ふわり、と香る甘いにおい。
IMITATION MAKER
「……あれ?」
香らせたひとなど見なくてもわかっていて、それでもミクは顔を上げて確認した。
「♪」
やはりカイトだ。
弾む足取りで、ごく楽しそうにリビングを歩いている。
お気に入りの場所である、お日さまの差しこむ窓辺のクッションに座ると、小さくハミング。
「………………ゴキゲン、だよね……?」
見間違いようもなく、兄はゴキゲンだ。
ゴフキゲンのときにゴキゲンであるかのように振る舞うような天邪鬼な性格ではないから、ゴキゲンに見えたらゴキゲンで間違いない。
けれど。
「おーにーぃーちゃーん♪」
「ん?」
声を弾ませて、ミクは兄の傍らに行った。
ぺしょんと座ると、ふざけているかのように笑いながら顔を傾けて、カイトの肩に懐く。
「…」
やはり、香る。
この香りを、間違えたりはしない。
だれあろう、カイトにこの――男性用ではとてもない、甘いバニラの香りを贈ったのは、ミクとリンなのだから。
兄に合う香料を探して市販品を見て回ったけれど、しっくりくるものがなくて、調香師を紹介してもらって、――それはそれは、苦労して手に入れた逸品なのだ。
妹たちの、男性用としてはいかがなものかな贈り物を、この天然無邪気な兄も気に入ってくれた。
そして、気合いをいれたいときや、へこんだときなど、特に心機一転を図りたいときに限って、大事にだいじに使っていたのだ。
いわば、勝負服のようなものだ。
けれど、最近――ここずっと、カイトからはいつでもこの香りがしている。
特にイベントがあるわけでもなく、へこんでいる様すらないのに。
「どうしたの、ミク?」
香りより甘い声で、カイトはおっとりぽややんと訊く。
急に懐いてきた妹に、やさしく微笑んで首を傾げた。
ゴキゲンだ。
むしろ、ゴキゲン。
「あのね、おにぃちゃん…」
口を開いて、ミクは満足したねこのように目を細めた。自分の思いつきに、確信がある。
「………だれかに、いいにおいだねって、言われた?」
「え?」
唐突なミクの問いに、カイトはきょとんとする。
ミクは無邪気そうに笑って、カイトの耳たぶをつまんだ。
「だからさー、たとえば…」
たとえば、で浮かんだ名前にも確信があって、ミクはさらに微笑んだ。残念にも、邪気たっぷりに。
「たとえば、がっくんに。その香水、いーにおいだねって」
「…」
きょとんとしていたカイトの顔が、表情はそのままに、みるみるうちに赤くなっていく。確信して訊いたミクですら、思わず目を見張るほどに鮮やかに。
そもそも、このおっとりぽややんとした兄が赤くなるとか――意外にも肝が据わっていて、豪胆な兄が、恥じらうとか。
「…」
「…」
お互い、無言で見合うこと数秒。
「…えと……ああ、うん。えと、がくぽに、いーにおいだねって、言われたよ。俺らしい香りで、好きだって」
「へえ…」
カイトの反応にあんまりびっくりし過ぎて、咄嗟に応じきれなかった。
マヌケな相槌だけを返したミクに、カイトはいつものように微笑んで首を傾げる。まだ、頬に赤みを残して。
「それが、どうかした?」
「っけふふっ?!」
もしかして無意識?!
あまりに無邪気に訊き返されて、ミクはむせ返った。
これまで、だれがどんなに褒めても変えなかった――それこそ、あんなに信奉しているマスターに褒められてすら――スタイルを、あっさり変えてしまうほど気にしていながら、それがすべて無意識とか?!
残念な事実の裏付けで、カイトの様子は照れて誤魔化しているというふうでもない。
「ミク?!大丈夫?!」
だれのせいで、の兄が、心配そうに背をさすってくれる。
「だ、だいじょうぶ……っていうか……」
マスターの危惧もあながち大げさではないようだ。
放っておくとこの兄は、いつまでたっても自分の気持ちの変化に気がつかないまま。
――それはそれでおもしろい。
悪魔として鍛えられたミクの心に、そんな言葉が差しこまれる。
なにをどこまですれば兄が目覚めるのか、試すのはおもしろそうだ。
そして、その試練をがくぽがどう耐え抜くか見れば、彼がカイトを預けるに足る相手かどうかの判断もつく。
まさに一石二鳥のアイディアとはこのこと。
ミクはにっこり笑うと、心配そうな顔のカイトに抱きついた。
「ボクに任せておいて、おにぃちゃん!」
「ほええ?」
きょとんとするカイトの額に額をぶつけて勝手に誓約すると、ミクは跳ねるように立ち上がり、るんたったと弾む足取りでリビングから出た。
リンとこれからのことを相談しなければいけない。
兄はどこまでも鈍感だが、がくぽのほうは単に自分のこころを抑圧しているだけだ。
どうつつけばどうなるか、考えるだけでも愉しい。
「ボクたちからおにぃちゃんをとるんだからね。せいぜい、いいとこ見せてくれなきゃ♪」
つぶやくミクの笑顔は、がくぽが怯えるいつもどおりの邪悪さで、そしてわずかに寂しさを宿していた。