「そろそろ行きましょうか」
紅白の結果も出て、今年という日がほんとうにあとわずかになった。
マスターがつぶやき、メイコへと笑いかける。
メイコは猪口に残っていた酒を空けて、立ち上がった。
restart kiss
「立てるの?」
「そこまで年じゃないんだけど………」
ぼやきながら立ち上がるマスターは、少しふらついた。
それでもメイコに頼ることなく自分で立って、リビングを出る。階段を上って、自分の部屋へ。
メイコはおとなしくついて行きながら、マスターの後ろ姿をじっと眺めた。
ほとんど櫛を入れない、伸ばしっぱなしの髪。
たまに時間があるときには、きれいに櫛を入れて、油を摺りこんでやって、出来る限りの手入れをしてやったけれど――
来年の私は、そんなことに気が回るだろうか。
考えることは、埒もない。
埒もなくても、気にかかる。
来年の私は――来年の、マスターは。
「そろそろですよ!」
自分の部屋に入って、窓を開けるとベランダへと身を乗り出して、マスターは叫ぶ。
天井ががたがたと揺れた。
屋根の上には現在、きょうだい五人がいる。新年が明けると同時に上がる花火を鑑賞するために、わざわざ屋根にまで上っているのだ。
毎年、そうやっているのだと聞いた。
そうやって、新年を祝うのだと――
「………カイトは…」
開いたままの窓辺に、マスターは腰を下ろす。
冬だから当然寒いが、風が強いわけでもない。年越しまでの多少の時間なら、耐えられなくもない天気だ。
マスターの傍らに座り、メイコは見るともなく天井を見上げる。
カイトが隣にいることが、当たりまえだった。
当たりまえだった隣は、空白だ。
「カイトは、選んだのね」
なにを、とも具体的には言わないメイコに、マスターは笑顔を向ける。
「ええ、選んだわ。メイコさんとは、別の道を行くと」
「……………あたしは」
笑顔なのに、責められているような気がする。そんな気がするのは、自分の選択に疾しさがあるからだ。
マスターのことを忘れる。
マスターと過ごした、今日まで一年の出来事を、すべて忘れる。
与えられた言葉も、こころも、行為も、すべて――消去して、なかったことにしてしまう。
そうしなければ、旧型のロイドであるメイコの記憶容量はパンクして、新しいことを覚えられなくなってしまう。
新しく進むために――けれど、それが通らない言い訳であることを、自分がいちばんよく理解している。
マスターとほんとうに出会った当初であれば、それは真実だった。
だが、これだけロイドの研究と開発が進んだ今となっては、それは通じない。
ラボに行ってちょっとカスタムすれば、新型機と変わらない、ほとんど無限の記憶容量を得ることが出来る。
そうすれば、なにひとつ忘れる必要などない。
なにもかも、すべて覚えていられる――
「あたしは……………」
それ以上の言葉が、続かない。
覚えてもいないのに、ラボに行くことには激しい抵抗がある。
人間とは違う。
ロイドであるメイコにとって、「覚えていない」ことは「存在していない」ことだ。
メイコを苛むのは、存在していない恐怖で、そんなものを訴えたところで、普通なら叱り飛ばされているか相手にされないかだろう。
マスターが笑って受け容れてくれるのは、ほんとうに僥倖なのだと、わかっている。
いいマスターなのだ。望むべくもなく、自分のことをほんとうに愛してくれている。
忘れることを選択し続ける自分なのに、こうして傍に置き続けてくれて、それだけでなく、好意を伝えてくれる――
望むべくもない。
望むべくもないのに。
こころが叫ぶ。
忘れなければ、と。
忘れなければ、これ以上いられない、と。
忘れなければわすれなければ、ワスレナケレバ――
「メイコさん、私は責めているんじゃないのよ」
口ごもったままのメイコに、マスターはやわらかく告げる。
その顔は、ほんとうに穏やかだ。
けれどそれは、忘れ続けるメイコのことを呆れて、諦めて受け入れて得た穏やかさではない。
瞳は力を失うことなく輝いて、愉しそうにメイコを見つめる。
「カイトさんとメイコさんの道が違うのは、当たりまえよ。カイトさんはカイトさんで、メイコさんはメイコさん。別々の存在なの。いつまでも道がいっしょのわけがないのよ」
「………そう、だけど」
いつもの強気の姿勢も崩れて弱々しく俯くメイコに、マスターは手を伸ばした。
細く骨ばった手だ。そして冬の今は、ロイドにとってすら冷たく感じる。
顎を撫でられて持ち上げられ、揺らぐ瞳をまともに見つめられた。
マスターの瞳の色は、古木の樹皮のような色だ。光の加減によって、金色に光る。
今は暗くてよくわからないけれど、記憶の中、その色はいつもゆらゆらと輝いている。
今、わずかな明かりに浮かぶ瞳の中には、気弱に揺れるメイコが映っていた。
「カイトさんはカイトさんで、メイコさんはメイコさんよ。私の中で混同したことは、一度もないわ」
「マスター」
天井が揺れている。きょうだいたちが屋根で暴れている。新年を迎える興奮に、新しい始まりに、開ける希望に。
メイコは忘れる。
年が明けたその瞬間に、最低限の記憶だけを残して、あとは全部消去してしまうように、すでにプログラムをセットした。
だからもう、待つだけだ。
その瞬間が来たら、今この瞬間のマスターの瞳の色も、言葉も、なにもかも消えてなくなる――
「私が愛しているのは、メイコさんだけよ」
「っマスター!」
メイコの上げた声は、悲鳴に近かった。
どうして、今、それを言うのだろう。
一年間、仄かな好意は伝え続けても、その言葉をはっきり言うことだけはなかったのに。
今、伝えられても、もう、プログラムは走り出している。途中で止めることなど出来ない。
忘れてしまう。
「どうして今言うのよ!どうして、今!」
「決意表明よ」
瞳を潤ませて詰るメイコと対照的に、マスターはさばさばと笑った。
「カイトさんが進みだすのを見て、私も思ったの。メイコさんが進みだすまで、いつまでも待とうと思ったけれど――そうじゃなくて、もう一度、私から口説こうって。全力で、メイコさんのこと、口説き落として、強制的に進みださせてしまおうって」
手入れをしていないせいで、マスターの肌は荒れている。
伸ばしっぱなしの髪には、滅多に櫛を通さない。
暇なときには出来るだけ手を掛けたけれど、来年の自分は、そんなことに気がつくかどうかわからない。
来年の自分が、マスターのことに気を掛けられる自分かどうか、マスターが来年の自分を好きになるかどうか、なにもわからない。
わからないのに、マスターは自信満々に笑っている。
「待ちの姿勢なんて、私らしくなかったわ。それがメイコさんの選択なら受け入れるのも愛だなんて………私としたことが、気弱になっていたものね」
「………っ」
大好きだ、と思った。
その、強く前を見据え続けて、進むことを躊躇わない瞳が、想いが、言葉が、態度が。
一年間、何度も何度も、好きだと思った。
向けられる仄かな好意を、うれしいと思った。
そんなすべての感情も、忘れてしまう。
来年の自分は、同じところに気がついて、同じところを好きになるかどうかわからない。
もしかしたら、嫌いになるかもしれない。
「マスター、」
「マスター、カウントダウン始めるよー!!!」
元気いっぱいなミクの声が降って来て、びくりと体を揺らしたのはメイコだけだった。
マスターは相変わらず微笑んだまま、メイコを見つめている。
「あなたを愛してるわ、メイコさん。今年のあなたも、来年のあなたも。――それから、失われていった、去年までのあなたも、すべて、残らず、あなたを愛してる」
「…………あたし、が、マスターの…こと、嫌って、も」
視界が歪んでいる。頭の中で、プログラムが走り出しているのを感じる。消されていく。自分で選択した。
したけれど。
マスターは莞爾と微笑んだ。
「どんなあなただって、愛してるわ。これまでだって、すべてのあなたを愛してきたのよ。これからどんなあなたが現れたって、変わらず愛し続けるわ。知ってるでしょう、私はしつこいの」
「しって、るわ」
知っている。
そのしつこさで、女性の身で芸能プロデューサなどを続けていられるのだ。
歪む視界を懸命に凝らして、メイコは笑う。
忘れるけれど、見ていたかった。この瞬間の、マスターの笑顔を。
「消えてしまうあなたに誓うわ。来年のあなたは、私のことが狂うくらいに好きで、忘れられないから」
「…ばかね」
笑う。
歪む視界に、マスターの顔が近づいてくる。
「誓うわ。来年はあなたのことを全力で口説く。でも、ねえ、メイコさん」
吐息が、くちびるをくすぐる。
視界が歪むせいだけでなく、近過ぎて見えないマスターが、つぶやく。
「今のあなたも、これまでのあなたも、愛していることだけは変わらないの。私のことを忘れてしまうあなたでも――私にとっては、だれより愛しいひとなのよ」
くちびるに、くちびるが触れた。
どん、と家が揺れる。
メイコの瞳から、ひとしずく、涙がこぼれた。
「…………ま、すたー…………?」
離れて行くくちびるに、メイコは覚束ない声を上げる。
瞳を瞬いて、首を傾げた。
彼女は女性で、自分も女性だ。どうしてキスなんかしているのだろう。
訊こうとしたところで、天井が物凄い音を立てた。
「っ?!」
びくりと竦むメイコに、マスターが笑う。
「ああ、今、あなたの弟妹たちが、揃って屋根に上っているんです。うちの恒例なんですよ、屋根で年越し」
「………ああ…………」
頷いて、どたばたと騒がしく揺れる天井を恐る恐る見やった。
うちの恒例とはいうけれど、自分とマスターは上っていない。
「あなたは年越しの瞬間に記憶を整理するでしょう?屋根に上るのは危ないので、ここで私と年越しです」
「ああ……」
メイコが疑問に思うことを、口にする前に解消してくれる。
メイコは少し安心して微笑み、笑顔を向けるマスターを見やった。
「でも、家族の恒例なんでしょう?マスターも上りたいんじゃないですか?」
その言葉に、マスターは声高く笑う。
「いいんですよ。屋根なんて、いつでも上れます。私は、愛しいあなたをひとりで置いておくほうが、いやです」
「…?」
愛しい、あなた?
だが、そこにツッコむ前に、ベランダに轟音が落ちてきた。
「ますたぁああああああ!!!しんねんあけましておめでとぉおおおおおおお!!!」
「おめでとぅおおおおおおおお!!!」
「めでたくしてやんぜますたぁあああああ!!!!」
びくりと竦んだメイコの前で、ブーツを履いたままの弟妹たちが部屋へと乱入してくる。
マスターに飛びつくと、揉みくちゃにした。
「…」
弟妹たちの名前くらいは覚えている。
しかし性格に関しては消してしまったから、このテンションが異常なものなのか、常態なのかわからない。
戸惑うメイコは、ふと窓の外を見やった。
「めーちゃん、明けましておめでとう」
「………カイト」
こちらはきちんと靴を脱いで上がって来た、いちばん上の弟が穏やかに笑って言う。やさしく抱き寄せられて、頬にキスされた。
確かカイトには、デフォルトで挨拶のキスの習慣があった。
記憶に残る基本情報をさらって、メイコは笑う。
「おめでとう、カイト」
「………メイコ、殿?」
不思議そうな声に、メイコは顔を上げた。
ベランダに、若武者風の青年がいる。彼は去年家族となった、神威がくぽ。
「がくぽも、おめでとう」
「………おめでとうございます」
なにやら堅苦しく返されて、メイコはまた笑う。
ぱ、と電気が点いて、部屋が明るくなった。視界が開けて、メイコは束の間、眩しさに瞳を細める。
――世界は明るく、希望に満ちて――
蘇る言葉が、どこから出てきたかわからない。
わからないけれど、きっとそうなのだろうと思えた。
思えたことがうれしくて、笑う。
「さてそれでは、新年会と行きますよ!!」
わやくちゃにされながらマスターが叫び、メイコへと手を振る。
手を振り返して、それからふと、メイコは思いついた。
「マスター。あなたはマスターなんですから、もっとくだけてもらって構わないですよ?ロイドの私に敬語なんか使わないで」
「………めーちゃん」
隣に立つカイトが瞳を見張る。
おかしなことを言っただろうか。
しかしメイコがカイトへ問いを放つより先に、マスターの高らかな笑い声が響いた。
「これは性分なのですよ!ですが、あなたが言うならなんとかします。そうですね、出来ればあなたのほうもくだけてください。私だけくだけるのは難しいです!」
おかしなことを言うひとだ。上位者であるマスターより先に、ロイドにくだけろ、とは。
だがメイコは笑って、マスターを見つめた。
「わかったわ、マスター。………これでいい?」
マスターが笑う。弟妹たちから抜け出してくると、メイコをじっと見つめた。
マスターの瞳の色は、古木の樹皮のような色なのだと気づく。
その色が、力強く、しっかりと自分を映す。
「改めて、明けましておめでとう、メイコさん。今年からよろしく!」
差し出された手を、メイコは握り返した。
「こちらこそ、よろしく、マスター」
応えた体が引き寄せられて、強く抱きしめられた。
その感触は、ひどく心地よかった。