走ってくる、子供を避けようとした。
実は周囲から見るほどには、どん臭くない。
避けられる。
確かに、避けた。
「……っあっ」
小さい悲鳴をこぼして、カイトはうずくまった。
あのひ、きみとみた03‐火花夢
ふと傍らを見ると、カイトの姿がなかった。
その瞬間、こころを掠めたのは、「しまった」という、自分を責める言葉。
まさか、はぐれるようなことになるとは――
「カイト殿」
もしかしたら近くにいるかもしれないと思って、声を上げる。
喧噪に掻き消された。
現在、夏祭り会場だ。
夜の八時も過ぎて昼間の暑さがやわらぐと、人出はどっと増えた。出店はどれも人だかりが出来ているし、ただ流すだけでも大変だ。
実のところ、お祭りにはしゃいだ弟妹たちとはとっくにはぐれている。それも、会場に着いた瞬間に。
とはいえ、あまり心配はしない。
近所の商店街が毎年開いている夏祭りは、つまり、がくぽにとっては初めてでも、ほかの家族にとっては馴染みの行事。
なにより、近所の商店街には行きつけているから、たとえはぐれても個々人で家に帰れる。
それでも、カイトのことが気にかかるのは。
「がくぽさん?」
古式ゆかしいキツネ面を顔の半分に被ったマスターが、立ち止まって忙しなく辺りを見回すがくぽに声を掛ける。
ちなみに、ロイドには華々しい浴衣を渡した彼女の恰好は、紺絣の甚平だ。いや、別に言いたいことはない。
「どうしました?」
メイコの浴衣の裾を掴んで、人ごみを掻き分けてやって来たマスターに、がくぽは困惑した表情を向ける。
「カイト殿が……」
「おや」
それだけで事態を察して、マスターは傍らのメイコを見やる。メイコのほうはすでに、辺りをきょろきょろと見回していた。
「………まずいわね」
メイコは眉をひそめてつぶやく。
喧噪に掻き消されて声は聞こえないものの、くちびるの動きでそうと読んで、がくぽもくちびるを引き結んだ。
ミクとリン、それにレンはいい。
ずっと年下の彼らは、しかし、こういう場合においてとても大切な素養を持っていた。
人ごみを掻き分けて進みたい方向に進むという、ゴウイング・マイウェイの能力が。
カイトは無理だ。
ひとりで放っておくと、流されるままに流されて、どこまでもどこまでもどんぶらこっこ、どんぶらこっこ…――親切なおばあさんに発見されて、拾われていればいいが。
「見当たりませんか」
自分で辺りを見回すことはなく、マスターはがくぽを見上げる。
この三人の中で、いちばん背が高いのはがくぽだ。当然のごとく、いちばん、周囲の状況が見える。
「見当たらぬ」
喧噪に負けないように言い返し、がくぽは不安に騒ぐ胸を押さえた。
なにか、とてもいやな感じがする。
「うーん」
唸って、マスターは腕を組む。ひとつふたつ首を捻ってから、顔の半分に掛けていたキツネ面を、きっちりと顔に嵌めた。
「マスター?」
「カイトさんカイトさん、びびびびー」
「………マスター…………?」
人差し指だけ立てた両手を顔の脇に当ててアンテナとなったマスターに、がくぽはくちびるを笑ませた。
くちびるだけ。
花色の瞳には苛烈な怒りを宿して、ふざけているとしか思えないマスターを睨む。
しかしお面越しのマスターは、とりあえず声だけは真剣だった。
「がくぽさんも。カイトさんの電波を受信してください」
「俺をなんの受容器だと思っておる。だいたいにしてカイト殿とて」
「いいから!」
お面越しで表情が見えないと、意外にマスターの声は切羽詰まって聞こえる。ただ、被っている面がキツネなので、化かされている気もするのだが。
「んー」
「………メイコ殿まで」
常に家長として毅然とした振る舞いを見せるメイコが、両のこめかみに人差し指を当てて、なにかの電波を受信しようとしているかのように、目を閉じて唸っている。
この人ごみの中で、そうやって無為に立ち尽くしているのは邪魔以外のなにものでもない。
必然的にがくぽは人波への防波堤となりながら、軽く目を眇めた。
――決して、なにかの電波を受信できるなどとは思わないが。
「………カイト殿」
つぶやきは小さく、自分の耳にすら届かない。
そのまま、がくぽの視線は宙を彷徨った。
「…………呼んでくれ」
ひとりきり――困っているならば。
――
「……」
ふ、と。
呼ばれた心地がして、がくぽは振り返る。
「あ、こっちな気がします」
「っ」
ほぼ同時にマスターが言って、がくぽが振り返ったのと同じ方向へ歩き出す。相変わらず、電波塔のまま。
「マスター」
「しーです、がくぽさん。集中しないと、カイトさんの電波を逃しちゃいますよ」
「………」
だから、いくらロイドが機械部品を持っていても、電波発信はしないと。
言いたいことはあっても、がくぽは口を噤んだ。
「こっち、こっちよね」
「そうね、こっちだわ」
女性二人は、ともに奇態な電波受信塔の姿でふらふら歩く。
いくら夏祭りで人が浮かれ騒いでいても、怪しいことこのうえない風体だ。
はらはらと交通整理をしながらも、がくぽは自然と、マスターたちに倣っていた。
「カイトの姿」を探すのではなく、そこから発されているであろう「救難信号」を探して瞳を彷徨わせる。
その視線が、はたと一点に吸いつけられた。
いったいなにが、と自分で自分に首を傾げて、はっとした。
人波に、垣間見えた色彩――
「カイト殿」
「見つけた!」
「発見ですね!」
がくぽが強引に人ごみを掻き分けだすのと同時に、女性陣も叫ぶ。
主に経験値の低さで苦戦するがくぽの前に立ち、マスターとメイコは他人のふりをしたくなるような強引さで人ごみを掻き分けて行った。
「カイト!」
「カイトさん!」
叫んで近づくと、店と店の隙間の石段にひっそりと座りこんでいたカイトが、ぱっと顔を上げた。
「ふやぁ」
気の抜けた声を上げて、瞼を擦る。
泣きべそを掻いていたらしいと察して、がくぽの胸が痛んだ。
気がつくのが遅れたがために、さびしい時間を与えてしまった。
愉しいだけのはずの夏祭りで――
「もう、あんたって子は……!」
「めーちゃぁん」
「ちょっと待って、メイコさん。カイトさん、足、どうかしましたか」
「マスタぁあ……」
心配を怒りに変えたメイコを制止して、マスターはカイトの足元に跪く。
顔に被っていたキツネ面をずらすと、視界を確保した。
ぐす、と洟を啜って、カイトは左の足首を撫でた。
「挫いてはいないと思うんだけど……」
「軽く捻ったくらいですか」
「うん。子供避けようとしたら、そこに隙間があって………バランス崩しちゃった」
「怪我をしたのか?!」
思わず叫んだがくぽを、カイトは涙目で見上げる。
マスターの傍らに跪いたがくぽは、差し出された足を見た。
暗いせいもあって特に変化らしい変化はわからないが、人間とは違う。ロイドだ。
「痛むのか」
「ちょっと……」
気忙しげに訊いたがくぽに、カイトは洟を啜りながら答える。
「どうなのよ?」
「そうねえ」
同じく心配顔で屈みこんだメイコの問いに、差し出された足を撫でていたマスターは、軽く首を捻った。
専門の医者ではないから、正確な診断は出来ない。それでも、やんちゃに跳ね回るロイドたちと、普段伊達に付き合っているわけではない。
「マスター……」
不安そうに呼ぶカイトに、マスターは顔を上げると微笑みかけた。
「大丈夫です。これくらいなら、一晩固定しておけば明日には良くなってますよ。足首がちょっと、びっくりしちゃっただけですからね。ラボに行くほどじゃありません」
「ふゃやぁ……」
気の抜けた声を漏らしたカイトの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
ようやく、ほんとうに気が抜けたらしい。
「う、ふぇ、ぐすっ、ぅえええ」
「よしよし。いたいのいたいのとんでけです。ね、だから大丈夫」
「よかったよぉおお………っ」
「はいです。ごめんなさい、カイトさん。こわい思いをしましたね」
「ふぇえええ」
泣きじゃくるカイトを、マスターは子供相手のように抱きしめてあやす。
傍らから、メイコも手を伸ばしてカイトの頭を撫でた。
ひとり、所在がないがくぽは、複雑な顔でその光景を眺めた。
ずっと家族として付き合ってきた彼らの間に、入れるときと入れないときがある。
もちろんそれは、家族が意識してがくぽを弾いている、というのではなく――がくぽが、その中に分け入ることが出来ないだけだ。
「よしよし…」
「ん、ぐすっ」
ややして泣き止んだカイトの背を軽く叩いて、マスターは離れた。
「落ち着きましたか?」
「ん」
穏やかな問いに、泣き腫らした顔のカイトが頷く。
「ごめんね、マスター………濡れちゃった」
びしょ濡れとなった甚平の胸元をつまんで、カイトは居心地悪そうに謝った。
マスターはそれを明るく笑い飛ばす。
「なんのなんのです。おとこのこの涙に濡れるなんて、マスターのおとこまえ度が上がった証拠です。勲章ですよ!」
「………ふひゃ」
がくぽからすると物凄く適当なことを言ったマスターに、カイトは笑う。
そのカイトの頭を撫でて、マスターはふと、傍らに膝をつくがくぽに視線を投げた。
「…」
「…」
「…」
「…っ」
無言で見合う数秒に耐えられず、先に目を逸らしたのはがくぽだ。
「…」
「マスター?」
訝しげな声を上げるメイコにちらりと視線を送ると、マスターは再びキツネ面で顔を覆った。
「さて、そういうわけで、今日の夏祭りはここまでです。おうちに帰って、手当をしなきゃいけませんからね。とりあえずがくぽさんに……」
「え、マスター!」
抗議の声を上げたのは、当のカイトだ。
当然だと頷くがくぽとメイコに困惑した視線を流し、キツネ面によって表情の隠れたマスターを不安げに見つめる。
「そんなの、俺だけ帰ればいいよ。マスターたちはまだ、ちゃんと楽しんでよ!」
「カイト殿」
思わず責める声を上げたがくぽの眼前に、マスターの手がひらりと舞う。そうやって言葉を止めて、マスターはキツネ面越しにカイトを見つめた。
「カイトさん、おひとりで帰ると言いますけど、その足で?」
「う…」
「この人ごみの中を、足を庇いながら、おひとりで歩いて帰ると?」
「うう………っ」
それが出来ないからこそ、こんな片隅にうずくまっていたのだ。
「無理だってわかりますよね」
「俺が負ぶう」
面越しで表情が見えないために、常より冷たく響くマスターの声に、音を上げたのはがくぽが先だった。
カイトが降参を告げる前に、身を乗り出す。
「家までくらい、貴殿を背負って歩ける。気にするな。夏祭りならもう、堪能した」
「え、マスターはまだ、堪能しきってません」
「マスター!」
カイトの負担を軽くしようとした言葉をあっさり打ち砕かれて、がくぽはマスターを睨む。
キツネ面はどこまでもひとを莫迦にしきった顔で、そんながくぽを見返した。
「カイトさんだって、堪能なんかしてませんよ。こんなふうな終わり方で、堪能しました、はい満足です、なんて、絶対嘘です」
「……それは」
言葉に詰まるがくぽから顔を逸らし、マスターはかわいらしく小首を傾げた。
キツネ面からこぼれる声は、笑っている。不思議なことにそうすると、無表情のはずの面が笑っているように見えた。
「だからね、カイトさん。今日はもう、お終いなんですけど、絶対今年中に、リベンジしましょうね。それで、今度は絶対、最後までいっぱい遊んで、夏祭りを堪能しきりましょう。つまり、そのリベンジのために、今、どうすることが必要かってことですけど」
そのマスターに、カイトは神妙な顔で答えた。
「早く帰って、早く手当して、早く治すこと」
「そうですね。じゃあ、なんと言えばいいでしょうか?」
促されて、カイトはがくぽを見た。両手を伸ばす。
「がくぽ、おんぶ!」
「…」
強請る声は、もういつもの通りに元気いっぱいだ。未だに顔は泣き腫らして痛々しいが、浮かぶ表情はずっと明るい。
「あのね、ごめんね、がくぽ。今日はこんなになっちゃったけど、今度はぜったい、いっぱい遊ぶからね。だから今日は、俺のことおんぶして、おうちに連れて帰って」
「………ああ」
謝ることなどない。
確かにカイトの失態かもしれないが、避けえない事故もある。なにより夏祭りを楽しみにしていたのはカイトのほうで、それなのに、このうえ謝ることなどないのだ。
けれどそうは言わず、がくぽはマスターに倣うことにした。
「この借りは、必ず返して貰うぞ」
「うん、任せて!」
笑って言ったがくぽに、カイトの返した笑顔は夜闇の中でもきらきらと輝いて明るかった。
責めたくはない。
それでも、取り繕った慰めの言葉では、いたたまれない。
先を約束して、今日の失敗を挽回するチャンスが欲しいのだ。
「めーちゃんも、ぜったいね!」
「あら」
笑顔を向けたカイトに、メイコは手を伸ばし、少し乱れている青い髪を梳いて整えてやった。
「じゃあ今度は、あっちの、真っ赤なハイビスカス柄を着られるわね。も、すっごく悩んだのよ」
「そうね。なかなか決まらなかったわね」
キツネ面の下で、マスターの声が笑っている。
メイコの浴衣の柄は、落ち着いた木槿の花柄だ。
だが、それぞれ系統の違う三種類が用意された中で、メイコは黄色地に真っ赤なハイビスカス柄の派手派手しいものと、今着ている大人淑やかなので、どちらにするかずいぶん悩んでいたのだ。
はしゃぐメイコに、カイトはまじめに頷く。
「めーちゃん、きっときれいだよ」
「もちろんよ」
謙遜と縁遠い姉妹は、自信満々に答える。
「今度は、あんたに爪を頼むわ。お揃いで、すっごく派手にして」
「任せて!」
笑って請け負ったカイトの頬を、メイコは軽くつまんで離れる。
「乗れるか?」
「ん、それくらいなら」
がくぽはカイトに背を向け、さらに腰を落とした。カイトは足を庇いながら、がくぽの背に被さる。
「きちんと掴まれよ」
「うん」
頷いて腕の力を強くしたカイトを支え、がくぽは注意深く立ち上がる。
「じゃ、帰りますかね」
「うん、帰る!」
マスターも立ち上がり、メイコとともにがくぽの前に立って歩き出した。
カイトを背負ったことで不自由になったがくぽのために、人ごみを掻き分けてくれているのだ。
後ろ姿を見る限り、マスターもメイコも楽しそうだ。時折振り向く顔は、取り繕ったものではない、こころからの明るい笑み。
無表情なはずのキツネ面ですら、笑い顔に見えるから、不思議だ。
笑い返しながら、カイトががくぽの耳にくちびるを寄せる。
「重くない?――って、重いよね」
「まあな」
下手な気を遣うことを止めて、がくぽは素直に頷く。カイトの体をゆすり上げて、笑った。
「だが、愉しい」
「ふや?」
「たのしい」
もう一度、つぶやく。
実際、人ごみは歩きにくく、人を背負ったままでは動きづらいことこのうえない。それも、小さな子供ならともかく、精神的なものはさておいても、体は大人だ。
けれど、背にカイトがいると思うだけで、やたらと愉しかった。重いことも、不自由であることも、伝わる体温も、縋る腕の力も――
カイトは足を怪我して、さびしい思いをして――かわいそうなことをしたと、痛切に思う。自分がついていながらなんたるざまかと、胸を占める悔しい思いは本物で、それでもなお。
「カイト殿」
「うん」
機嫌のいいがくぽの声に、背にいるカイトの声も穏やかだ。
「次は手を繋ぐか」
「…」
今日を反省したうえでリベンジを誓うがくぽの言葉に、カイトはわずかに黙りこみ。
「それ、ぜったい安心っていうんだよ!」
明るく笑って、ぎゅうっとしがみついてきた。