あのひ、きみとみた02‐

「…っと、そっか。忘れてた」

「ん?」

無事に浴衣に着替え、がくぽの部屋の姿見の前でくるくる回っていたカイトが、ふいに声を上げる。

器用に自分の帯を結び終わったがくぽは、顔を上げてカイトを見た。

「どうした」

「足。つめ」

言いながら、カイトは立ったまま、危なっかしく片足を上げる。

形のよいきれいな爪先には、手指と同じ青色のペディキュアが塗られている。

人を選ぶ色合いだが、カイトの抜けるように白い肌には奇妙に合っていて、そこだけ見ると別世界に連れて行かれそうな感じがある。

「浴衣なら、草履だよね。足袋とか履かないで、素足で。ちゃんと塗り直さないと。最近、靴ばっかりだったから、手抜きなんだ」

「ああ…」

手抜き、と言っても、剥げかけているわけでもない。色はきれいに乗っている。

「がくぽは?」

「俺も普段、長靴ゆえな」

訊かれて、がくぽは自分の足を見下ろした。

がくぽの爪先もまた、人を選ぶ紫色だ。

色はきれいに乗っている。それもそのはずで、つい二、三日前に塗り直したばかりだ。

たとえブーツに隠れて見えないとはいえ、そういうところで手を抜きはしないのだ。

「…これではだめか?」

「だめだよ」

わずかに足を差し出して見せたがくぽに、珍しくも強気な態度でカイトが言い切った。

「足出すんだよ。きちんとそれ用に塗らないとだめ」

「…」

良くも悪くも、カイトはプロフェッショナルだ。自分たちが「見られる」職種であることを常に意識して行動する。こういうときには、おっとりさんとも思えないこだわりようを発揮するのだ。

胸を張って強気に言い切ってから、カイトはいつもどおり、ふややん、と笑った。

「そだ。早速、がくぽのこと甘やかしてあげる!」

「…なんだ?」

甘やかしてあげる、の言葉に、反射で寒気が走りながら訊き返したがくぽに、カイトは得意そうにそっくり返った。

「俺が塗ってあげるよ任せて、結構得意だからちょっと待っててね、部屋から道具取ってくる!」

「って、待て、カイト殿…っ」

がくぽの返事も聞かず、カイトはさっさと部屋から飛び出して行った。

カイトの爪を見る限り、確かに不得意とは言わないだろうが、がくぽだとて別に不得意というわけではない。

がくぽが逡巡している間に、カイトは両手いっぱいにグッズを抱えて戻ってきた。

「はい、足出して足」

畳の上に無造作に道具を放り出しながら、きらきら輝く瞳で言う。

やる気満々だ。

断るのもかわいそうな気がして、がくぽは諦めた。なにより、ついさっきの約束もある。

「だが待て。足を洗ってくる」

「え、なんで」

除光液を手に不思議そうな表情を晒すカイトに、がくぽは肩をそびやかせた。

「濯ぎもしないで、他人の足など触るな」

***

「がくぽ、くすぐったくない?」

「ああ」

畳に座って差し出されたがくぽの足を取り、カイトは丁寧に施術していく。

自分のをやるのは慣れていても、いざ他人のをやろうとすると戸惑ったりするものだが、そういう感じはない。

「レンくんはね、ちょっと触るとこが悪いと、すぐ悲鳴上げて蹴っ飛ばすんだよ。それで何回、リンちゃんとケンカになったことか」

「ああ」

あのおとうとならありそうだ、とがくぽは頷く。

それから、慣れた様子のカイトに首を傾げた。

「貴殿も、蹴っ飛ばされたことが?」

「うん。蹴られたとこが悪くって、気絶しちゃった。そのときはさすがに、レンくんも平謝りだった」

「ああ…」

暴れ回る少年の爪を塗ることを考えれば、おとなしいがくぽの爪を塗るのなど容易いだろう。

納得しながら、がくぽは畳の上を見た。

爪の手入れ道具ならがくぽも一通り持っているが、カイトの持ってきたものは量が違う。

手を伸ばしてメーカを確認してみると、そこそこ名の知れたブランドだ。安物を大量に買っているわけでもないらしい。

「これは、貴殿が?」

「んああ、うん。ミクとかスタッフさんに教えてもらって、良かったやつは集めてる。ほら、だって、一口に『青』っていったって、メーカとかブランドとかによって、微妙に違うでしょ確かに気に入った一品を使うのもいいかもしれないけど、季節とか仕事とかによって、やっぱり求めるものって変わるから」

「…ふうん」

身を飾る話になると、カイトは意外と真剣になる。

自分たちはボーカロイドで、「うたう」ものだが、同時に「見られる」ことを生業ともしている。そこに根差すプロ意識が、自然と顔を出すのだ。

そういう顔をつくったのも、あの、なににつけてもいい加減そうなマスターだと思えば、人間が不思議過ぎて理解できる気がまったくしない。

いつもおっとりぽややんとしていて、どうにもこうにも抜けている彼のことを尊敬できるかというと微妙だが、こういう顔をしているときは、やはり先輩なのだと思う。

別にカイトは気にしないだろうが、じっと見ているのも変な気がして、がくぽはカイトが持ちこんだグッズを手に取ってはひとつひとつ眺めていった。

青系が多いのは確かだが、ほかの色もかなり充実している。単純にカラーだけでなく、ストーンやホログラムもある。

とはいえ十指も塗るとなると、たとえプロでも時間がかかる。

珍しくもてきぱきと動くカイトだったが、やはり暇な時間は出来てしまう。

手持無沙汰になってカイトの手元を見たがくぽは、わずかに瞳を見張った。

「そこまでするのか?」

「するよ」

あたりまえでしょ、とでも続きそうなくらい平然と、カイトは答えた。

がくぽとしては、ちょっとラメでも振ればいいか、くらいに考えていたのだが、カイトは、基本の紫にシルバーを混ぜてマーブル模様にし、ストーンまで乗せている。

時間もかかるわけだが、いくら自分がボーカロイドとはいえ、男性体にここまでするのはどうだろうと考えてしまうつくり込みだ。

自分がその持ち主だということを除けば、仕上がりはきれいなものだ。姉妹たちなら、黄色い声を上げて歓ぶだろう。

「ほんとは浴衣の柄に合わせた絵ぇ描こうと思ったんだけどねえ…。それだと、さすがに俺のをやる時間がなくなるんだよね…」

「貴殿、どういうスキルの持ち主だ……」

がくぽは呆れて肩を落とした。それとも、自分も勉強して、それくらいできるようにならなければいけないのだろうか。

「ん、よく言うでしょ。好きこそもののあはれなれって」

「あはれんでどうする。上手なれ、だろう」

「そうだっけ。でも、マスターはそう言うよ」

それが本気か邪気かは見当もつかない。邪気ばかりかと思うマスターは、ごく頻繁に天然で阿呆発言をくり出す。

返答に詰まったがくぽの足を一際高く持ち上げて、カイトはじっと眺めた。

「ん、よしっ」

「っ」

満足いく仕上がりになったのだろう。素敵笑顔を浮かべると、カイトはがくぽの足の甲に音を立ててキスした。

がくぽの中で、いくつか回路がぶち切れるいやな音がした。

と、少なくともがくぽは思った。

「カイト殿あし、足に、っ」

「だってさっき洗ってたでしょ、がくぽ!」

だから汚くない!

先回りして言ったカイトに、がくぽは回路が灼き切れそうになる。

そういう問題ではない。

そういう問題ではないのだ!

「カイト殿…っ」

「あれ?」

お説教モードに移行したがくぽの背負う暗雲を察知したのだろう。カイトが無邪気な瞳を見張って、わずかに後ろに下がる。

それを追おうとしたがくぽが足を無造作に動かすのに、今度はカイトが悲鳴を上げた。

「ちょ、がくぽ絶対安静まだ動いちゃだめ!!」

「っ!」

かん高い悲鳴に、がくぽも我に返って動きを止める。慌てて爪先を確認すれば、どうにかこうにかカイトの傑作は無事だった。

「…っぶな~……!」

「…それというのもこれというのも、貴殿が…」

「ええー…うんまあいいや。ごめんね?」

「…」

そう簡単に謝られると、気持ちの持って行き場がない。

肩を落とすと、がくぽは足を伸ばして座った。

厳粛な顔をつくり、反省したようにしゅんとした表情を晒すカイトを見る。

「とりあえず、俺が言いたいことはな」

「うん」

「貴殿も早く、やってしまえ。乾かす間がなくなる」

「…」

できることならお返しにやってあげられればいいのだろうが、自分の足を見るだに、これだけのものを作れる知識もスキルもない。

きょとんとした顔でがくぽを見たカイトは、ややしてうれしそうに笑うと頷いた。

「うん、じゃ」

「待て」

道具をまとめて出て行こうとするのを、引き留める。

「見ていたい」

「…」

言うのには盛大な勇気が要った。

だが、これだけのスキルを持つものが身近にいるのだ。またとない勉強の機会になる。

がくぽの意図など正確には掴めないだろうが、カイトはきまじめな言葉をからかったり弄んだりするような性格ではなかった。

「んじゃ、ちょっとはりきっちゃうからね!」

道具を置くと、ぺたんと畳に座った。

楽しそうに道具を閃かせるカイトの傍に、がくぽは爪を気にしながら近づいた。躊躇いない手元を覗きこむ。

「派手につくれよ」

「ん。任せて」

自分ばかり派手にされては堪らない、と釘を刺したがくぽにも、カイトは無邪気に応じる。

選ばれていく道具を一通り見て、どうやら大丈夫そうだと安堵し、がくぽは肩の力を抜いた。

「あと、暇ゆえな。話を聞け」

「うん?」

「よいか、貴殿にとってキスがどれだけ…」

「…うーわー……」

回避できたと思ったお説教がさっぱり回避できていなかった現実に、カイトは小さく悲鳴を上げた。