はないろななくさ
七草粥の日だった。
前日、イベント好きのマスターは張り切って材料を買ってきたが、それは全然うたわれるとおりの「七草」ではなかった。
だいたい、ネギと茄子が当然の顔をして紛れている時点で、ことの由来が怪しい。
「いいんですよ。なんでも野菜が七つ入れば」
一事が万事この調子のマスターは胸を張ってそう言い、冷蔵庫に野菜をしまった。
しかし数えてみれば、どう選り分けても七つ以上ある。
「いいんですよ。野菜粥なら」
果てにはそこまで行きついて、それでもマスターは全然悪びれるところがなかった。
「体にやさしいものを食べて、労わってあげるのが大切なんです!数とか種類とか、細かいこまかい」
どうせ俺は細かいわ、と言い返して、日本の伝統行事なのだからがくぽが明日のお粥当番、となんだか決められて。
寝て起きて当日になったら、すでに昼を回って、おやつの時間も近くなっていた睡眠マジック。
「…?!」
事態が呑みこめないがくぽを覗きこんだのは、カイトの湖面のように揺らぐ瞳だった。
「起きた?俺わかる?」
「…カイト殿」
意味のわからない問いに、反射で答えた。
その声が、自分で聞いてもひどい掠れ声で、また驚く。声帯が閉じたように重い。
いや、声帯だけではない。思考も、体すべて、重く苦しい。
「なんだ?」
布団に横たわったまま身じろぎもできずに混乱してつぶやいたがくぽに、カイトが瞳を潤ませる。
「苦しい?大変?…どうしよう」
湖面のように揺らぐ瞳から、ぽたりと雫がこぼれる。
がくぽが言葉を失くして見つめる前で、カイトはすぐにごしごしと涙を拭った。
「俺が泣いてちゃだめだよね。マスター呼んでくるからね!」
「待て、カイト殿」
制止は間に合わず、カイトはどたばたと部屋から出て行った。マスターを呼ぶ大声が聞こえる。
自分もままならない状態だが、がくぽはひどく気を揉んだ。
あんなに慌てて、カイトが壁に激突でもしたらどうするのだろうと、そればかりを案じる。
永遠のような数瞬が過ぎて、カイトがまたどたばたと戻ってきた。
すぐあとから、マスターが顔を出す。そのあとに、珍しくもミクまでついて来ていた。
「Hey、がくぽさん。マスターがわかりますか」
だれも彼もどういう第一声なのだ。
「自分のマスターを忘れるほど耄碌した覚えはないぞ」
「がっくん、ボクは?ボクはボクは?」
「ミク殿だろう……なんなのだ、いったい」
答えるのも、かなり重労働だ。だれか問いかける前に、この状態がなんなのか教えてくれないだろうか。
渋面になるがくぽの枕元に膝をつき、マスターはその額に手を当てた。ひやりとした心地を覚えて、がくぽは驚く。
ロイドより、人間の手が冷えている?
「がくぽさん、オーバーフローで倒れたんですよ。年末年始の忙しさが祟ったんだろうって、ラボのほうには言われました。――今日、ラボにまで行って帰ってきたんですが、全然覚えてませんよね?」
「覚えておらぬ」
呆然として、がくぽはつぶやいた。
倒れた?オーバーフローで?
マスターは動揺するがくぽの額を軽く撫で、正座した膝の上に手を乗せる。
「いつも早起きのがくぽさんが起きて来ないって様子を見に来たら、うんともすんとも言わない状態で。これはおかしいっていうんでラボのほうに連絡を入れてドクに来てもらったら、ラボのほうで再起動し直す必要があるとか言われまして……」
「再起動…?!」
それはおかしいと思う。なにがあって、そこまでの状態になったというのだ。
困惑するがくぽに、マスターはちょっと笑った。
「疲れが溜まって、昨日、寝ている間にゲージを超えたんだろう、ってことでしたよ?なんでも、初期化一歩手前のところまでいっていたとかなんとかで。いやはや、うちの子はほんと、初期化に縁がありますよね」
「マスター」
珍しくもこわい声で、カイトがマスターを制止する。マスターは肩を竦め、俯いた。
しかしすぐに顔を上げ、揺らぐがくぽをまっすぐ見つめる。
「すみませんでした。起動して一年経っていないがくぽさんに、ここまで無理をさせたのは私の落ち度です。あなたにこわい思いをさせてしまいました。ほんとうに申し訳ない」
「…」
謝られても、がくぽにはなにがなにやらまるでわからない。
がくぽの感覚では、ふつうに寝て起きて、そうしたらこんな時間で、突然身動きもできなくなっていて。
疲れが溜まっていたとか、そんな感覚がまるでないのだ。
「こわいもなにも、寝て起きただけだぞ」
そうつぶやいたがくぽに、マスターはやわらかに微笑んだ。
「だから、経験がないから、がくぽさん、自覚できないんですよ。自分が『疲れている』ってことを。自覚できないから、ふつうに振る舞ってしまう。でも、無理はかかっているから、どこかで清算しなければいけなくなる。それが今日だったってことですよ」
「…そう、なのか?」
そういうものなのだろうか、と曖昧に考える。
マスターの後ろに膝をついたミクが、ひょいと顔を出した。
「そういうもんだよ。ボクもやったことある。がっくんほどじゃないけど…。やっぱり、一年目でね。でも一回やったら、自分の限界ってどこらへんかって学習できたから、次から無理しなくなったよ。マスターに、それ以上やったらボク壊れちゃうって、ちゃんと申告できるようになった」
「ミクだけじゃないよ。リンちゃんもレンくんもやった」
わずかに硬い声で、カイトが付け足す。
しかし、どんどん胡乱な瞳になってマスターを見つめるがくぽに、わずかにいつものおっとりした笑みを浮かべると、首を振った。
「違うよ。俺たちって、一回はそうやって自分の限界に挑戦しないといけないんだよ。そうじゃないと、『疲れてる』をほんとには学習できないんだ。これ以上やったら自分はだめなんだって、わかんないんだよ。だからマスターは、一年目は、わざと無理やり仕事を詰め込むんだよ。限界なんて、仕事が軌道に乗るより前にわかってたほうがいいから」
「…そうなのか」
学習した気は全然しない。
自分は無闇に倒れただけではないかと不安に駆られるがくぽの頭を、マスターは幼い子でも相手しているかのように撫でた。
「大丈夫ですよ。次があれば、がくぽさんは、自分がちゃんと学習したってわかります。これ以上やったら、だめだなって、自然と。ロイドって、そういうものです。とはいえ、初期化手前まで行くほど追い込むつもりじゃなかったんです。クリスマスに記憶が飛んだときに、注意するべきでした。だから、やっぱりマスターの落ち度です。ごめんなさい」
耐えてしまったのはがくぽで、そこまでの耐久性を与えたのはラボだ。
すでに五体ものロイドを持っているマスターは素人ながらいわばマスターオブマスターで、ロイドの耐久性にある程度の見切りがついていたはずだ。
見切りに失敗したことはマスターの失態かもしれないが、最新型というものは、従来型を超えていくために、さまざまなところを改変される。
だから、がくぽがマスターの予想を超えていたとしてもそれがすべてマスターの落ち度には結びつかない。
ラボがマスターに与える説明などというものは、必要最低限のことで、足りていないことがほとんどなのだから。
そう考えるがくぽだから、いつも飄々としているマスターにこんなふうに殊勝らしく項垂れられると、かえって体がむず痒くなるような心地がした。
「いいから…」
顔を上げてくれ、とがくぽが掠れ声を張り上げる前に、マスターはにっこり笑って顔を上げた。
「そういうわけで、がくぽさんは一週間ばかりお休みです。二、三日もすれば起き上がれるようになりますが、それまでは動くのがしんどいはずですから。その間、主にカイトさんがつきっきりで、がくぽさんの面倒を見てくれますからね!」
「…っ」
さっきまでのしおらしさはどこへ行った、とツッコみたくなるほど朗らかに、マスターは言った。そんな機能はないが、血を吐きそうになったがくぽだ。
「みなさん交代で見ることも考えたんですけどね…。ほら、なにしろがくぽさんって成人男性でしょう。うら若い少女のミクさんやリンさんにお世話させるのもなーって。レンさんは問題外ですし、メイコさんは今ちょっとアレなので、そうなると適任がカイトさんしかいないんですよ!いやあ、カイトさんには二重三重に申し訳ないです!」
申し訳ないと思うなら、もう少しそれらしい声と態度をしてみせろ!
叫びたいが、なにしろだるい。
すっかりいつもどおりの無邪気に邪気たっぷりな悪魔に戻ったマスターは、にこにこ笑って、がくぽを挟んで座るカイトを見る。
「カイトさん、がくぽさんのこと、よろしくお願いしますね」
「うん。任せて、マスター」
こちらはごく真剣に、カイトが頷く。
「いっぱい甘やかすから!」
なにかが違う!
力いっぱい請け負うカイトに、やはりツッコみたいのにツッコめない。
主に心労で、がくぽは眩暈がした。
疲れた疲れたって、年末年始が問題なのではなくて、この家族が問題なのではないか。
カイトが面倒を見てくれるのはうれしいが、彼に弱い姿を晒すのには抵抗がある。彼の前では、いつでも強く頼もしい存在でいたいのだ。
その理由も併せて、カイトにつきっきりで看病などされたら、それこそ心労が募るだけだ。
かわいらしい彼が健気に尽くしてくれたりなどしたら、駆動系の落ち着く暇がない。
しかも、カイトはまったく邪気もなく善意だけで請け負っているが、負わせているマスターが他意と故意の塊だ。
殊勝らしく項垂れたくせに、この事態を愉しむ気満々なのだ。
「そうですよ、ここがカイトさんの有り余る包容力の見せ所ですとも!なんといっても、疲れたときには甘えるのがいちばん。愛情がいちばん。静養がいちばん」
「どれがいちばんなの?」
カイトが首を傾げる。マスターは指を四本立てて、胸を張った。
「全部いちばんです。オンリーワンよりナンバーワン」
「そっか!」
「…っみ~く~ど~の~~っ!!」
放っておくと軌道修正も適わないほどボケ倒すふたりに、ツッコみ切るだけの気力がないがくぽは、そっぽを向いて笑いを堪えているミクに助けを求めた。
なんだかんだ言って、彼女も一応、ツッコミ属性のはずだ。
「あれ、がっくんがボクに助けを求めたよ。よっぽど追い込まれてんね!」
薄情なトップアイドルは笑って言い、マスターの肩を叩いた。
「マスター。あとはお若いふたりにお任せして」
「ああ、そうですね。マスターとしたことがうっかりしました!」
「……っ」
一応だ。所詮、悪戯ものの姫だ。愉しいほうへと流れる。
どう考えても家庭環境が悪い、と瞳を閉じて眩暈と闘うがくぽの頭を一度さらりと撫でて、マスターとミクは立ち上がった。
「カイトさん、具合が悪いときの特効薬はキスですよ。がくぽさんがあんまり辛そうにしたら、キスしておあげなさい」
「マスター!」
さすがに声を荒げたがくぽだ。なにを言い置いて去ろうとするのか、このマスターは。
しかしこれくらいで黙ってくれるマスターではない。そして、彼女の邪悪な意図に気がつくカイトでもない。
「キス?なんで?」
カイトはきょとんとして訊き返す。
「カイト殿…」
「そりゃ、カイトさん、昔っからの決まりごとなんですよ!キスをすると呪いが解けたり、風邪がうつったり、そりゃもう、いろんなことが起こるんだって、相場は決まってるんです!」
「そうなんだ!」
聞くな、という言葉は間に合わず、マスターによって曲解された説がカイトの単純な回路にインプットされてしまう。
もはやなにを言える気力もなく、がくぽは力無く瞳を閉じた。
「ゆっくりしてくださいね、がくぽさん」
「あとでお粥持って来てあげるからねー、がっくん」
女性二人はうきうきと弾む足取りで出ていき、襖が閉まって静寂が部屋を支配した。
「…」
カイトが懸命になにかを考えていることが、気配でわかる。
がくぽは億劫な瞼を開いて、枕辺に座るカイトを見上げた。
「キスはなしだ」
「え?」
掠れ声で釘を刺したがくぽに、カイトが首を傾げる。
「マスターの口からでまかせを信じるな。だいたいにして、俺は呪いにかかったわけでも、風邪を引いたわけでもないのだぞ。キスしたところで、し損だ」
「損なんてことはないけど…」
カイトの躊躇いがちなつぶやきに、がくぽは思いきり渋面になった。
今ここでキスなどされたら、それこそオーバーフローで回路がすべて吹っ飛ぶ。自信を持って断言できる。
「でも、じゃあ、がくぽ、してほしいことない?」
「特にない」
答えてから、少し考えた。
いっそ休眠モードに入ってしまったほうがいいのではないか。そうすれば疲労は早く回復するはずだし、カイトもずっとつきっきりなどでいなくていい。
「カイト殿…」
「だめ」
いつもいつも言葉にしてすら伝わらないことが多いにぶちんさんのくせに、今日ばかりはなぜか先回りして、カイトはいきなり拒絶した。
「いや、話を…」
「がくぽは俺に甘えるの!」
「…」
なんの話だ。
眉をひそめるがくぽに、カイトが手を伸ばす。さらさらと頭を撫でられた。
「がくぽ、いっつも俺のこと甘やかしてくれるでしょ。だからこういうときは、俺ががくぽのこと甘やかしてあげたいの」
「甘やかす…?」
がくぽは胡乱な声を上げる。自分が記憶する限り、
「貴殿は普段、それほど甘えているわけでもあるまい」
恩に着るほど甘えられたことなどない。
皮肉でもなんでもなく言ったがくぽに、カイトはきょとんと瞳を見張った。
「そんなことないよ!俺、がくぽにいっぱい甘えてるし、ワガママだって言ってるよ!」
いつ?
思い返してみても心当たりがない。
いっぱい甘えるカイトなど、それこそそんなもの目の当りにしたら理性が持っているわけがない。玉砕しようがなんだろうが、襲い掛かっているはずだ。
「…貴殿はもっと、甘えてもいいし、我が儘を言ってもいいと思うぞ」
つい言ったがくぽに、カイトは困った顔になった。
「がくぽって、心が広いよね…」
がくぽは黙りこみ、しんみりしているカイトを静かに見つめた。
こうやって、カイトを見上げることはあまりない。とりもなおさず、がくぽのほうが背が高く、態度も尊大だからだ。
「…とにかくね、がくぽは俺に甘えるの。休眠モードなんかだめ」
やはり正確にがくぽの言いたいことをわかっていたらしい。
念を押したカイトに、がくぽはわずかに天井を睨んだ。
どうにも、思考回路も鈍いし、体もだるいし。
疲れるなんてことはロクなことじゃないというのは、間違いなく学習した気がする。
「なんか、してほしいことあったら言ってね。マッサージでもなんでも、俺、がくぽが楽になるなら、一所懸命がんばるからね!」
「…」
体に触りまくられたりした日には悲劇が以下略。
がくぽは天井を睨みつけ、それから、そろりとカイトを窺った。
思考回路が鈍く、重い。
これが、疲れるということ。
「添い寝」
「ん?」
掠れ声が聞き取れず、カイトが顔を寄せる。がくぽはわずかに躊躇い、しかしやはり口にした。
「隣で寝てくれ」
「…」
カイトがきょとんと瞳を見張る。不思議そうに首を傾げた。
「そんなことでいいの?」
言って、がくぽが頷くのを待たずに布団を捲る。
隣に布団を延べるという発想はなく、そのまま同じ布団に潜りこむと、がくぽの体に寄り添った。
もちろん、同じ布団で寝てくれ、という意味で言ったからそれでいいのだが、あまりに抵抗も躊躇いもなくて、がくぽは少しだけ落胆する。
意識されていないことも甚だしい。
傍らに寝転ぶと、カイトはわずかに伸び上がってがくぽの頭を抱いた。するな、と言ったにも関わらず、額にキスの感触がする。
くちびるにされるよりはましだが、この挨拶のキスの習慣はどうにかならないのかといつも思う。
「ずっとぎゅってしててあげる。だから、ゆっくり休んでね」
「…ああ」
動かない頭を懸命にすり寄せて、がくぽはカイトの胸に埋まると瞼を下ろした。
アイスを好む兄のためにと、姉妹たちが悪戯心で贈ったバニラフレーバの香水。
無邪気に気に入ってつけているカイトの香りはどこまでも甘くやわらかだ。おっとりぽややんとした彼に、この甘い香りはよく似合っている。
自分も香を焚き染めているとはいえ、それとはまた違って心和む香りに包まれて、がくぽは全身から力を抜いた。
夕飯になれば姉妹たちが様子を見に来て、寄り添って眠る兄弟二人の図に大騒ぎすることは間違いなかったが、今はどうでもよかった。
思考が鈍い。
これが疲れるということ。
そして、疲れを癒されるということ。
がくぽの優秀な情報処理能力が、遺憾なく発揮されて、学習中だ。