはいけない。

カイトが、ただおっとりぽややんとしているだけでなく、これでいて繊細にさまざまなことを見ているとわかっている以上。

頑なながくぽの髪を、カイトは軽く引っ張った。

「かっこよかったったら…」

つぶやくカイトを後ろ向きにさせ、帯を締める。どう結ぼうかと考えるがくぽを腰を捻って振り返り、カイトはふわふわと微笑んだ。

「俺、がくぽに甘えることにしようかなあ」

「…なに?」

思わずまじまじと見つめたがくぽに、カイトは明るく言う。

「だってがくぽ、甘やかすの好きなんでしょうだから、俺、甘えようかなって。俺も、マスターに甘えるのは違う感じだし。でも、甘えたいときだってあるからさ」

「…」

それが、先輩の出した、がくぽの罪悪感の融和案だというのは、聡いがくぽにはすぐわかった。

がくぽがカイトの役割を侵害したところで、怒ったりはしない。その代わり、…。

どこまでもがくぽのためでしかない案だが、それが彼の自然なのだということもわかる。

がくぽはカイトの背を叩いて前を向かせると、肩を竦めた。

「せいぜい、甘やかしてやろう」

「うん」

うれしそうに頷き、懲りもせずにカイトはもう一度振り返った。

「俺も、がくぽのこと甘やかしてあげるからね。甘えたくなったら、どんと甘えてね!」

「…」

蕩けそうな笑顔でそんなことを言う。

がくぽはしばしそれに見惚れて、それから、怖い顔をつくってカイトを前へと向かせる。

「とりあえず、おとなしうしておけ。あと少しゆえ」

「うん」

カイトは素直に前を向く。

おとなしくなったところで帯を締め終わると、もう一度裾や腰回りの皺を伸ばしてやり、きれいに形を整えた。

ぽん、と足を叩く。

「終いだ」

「ありがとう」

言葉とともに、振り返ったカイトの顔が近づいてくる。感謝をしたらキスが降ってくるのは、どうしようもない習慣だ。

挨拶のキスの習慣がないがくぽは強張った顔でそれを受け、小さく肩を落とす。

嫌だというわけではないがどうにもいたたまれない。どうにかならないかと思うが、カイトにどうにもする気がないからどうにもならない。

「がくぽが浴衣着たら、俺が髪の毛結ってあげるね」

「なに?」

楽しそうに言われて、がくぽは顔をしかめる。そのがくぽに、カイトは子供のように胸を張った。

「これでも上手なんだよ。ミクの髪とか、結構弄ってるから。頼りにしてよ」

自信満々で言われ、がくぽは肩を竦める。

おしゃれに万事うるさい妹の髪を弄っているなら、そこそこの腕前だろう。

それに、頼ってやるのもひとつの「役割」だ。

「楽しみにしていよう」

応えたがくぽに、カイトは夜空に咲く花火よりきれいな笑顔を閃かせた。