アイスケーキを買った。

ほとんど衝動的な行動だ。おそらく家族のだれかしらが用意するだろうとは思って、それでも買ってしまった。

前日譚

アイススプーンを買った。

今さらだ。家にはカイトのために、コレクションかと思うほどに、アイススプーンがある。

それでも雑貨屋で見つけた、柄がくまさんになっているそれを、買ってしまった。

アイス用のグラスを買った。

どうしろと。アイススプーンと同じく、家にはアイス用のグラスが、これでもかとある。

それなのに、五個ひと箱の、青色が美しい切子細工のそれを買ってしまった。

ついでに、アイス用の平皿も買った。

同じ店で、揃いの模様で売られていたそれは、アイスを乗せたらさぞかしきれいに映えるだろうと――だから、食器棚にはスペースに限りが。

アイスの携帯ストラップを買った。

手作りアイスのレシピ本を買った。

………

……………

…………………

アイスクリームメーカを買おうとしたところで、さすがにマスターが止めに入った。

がくぽの部屋で正座して相対し、がくぽがここ最近、買いに走ったプレゼントの山を脇に積んで、いつもは朗らかなマスターも、さすがに渋面だった。

そしていつもなら、ふんぞり返ってマスターへ説教する側のがくぽが、しゅんと項垂れていた。

「がくぽさん、暴走です。なんというか、迷路を爆走です。私としては、迷路の壁を突き破ってから、快走しなさいと言いたいです」

「…」

言いたいことが、微妙にわかるようなわからないような。

迷路の壁は突き破って進むものではない。きちんと順路を辿って、脱出するものだ。

迷路の中を闇雲に爆走していることは、認めざるを得ないが。

「がくぽさんのおこづかいですからね。ご自由になさいと言いたいことは言いたいですが、ご自分でもわかっていますよね買ってしまったものは無駄にはしませんが…」

「…………済まぬ」

殊勝に謝罪を吐きだしたがくぽに、マスターはため息をつく。

「順番を間違えていますよね?」

「…」

「お分かりでしょう。これ、買ったはいいけど、渡せませんよね。思いつくままに、滅多やたらと手を出しましたよね。どうしてそんなことになったか、考えましたか」

「…」

諄々と諭すマスターに、がくぽはくちびるを噛む。

すべてマスターの言う通りだ。

買ったはいいが、渡せはしない。

これだけの量を渡すのはいかにもおかしいし――そこから、自分がなにか思うことがあるように取られることも避けたい。

だからここにある、山と積まれたプレゼントはすべて、渡す当てもない無駄な買い物で。

それでも、見かけると衝動的に買ってしまう、その根源にある感情は。

「打開策は見えているはずなんですが」

「見えぬ」

「…」

強情な声音で吐き出したがくぽに、マスターは口を噤む。

いたたまれないだけの沈黙が落ちて、けれどがくぽは懸命にくちびるを噛んでいた。

マスターの言う打開策は、あまりに現実味が薄く、あまりに実現性が低かった。

がくぽが恋心を抱いて悶える相手は、対外的には兄だ。

自分はおとうとで、ふたりの関係はきょうだい。

カイトはがくぽのことをかわいいと愛してくれるが、逆に言って、かわいいと思うのはなにより、おとうとだからだ。

きょうだいだと思えばこそ、ああも無邪気に愛情を注いでくれるのだ。

ひとりの男として、劣情を抱ける相手として見ていての、態度ではない――それもそのはずで、がくぽもカイトもそもそもが、男同士だ。

男同士できょうだいで、なにより気の置けない相手。

劣情を抱く相手として見る素養が、さっぱりない。

さっぱりないはずなのに、がくぽのほうは、そうとしか見られない現実。

カイトの言動ひとつひとつに、希望を見出し、絶望に叩き落され、――

本来なら、そんな相手ではないのだ。

頼りない兄だと時に謗り、意外にも強いのだと時に尊敬し、そうやって研磨し合う。

「………………ほんとに、見えてないんですかねえ……」

「…」

小さく吐き出される言葉に、がくぽは顔を逸らす。

そのがくぽをなんとも言えない顔で見つめ、マスターはくるりと瞳を回した。

恋は盲目だ。

それは相手の欠点が見えなくなっているときに使われるが、つまり、相手がなにを考えているのかが正確には掴みとれなくなってしまっていることを示してもいる。

なにより、恋するがゆえに。

もはや知らぬは当人たちばかりという状況で、それでも「恋は盲目」なのだ。

がくぽの情報処理能力の高さは、これまでの仕事や日常生活の中できちんと発揮され、遺憾なく振るわれている。

それでも、相手のこころが見えない。

疾しさに歪む、あまりに正当さを求める思考ゆえに。

「……………………あれ、それってなんか、私のせいっぽくないですか」

マスター?」

「いやいやでも、世の中そんなにきれいなもんじゃないですよー的な教育方針でやって来たはずなんですけど…………」

「マスター?」

ロイドの思考傾向は、マスターに引きずられる。

マスターが自堕落ならロイドも自堕落に、マスターが禁欲的なら、ロイドもまた。

上位者として常に認識し、無意識にも行動を追うがために、ロイドは鏡のようにマスターの真実を映し出す。

「ええー……………私ですかぁ…………」

悩んでぶつぶつ言いだしたマスターに、がくぽは強情に逸らしていた顔を戻して、首を傾げる。

そのがくぽを、マスターは真剣に見つめた。

「がくぽさん、ひとつお訊きしますけれど…」

「なんだ」

まじめに見つめられ、まじめに見返したがくぽに、マスターはちょこりと首を傾げた。

「世界って、きれいですか?」

「………」

今までの会話とどう繋がる質問なのか、意図が不明だ。

からかわれているのか、それとも真剣なのか図りかねて一瞬沈黙したがくぽだが、じっと見つめるマスターの瞳に押されて、頷いた。

「きれいだ」

「ああーぅ………………っ」

一瞬躊躇っても、結局迷いもなくきっぱりと吐き出された答えに、マスターは身を折って畳に突っ伏した。

「マスター?」

「私ってそんなに青臭いですかぁああ……………っ」

「なんの話だ………」

なにやら衝撃を受けたらしいことはわかっても、なにを意図しているのかが不明だ。

呆れて肩を落としてから、がくぽは居住いを正した。

「もちろん、世界がきれいなものだけで出来ているとは思わぬ。中には汚いもの、醜いもの、悪たるものがあることも理解している。しているうえで、その中には確かにきれいなもの、うつくしいもの、善たるものが存在していることも事実。そうやって、清濁あわせ持ち、一側面では図れぬその世界を、きれいか汚いかで答えろと言うなら――きれい、でいい」

「…」

畳に伏せたまま、恨めしげな瞳だけ向けたマスターに、がくぽは気まずく口を噤み、顔を逸らした。

躊躇って逡巡して、くちびるを空転させ、それでも。

「清濁あって、混沌たる世界でも、かの人が笑うなら、その世界はきれいだ。その世界はうつくしい。その世界は善だ。かの人さえ笑うなら、俺は世界のすべてを肯定しよう」

「…」

躊躇っても逡巡しても、きっぱりと言い切ったがくぽに、マスターは再び畳に伏せた。

その肩が震えている。

「…マスター」

「いえ、なんというか」

責めるがくぽの声音に、案の定、笑っていたマスターが、身を起こす。

「ロイドってほんと、容赦なく、自分を映す鏡だなと思って」

「…」

胡乱な瞳を向けるがくぽに、マスターはまだ笑ったまま、目尻に浮かんだ涙を拭った。

「そうです。あの人が笑うなら、それが善というものです。だれにとって悪と見えようと、だれにとって欺瞞となろうと、あのひとが笑うこと、それがすべてです」

がくぽの言ったことをくり返し、けれどそれより遥かに力強くきっぱりと、マスターは頷いた。

「その世界こそが正であり、逆転するなら負です。確かに、見事に私の教育方針そのまんまですね」

「………」

かえって納得のいかない顔になったがくぽに、マスターは肩を竦めた。

「仕方のないことですよ。足掻いたところで、ロイドとマスターってそういうものです。でも、私は知っています。ロイドは奇跡を起こせる」

「…」

ますます胡乱な顔になったがくぽを、マスターは真剣に見つめた。

「カイトさんが見せてくれましたよ。何度もね。私の恋が絶望的で、底辺にまで沈んだとき、浮かび上がらせてくれるのはいつでも、カイトさんが見せてくれる奇跡です。あの子が意識もせずに閃かせる奇跡が、私を希望へと導く」

「…」

凝然と見つめるがくぽに、マスターは頷いた。

「あの子は私の誇りです。あの子のすべてが、私にとって誇らしい」

それは、彼女が所有するロイドすべてに、常に与えられる言葉。

マスターは微笑んで、咄嗟にくちびるを噛んだがくぽを見つめた。

「私の誇る子ですよ、カイトさんは。気合いをお入れなさい。ただ漫然と想うだけで時が過ごせると考えるなら、まだまだ現状分析が甘い。そんなことでは、この先とても、渡って行けませんね」

「っ」

反射の負けん気で瞳を尖らせるがくぽに、マスターは手を伸ばした。上のほうにある頭を子供相手のように撫でると、抱き寄せる。

「あなたもまた、私の誇りです。あなたのすべてが、私にとって誇りなのですからね。胸を張りなさい」

「…」

耳に吹きこまれた言葉に、がくぽは瞳を揺らした。

小さい子のように扱われることに、山ほど文句があって――けれどどうしても、緩やかにほどけて、安堵するこころが否定できない。

がくぽはマスターの胸に擦りついて、小さく洟を啜った。