なないろはなくさ
いつの間にか寝てしまったらしい。
ふと瞳を開いて、カイトは首を傾げた。
目の前に、肌色。
「…?!」
びく、と竦んで思考を高速回転し、恐る恐ると顔を上げた。
「…っ」
瞳を閉じて眠るがくぽの顔が間近にあって、さらにびくりと竦む。
寝起きにいいパンチ具合の美貌だ。
どうやら、眠るがくぽの胸の中に抱えこまれたらしい。
眠る前には、確かにカイトの胸の中にがくぽを抱きこんでいたはずなのに。
いつの間に形勢が逆転したのかと、カイトは眉をひそめる。
そもそもは、カイトががくぽを甘やかすための添い寝だったはずで、こうやって自分が反対に抱きこまれてしまっては、ちっとも役目が果たせていない。
今日のがくぽは、大変だったのだ。本人は意識がない間のことで、さっぱり大変だと思っていないが。
それでも疲れが溜まっていたのは確かなはずで、だから、疲れているがくぽのことを、それはもう、溺れるほど甘やかそうと思っていたのに。
がくぽの胸の中に抱えこまれてしまっている時点で、だめだめだ。
これでは、カイトが甘やかされてしまっている。
がくぽの強い腕に抱かれて胸に埋まると、ほやほや和んで安心してしまう。
守られている安心感に、たくさんワガママを言いたくなってしまう。
「も……だめおにぃちゃんだなっ」
自分で自分を叱咤して、カイトは束の間止まった。
…………自分はがくぽのおにぃちゃんだ。それでいいはず。
なのになんだろう、この胸のもやもや。
「…………まあいいや」
ちっとも良くなさそうな、不貞腐れた顔でつぶやいて思考を放り出し、カイトはそろそろと身を起こした。
寝ているはずだが、がくぽの腕は強い。しっかりとカイトの体を抱えこんでいて、体勢を変えるのは大変そうだ。
抱っこされて寝るのではなくて、抱っこしてあげて寝たいのに。
「んん……」
どうやったらがくぽを起こさずに体勢を変えられるのか。
カイトは眉をひそめて考えこんだ。
腕の力はあまりに強い。縋りつかれているようで、それはそれでしあわせなのだが、ここで満足してはいけない。
今日のカイトはおにぃちゃんとして、お疲れのがくぽを甘やかすのが使命なのだ。
「………」
自分の使命を確認して、カイトは再び止まった。
……………………自分はがくぽのおにぃちゃんだとも。それでいいのだ。
だからなんなのだ、この胸のもやもや。
「……………………………………まあ、いいや」
「なにがだ」
「んきょっ?!」
どこからどう見ても不承不承につぶやいた独り言に返されて、カイトは悲鳴を上げた。
慌てて下を見ると、どこか茫洋とした瞳のがくぽと目が合った。
「何処に行く?」
「ぇや、えっと、行くっていうか」
微妙に不機嫌に訊かれて、カイトは口ごもった。
お疲れのがくぽを甘やかしてあげるどころか、気持ちよく寝ていたところを起こしてしまったとか。
だめだめどころではない。
だめの王様だ。
「あのね、がくぽのこと、抱っこしてあげたいの」
「ああ………」
がっくり項垂れながらも言ったカイトに、未だ腕の力を緩めないがくぽは、軽く眉をひそめた。
「…………こちらのほうが、落ち着くのだが」
「ほえ?」
声は掠れ気味で、聞き取りにくい。
ぼそりとつぶやかれても聞き取れず、カイトは起こしていた身を再び沈めた。
「がくぽ?」
「抱かれているより、抱いているほうが落ち着く」
「…」
それはあれだろうか。
おかあさんに抱っこされるより、安眠くまさんを抱っこしているほうが落ち着くとか、そういう。
微妙な喩えを思考に巡らせながら、カイトはがくぽの顔へと手を伸ばした。
「落ち着かぬと言うなら…」
「俺はいーよ。がくぽに抱っこされるの好きだもん」
「…」
さらりと答えながら、カイトは伸ばした手でがくぽの顔を挟む。
抱かれていても感じるが、こうして直接に触れるともっとわかる。
だいぶ、熱が落ち着いてきた。
朝、ラボに行く前のがくぽは人間のように体温が高くて、それだけですでに異常を起こしているのだとわかった。
けれど今、触れると伝わる体温は、ずいぶん冷えてきている。まだまだ全快と言うには、高いけれど。
「俺はいいんだよ。でも、俺ががくぽのこと甘やかしたいのに、反対に甘やかされてるみたいだから、それが気になっただけ。がくぽがそっちのほうがいいんだったら、それでいいよ」
「ああ」
微妙に不機嫌そうに頷くがくぽだが、腕の力は緩まない。むしろ、強くなった。
カイトは首を傾げ、ちょっと笑った。
「がくぽ、疲れると、ひとのこと甘やかしたくなるんだよね」
「…」
「こっちから見て疲れてるなって思って、甘やかそうとすると、がくぽ、反対に俺のこと甘やかしちゃうんだもん。それでいいのかなって思うけど」
「…」
がくぽは応えない。しばらくは話すのもしんどいだろう。
カイトは口を噤み、体をもぞつかせた。がくぽの胸の中に納まり直す。
わずかに乱れた寝間着から覗く肌に擦りついて、もう一度がくぽを見上げた。
「もうおとなしくしてる。だから、休んで」
「…」
告げると、がくぽはわずかにくちびるを震わせた。
なにか言いたげにして、しかし結局言葉にせずに瞳を閉じる。
強い光を放つ花色が隠れると途端に弱々しげな雰囲気になって、カイトはくちびるを咬んだ。
がくぽの疲れを癒すために、もっとなにかが出来たらいいのに。
こんなふうに添い寝しているだけではなくて――なにか、もっと。
「…」
カイトはがくぽの胸に埋まったまま、少しだけ首を傾げた。
出来ることが――ないわけではない、はず。
がくぽは、無駄だと言っていたけれど。
「……ん」
「カイト?」
おとなしくしている、と言った舌の根も乾かぬうちに体を起こしたカイトに、がくぽが億劫そうに瞼を開く。
それでも頑固に緩まない腕に阻まれながら、カイトは体を伸び上がらせた。
「あのね、がくぽ」
「ああ?」
「はやくよくなるおまじない」
「?」
がくぽはカイトの意図がわからぬげに、眉をひそめる。
それはそれで構わず、カイトは一度起こした体を再び沈めた。
がくぽのくちびるに、触れるだけのキスを落とす。
「マスターが言ってたでしょ?キスは特効薬だって」
「…っっ」
笑って言ったカイトに、がくぽは瞳を閉じた。ひどい渋面になっている。
確かにがくぽは、無駄だからするな、とは言っていたけれど。
「がくぽが治るまで、いっぱい」
「カイト」
「うん?」
腰に回されていた腕が、背中を辿って首に上り、後頭部を押さえる。
「ひとの理性が切れているときに……っ」
「がくぽ?」
頭を押さえつけられる形に、カイトは瞳を見張る。
その手がぐい、と頭を押して、カイトは抵抗も出来ないままにがくぽの上へ沈みこんだ。
くちびるにくちびるが重なる。
だが、それだけに止まらない。がくぽは舌を伸ばしてカイトのくちびるを舐め、押す。
「開け」
「んっ」
低く命じられて、カイトはそろりとくちびるを開いた。なにが起こるかわかってはいるが、抵抗しきれない。
思ったとおりに口の中にがくぽの舌が入って来て、舐めていく。粘膜を辿られる感覚に、カイトは震えた。
「んん…………っ、ぁ、ふ」
鈍い動きで口の中を探るがくぽの舌は、この間より熱い。
カイトは震えて、がくぽにしがみついた。
体の上に乗ってしまっているから、きっと重い。
これ以上負担を掛けてはいけないと思うけれど、体から力が抜けてしまう。
「ふぁ…………っ」
「………ちっ」
「っ」
わずかに離れた隙に、がくぽが舌打ちを漏らす。
濡れたくちびるをちろりと舐めて、カイトを押さえつけていた手から力が抜けた。
慌てて身を起こしたカイトを見ずに、がくぽは眉をひそめて瞼を閉じる。
「これ以上、体が動かん」
「…」
それは、まあ、ひどくお疲れの御身だし。
じんじんと痺れる口を押えて見つめるカイトをそれから見ることもなく、がくぽはそのまま寝てしまった。
「………えと」
取り残された形のカイトは、布団に座り込んでしばらく考える。
「…………………ねぼけ…………て、た…………?」
首を傾げるが、答えは出ない。
そもそも、ロイドが寝惚けるだろうか。
寝起きは起動が鈍いからぼんやりすることはあるが、がくぽはカイトよりスペックが高い。ほとんど、「寝惚ける」ことはないはずだ。
「………でも、今って………」
お疲れの身だ。
寝惚けることもあり得なくはない。
カイトは布団にへちゃりと座ったまま、足をもぞつかせた。
体が落ち着かない。腹の中になにか熱の塊があるような感覚で、それが暴れているような。
「…………そっか」
口元を押さえたまま、カイトは頷いた。
「きっと、これががくぽの『お疲れ』なんだ……!やっぱりキスすると、『お疲れ』って取れるんだ………!!」
確信を持ったつぶやきに、答えてくれるひとはいない。
しかしカイトは、何度も頷いた。
「マスター、やっぱりすごい。いろんなこと知ってる。たまにアレだけど!」
そのアレな場合が現在だが、カイトには思い及ばない。
熱の暴れる体を落ち着かずにもぞつかせながら、眠るがくぽをきりっと見下ろした。
「任せてね、がくぽ。俺がお疲れ、全部取ってあげるからね!」
力強く宣言してから、カイトはわずかに天を仰いだ。
「……………でも、俺がもらった『これ』って、どうしたらいいんだろう…………?」
見切り発車は危険だ。
その程度の分別はあるカイトは、眠るがくぽを見つめ、熱の収まらない体をもぞつかせながら、考えに沈んだ。