「ええっと………」
滅多に戸惑ったり、口ごもることのないマスターが、思いきり不審そうに首を傾げる。
「湯あたり、ですか」
「そうだと言うておる!」
「ええっと………」
徹夜続きの仕事から、ようやく解放されて家に帰って来てみたら、いつもは冷静沈着ながくぽが「マスターマスター」の大絶叫。
で、何事かと思ってリビングに駆けこんでみれば、カイトが湯あたりで倒れた、とか。
バスタイム・レンジャー
「……その、状況が飲みこめないわけですが、これは私が徹夜のし過ぎでボケているからでしょうか」
「マスター!」
「ちょっと落ち着けって言ってんのよ!!」
反応の鈍いマスターに非難の声を上げるがくぽの頭を、メイコの鉄拳が払っていく。
いつもならこれでおとなしくなるがくぽだが、今日は違う。メイコをきっと睨み上げる。
負けるメイコではなく、きりりと睨み返し、正しく竜虎の対決が実現した。
リビングの三人掛けのソファには、簡単に身支度を整えられたカイトが横たわっていた。
ミクとリンもやって来て、意識のない兄とマスターを心配そうに見比べる。
「マスター……」
か弱い少女たちの声が震えて呼ぶのに、マスターは相変わらず戸惑い顔で、頼りになる家長を見上げた。
「メイコさん」
「言っておくけど、お風呂の温度はいつもどおりよ。あんなぬるいお湯で湯あたりなんて、有り得ないわ!」
「だがカイトは、のぼせたと言っていたのだぞ!」
言い切るメイコに、がくぽが怒鳴り返す。
「じゃあなぁに、あんた!あたしがカイトが倒れるくらい、湯温を上げてたって言いたいの?!」
「そうは言わぬが、しかし!」
「まあ、のぼせたって、『なに』にのぼせたかって話ですよね、つまり」
そうでなくても手入れを怠っていてひどい状態の顔を、徹夜明けで休むこともできないせいでさらにひどいことにしながら、マスターがつぶやく。
「あのですね、だから状況が飲みこめないわけですよ。カイトさんはどういう状態で、なにがどうなって『のぼせた』って言ったんですか」
「そんなの、風呂に入っていたに決まっている!」
「いや、さすがに私が徹夜明けでイカレてても、それくらいの状況判断はできます」
「ではなんだ!」
苛々と訊くがくぽから顔を逸らし、マスターはメイコを見上げる。
「なにかどうも、お風呂にはがくぽさんとカイトさんが、いっしょに入っていたように聞こえるんだけど…」
「合ってるわよ」
頷いてから、メイコはわずかに気まずい顔になった。
「カイトとがくぽと、レンの三人よ。三人でびしょ濡れになって帰ってくるから、三人いっしょに風呂に叩きこんだわ」
「メイコさん……」
気まずい顔ではあっても強気に言いきったメイコを、マスターは眩しそうに見る。
「あなた、どれだけ勇者なの………!」
「だから、レンもよ!ふたりっきりでなんて入れてないわ!レンも入れて三人よ!」
「なおのこと勇者よ。それで、レンさんは?」
マスターの問いには、沈黙が返る。
姉妹三人が、今気がついた顔を見合わせ、視線はがくぽに集まった。
「風呂だ。――別に、変わりない。それより今は」
「ああ、ああ、ちょっと待ってください、がくぽさん。すみませんけど、リンさん。お風呂に行って、レンさんの安否確認をしてきてください」
「はぁい!!」
慌てて駆けて行く背を見送り、マスターは疲れだけでもない深いため息をついた。
「うちの女の子たちが、レンさんにスパルタなのはよく承知してますが…。あのね、メイコさん。あれでいてレンさんは多感な少年なの。もう少し、こう、情操的な気配りをしてあげて」
「レンがいるのよ。カイトだってがくぽだって、それで踏みとどまると思ったのよ!」
「いや、だから……カイトさんたちのことだけでなく、レンさんのことをもう少し」
メイコはますます気まずい顔でそっぽを向いた。マスターはちょっと言い過ぎたかもと考え、
「なんの話をしておる!」
「…」
苛々とした叫び声に、がっくりと肩を落とした。
マスターは瞳を閉じたままのカイトをちらりと見る。彼女の経験則から言うと、そろそろ頃合いだ。
「『のぼせた』んですよね?」
「そうだと言うておる!」
ようやく本題に入ったマスターに、がくぽは苛々と応じる。
そのがくぽに、マスターは大きく腕を振って、リビングの扉を指差した。
「だったら、そろそろ目が覚めます。というわけでがくぽさんは、アイスを取って来てください」
「………なに?」
こんなときにも悪ふざけかと瞳を険しくするがくぽを、マスターは眠気を堪えるせいで三白眼になりながら見返す。
「いいですか。『のぼせた』だけなら、そう騒がなくても、『冷めれば』目を覚まします。人間とは違うんですから。そしてここが肝心ですが……」
リビングの扉を指差したまま、マスターは大真面目に言った。
「のぼせたあとのアイスは、格別です!天にも昇る心地ですよ!カイトさんを悦ばせたくありませんか?」
「…」
乗せられているかもしれない、とは薄々思いつつも、その言葉には抗い難い魅力があった。
がくぽはわずかに躊躇い、カイトと扉を交互に見る。
マスターは折れかける腕を、ぴんと伸ばした。鞭のように撓らせて、扉を示す。
「さあ、がくぽさん!」
「…っ」
『マスター』の強い口調に、反射でがくぽが立ち上がる。後ろ髪を引かれながらも、リビングから出て行った。
「……さすが、マスター。うまい具合に追い出すもんだね」
「そんなに褒めたらだめよ、ミク。図に乗るわ」
「…」
ミクとメイコの会話にマスターは軽く天を仰いで、それからソファのカイトを見た。
瞼が震え、普段からぼんやりと揺らいでいるものの、さらにぼやけて霞む瞳が、虚ろに開かれる。
「Hey、カイトさん。マスターがわかりますか」
「………ん」
ぼんやりとマスターを見つめてから、カイトは瞳を閉じた。
すぐにまた開くと、ずっとしっかりとした光を宿してマスターを見返す。
「マスターはマスターでしょ?」
「その通りです!」
「謎会話だよね」
ミクが小さくツッコむのに、メイコがよしなさい、と袖を引いた。ふたりの会話にいちいちツッコんでいては身が持たない。
「えっと、俺…」
頭を振りながら、カイトが起き上がる。首を傾げ、マスターとメイコ、そしてミクを見た。
「……みんなでなにしてるの?」
「…」
三人で顔を見合わせる。
なにしてるのって、まあ、なにをしているのかと言えば。
「そうですね」
「カイト殿!」
マスターが適当に誤魔化そうと口を開いたところに、アイスの1リットルパックを抱えたがくぽが入って来た。
大きな声で名前を呼ばれて、カイトが反射的に振り返る。
慌てて寄って来たがくぽを見つめる瞳が、みるみるうちにこぼれそうなほどに見開かれ。
「大丈夫か、気分はどうだ。なにか…」
「う、あ……あああ」
なにを思い出したのか、真っ赤に染まりながら意味不明な呻きを漏らす。
メイコとミクは驚いた顔を見合わせ、マスターは軽く眉間を押さえた。
「カイト殿」
「えぁ、ああああのっ」
心配のあまりに間近に迫ったがくぽに、カイトが悲鳴のような声を上げて仰け反る。
「そこでアイスですよ、カイトさん!」
すかさず叫んだマスターが、がくぽからアイスのパックを取り上げてカイトの眼前に突きつける。
1リットルパックだ。
「ふわわvvv」
声のトーンがあからさまに変わり、カイトは笑み崩れた。
「アイスー♪」
無邪気に弾んだ声で、1リットルパックへと手を伸ばす。
「カイト殿」
「がくぽさん、スプーン!」
「あ、ああ…」
状態を訊こうとするがくぽを黙らせて、マスターはカイトにアイスパックとスプーンを渡した。
「ふあ、アイスアイスアイスー♪ねえねえマスター、これ全部、食べていい?食べていいよね?」
きっらきらに輝く笑顔で訊くカイトに、よっれよれの笑顔でマスターも頷く。
「もちろんですとも!存分にお食べなさい!」
「わぁあいvvv」
明るく弾む歓声とともに、カイトはアイスにスプーンを突き刺す。
こうなったらもう、お終いだ。目の前からアイスがなくなるまで、カイトとまともに会話することなど出来ない。
「…」
「かわいいですよねえ、カイトさん!」
壮絶になにか言いたげな視線を寄越すがくぽに、マスターはよっれよれの笑顔のまま言った。
「……」
カイトが起きて、そしていつもどおりに元気にアイスを食べる姿を見て、がくぽの思考がいつもの落ち着きを取り戻した。
言いたいことは山ほどあれど、こんな状態のマスターをいつまでも煩わせるほど、鬼でもない。
「マスター、もういい。騒いで悪かった。布団を延べてやるゆえ、寝ろ」
「がくぽさん、やさしいですね!でも大丈夫ですよ。私が徹夜明けで帰ってくるというのに、メイコさんがお布団の用意をしてないわけがないですから」
「なんで言い切るのよ、図々しいわね!」
叫んでそっぽを向くメイコを、ミクが目を眇めて見る。
「でもほんとのことだしね。めーちゃん、マスターに甘いもんね」
長女にして家長の威厳は絶対だ。
それはたとえばボーカロイドとして、トップアイドルに咲き続けるミクでも逆らえる種類のものではない。
男きょうだいよりは甘くされても、妹にとっても厳しいおねぇちゃんに違いはないのだ。
腐すミクに、メイコは胸を張った。
「甘いわけじゃないわよ!面倒を見てるだけよ!」
「…」
ミクがますます目を眇める。
マスターはこっくり頷いた。
「正直どっちでもいいです、メイコさんが構ってくれるなら!さて、それでは私は寝ますが、がくぽさん、もしなにかカイトさんに異常があるようなら、遠慮なく起こしてくださいね」
しあわせ笑顔でアイスをぱくつくカイトを見やり、マスターはがくぽにやさしく告げる。
「あたしを倒してからだけどね」
「…」
メイコがぼそりと付け足し、ミクはマスターの腕を力いっぱい引っ張った。
がくぽは引きつった顔でカイトとメイコを見比べ、頷く。
「まあ、――メイコ殿とて、鬼ではあるまい」
ほんとうにマスターが必要な事態だと判断すれば、起こす許可をくれるだろう。
希望的観測に縋ったがくぽに苦笑いし、マスターは立ち上がった。
片腕にミクをぶら下げ、メイコの腕を引き、リビングから出る。
***
「あのね、メイコさん。ほんとに必要だと思ったら、手遅れにならないうちに」
「あたしだって鬼じゃないわよ」
廊下に出て言い諭すマスターに不貞腐れてつぶやき、メイコはリビングへ視線を流した。
「だけど、どうでもいい、くっだらないことで大騒ぎするバカがいるから、ああやって釘を刺しておかないといけないのよ!」
力いっぱい言い切るメイコに、マスターは愉しげに笑う。
「それも醍醐味というものよ。ことほど左様に、恋とはおもしろい」
「あんたは甘いわ」
「ええ、もちろん」
頷くマスターを、メイコは胡乱げに見つめる。
「カイトが考えるのを、邪魔したわね?もしかしたら、自覚の一歩になったかもしれないのに」
「……なるかな、あれで」
メイコの考えはそれこそ希望的観測に過ぎると、ミクはつぶやく。
カイトの鈍さは天下一品を通り越して、もはや天上天下だ。
「なるわよ。あの子、そこまであほじゃないもの。ちょっと道筋をつけてやれば、考えるきっかけにはなったわ」
ちなみに、うがって考え過ぎているのはミクのほうだ。
メイコは、「一歩」、「きっかけ」と言っているのであって、「自覚する」とは言い切っていない。あくまで、そうなるかもしれない、という曖昧な憶測を述べているだけなのだ。
それがわかっているマスターは、小さく笑った。
「時間がいるの。あそこで追いこんだら、カイトさんはまたパンクしちゃうわ。ワンクッション必要なのよ」
言ってから、腕にしがみついたままのミクの頭を撫でる。
「それこそ、カイトさんはあほの子じゃありませんからね。落ち着いたら、自分で考えだします」
「…」
マスターを見つめていたミクが、撫でる手に合わせてねこのように目を細める。
「そういうわけで、私は寝ますが…」
「ん」
ミクがいい子に離れる。
マスターはもうひと撫でしてやってから、廊下の果てを指差した。
「ミイラ取りがミイラになっている可能性がある、おちびちゃんたちのことをよろしくお願いします。それこそ、大事があったら、起こしてくださいね」
「…」
メイコとミクが顔を見合わせる。
すっかり忘れていたが――
レンを見に行ったリンが、戻って来ていない。なにかあればリンは、遠慮なくかん高い声を爆発させるはずだから。
「………不埒な」
「いけませんねー。いっけませんねー♪」
ぴきりと引きつってつぶやくメイコに、ミクも声だけは明るくさえずる。
いきり立つ姉妹を置いて、マスターは寝室へと向かった。
彼女は己のロイドを信頼している。
たとえ彼らが、どんな関係を築いていたとしても。