「がくぽさん!」

「っ」

声を掛けられるだけで済まず、肩を掴んで揺さぶられて、がくぽは我に返った。

頭からぽたぽたと雫を垂らしたマスターが、がくぽを覗きこんでいる。

きみがいない-02/がくぽ-

「いくらなんでも、そろそろ寝たほうがいいですよ。朝が早いわけではありませんけど…」

「あ…ああ」

言われて、時計を探す。壁に掛けられた安っぽいつくりの時計は、十一時を過ぎていた。

確かに、家にいたなら寝る時間だ。

現在、がくぽは出張中だ。

一日目の仕事を終えてホテルに戻ってきて、シャワーを浴びた。寝間着に着替えて――それからしばらく、記憶が飛んでいる。

機能が停止していたというわけではなく、深く考えこみ過ぎて時間の経過を忘れていたのだ。

ツインの部屋の、扉側のベッドに座ったがくぽの手には、携帯電話が握られている。

これはがくぽ個人のものだ。マスターは所有するロイドすべてに、各人一台の携帯電話を与えている。

そうやって渡された携帯電話にはいちばんに、家族全員のナンバーが入れられた。マスターから始まり、リンレン個々人まで。

そしてもちろん、カイトのものも。

とはいえがくぽはこれまで、帰る時間が変わるというメールを入れたことがあるくらいだ。

そういった用事抜きで、今なにしてるなどといった、コミュニケーションツールとして使ったことはない。

「旅先でも、生活時間は出来るだけ保持したほうがいいですよ」

シャワーを浴びてそのまま髪を拭かないマスターは、水滴を垂らしながら備え付けの冷蔵庫へと歩いていく。

その姿を渋面で見送って、がくぽは携帯電話をベッドに置いて立ち上がった。

シャワールームからバスタオルを取って来て、缶ビールを持って椅子に座ったマスターの頭に被せる。

「のわ?!」

「自宅ではないのだぞ。もう少し気を遣わぬか」

女性ではない悲鳴を上げたマスターの髪を、乱暴に拭いていく。

管理が出来ないなら短くしろと言ったことがあるが、それはだめだと、メイコとカイトに悲壮な顔で反対された。

短くすると寝癖がつきやすくなるが、マスターには寝癖を直すという、基本的な身だしなみがないのだ。

長ければ、後ろで括ってなんとでも誤魔化せる。手櫛ひとつでなんとかしてみせる。

しかし、短い髪では誤魔化しようがない。消去法でいって、これしか方法はない、と。

「…」

そのときのカイトの、あまりに悲壮な顔を思い出して、がくぽはベッドの上の携帯電話へと目をやった。

朝、カイトは早起きをして、気合いの入った朝食をつくってくれた。

そして出かけるときも、元気のお守り、と言って、ハグとキスを。

出かけるときのハグとキスほど、がくぽを動揺させるものもない。挨拶のスキンシップの習慣がないがくぽにとっては、ひたすらに気恥ずかしく、ひたすらにいたたまれない儀式なのだ。

けれど、今は後悔している。

もっともっと時間を掛けてハグしてもらえばよかったし、キスも雨あられともらえばよかった。

「興奮し過ぎは体に毒ですよ」

動きの止まったがくぽの腕の下から逃れて、ビールのプルトップを開けたマスターが言う。

「これはリンさんとレンさんの場合でしたが、あのふたりはそれこそ、はしゃぎ過ぎてしまって、次の日に倒れかけました。いや、しみじみと大変でしたね普段、子育てを妻とお母さんにまかせっきりにしておいたツケを、存分に払いましたよ」

「妻と母親とはだれのことだ」

ほぼほぼ予想はつきつつも、一応ツッコんでおく。

マスターは女性だ。妻のいるはずがない。

しかも、お母さん、で差されているのは、予想する限り、男だ。

「言うまでもないことですが…。まあ、とにかく、はしゃぎ過ぎはいけません」

「…俺をいくつだと思っている」

逆に嗜める口調で言われて、がくぽは瞳を尖らせてマスターを見下ろした。

缶に口をつけて呑んでいるマスターは、ごくまじめな顔で首を傾げた。

「初めてのお泊りだと思っていますが?」

「…」

不本意だと顔に大きく書いたがくぽに、マスターは笑う。

「初めてのことに、年なんて関係ありませんよ。いつだってどきどきするし、わくわくするし、びくびくします。それで正しいんですよ。むしろそうでなければいけません。そういう興奮から、ビギナーズラックとか言われる、伝説級のものが生まれていくんです」

「…」

黙って言葉を転がすがくぽに、マスターは肩を竦める。

「だからといって、興奮し過ぎてもいけません。そこで我を失うようでは、伝説級のものなどつくれませんね。あくまでも、冷静さと客観性を失わないことが大事なんです」

「難しいことを」

「言いますとも。理想は高く持ってなんぼです。低い理想になど価値はない」

きっぱり言い切ってからビールを呑み干し、マスターはがくぽのベッドを見やった。

その上に放り出された、携帯電話を。

「さすがにもう、カイトさんは寝てしまったでしょうかね」

「…っ」

がくぽがなにを考えていたかなど、お見通しのうえでの会話だったらしい。

「それでも、メールのひとつくらい、入れておいてもいいと思いますけどね」

「…別に」

ぶっきらぼうにつぶやいて、がくぽはマスターと携帯電話から顔を逸らす。

ミクとリンからは、仕事が終わる頃を見計らって、メールが入れられていた。他愛もない話だ。

どうしてる泣いてない?

そんなことを、絵文字も愉しそうに訊かれた。

返信しないと怖いので、適当に打ち返しはしたが――訊けなかった。

カイトは、今、どうしていると。

がくぽの気持ちに気がついている妹たちが、カイトの様子を書いて来ないのは、わざとだ。確信を持って断言できる。

がくぽから訊かせたいのだ。カイトはどうしていると。

うかうかと乗る気はない。

訊いたが最後、どう弄ばれるか、地獄が簡単に想像できるというのに。

――けれど、訊きたかった。

カイトは、今、どうしている?

今日一日、自分がいなくて、どんなふうだったと――

カイトからメールを寄越さないのは、あれでいて彼もれっきとした男だという証だ。そういうところに気を回さないのだ。

いや、もしかしたら――

「考えるくらいなら、行動したほうがましですよ」

「…」

がくぽは顔をしかめた。

もしかしたら、カイトは、口うるさく言ってくる相手がいなくて、羽を伸ばしているかもしれない。

そこに、自分からのメールが入ったら、――

「だから、考えるより行動ですって」

「放っておけ」

放り投げるように言って、がくぽはベッドへと戻った。

携帯電話を取ると、枕元の棚に置く。アラームがセットしてあるから、遠くへと投げ捨ててしまうわけにもいかない。

乱暴なしぐさで布団に潜りこむ。

マスターのため息が聞こえて、ますます苛立った。

「電気を消しましょうかね」

「気にするな。そんなもので寝つけないほど、やわではない」

立ち上がるマスターに言葉を投げて、目を閉じる。瞼越しに、部屋の照明が落ちるのがわかった。

ロイドの就眠時間は十一時だが、マスターは宵っ張りだ。いくら出張初日で疲れていても、まだ眠れる状態ではないだろう。

「マスター」

気遣いされればされるだけ苛立って声を荒げたがくぽの頭を、傍らに立ったマスターがやさしく撫でた。

「カイトさんが、初めてお泊りに出かけたときのことを、話しましょうか」

「…」

現金にも、がくぽはそれ以上、罵れなくなった。

瞳を開けば、非常灯の薄明りの中で、マスターが笑っているのが見える。

「おやすみのキスはしてあげられませんけど、おやすみのお話くらいはできるマスターです。――それとも、キスがいいですか?」

「止めろ」

壮絶な顔で拒んだがくぽに、マスターは声を立てて笑った。