きみがいない-03/カイト-

リビングに放り出していた携帯電話を覗きこんだミクとリンの口から、ほとんど同時に舌打ちが漏れた。

「あんの意地っ張りが…っ」

「あんの○○○○○野郎…っ」

「…」

リンのつぶやいたアレな一言に、ミクは我に返る。

んんんっと咽喉を鳴らして、時として姉以上に容赦のなくなる妹の携帯電話を覗きこんだ。

「おんなじ?」

「ミク姉も?」

リンもミクの手元を覗きこむ。

リンに見やすいように液晶の角度を変えながら、ミクは表示された素っ気ないメールを読んだ。

『大過ない。戸締り用心せよ』

ミクの画面も、似たりよったりだ。

『恙ない。ガスの元栓に気をつけよ』

大差ない意味の文面が几帳面に違うのは、同じものを送りつけたが最後、妹たちにしばきあげられることを学習しているからだ。

しかしこの場合、大変無駄な配慮と言える。むしろ、怒りを煽る結果になるというか。

肝心のことを訊いてこない時点で、失格なのだ。

「帰って来たら、簀巻きだね」

「ふんどしマラソンの刑だよね」

――その刑を執行したが最後、警察に捕まるのは、メールの送信者であるがくぽではなく、執行者の少女たちでもなく、その所有者であるマスターだ。

今朝からがくぽが出張だ。ひとりきりではなく、マスターといっしょに。

期間は二泊三日。

出かける先は日本国内だし、大したことではないが、初めてのお泊りだ。

これがロイドにとって、意外と難関だったりする。ミクもリンも、レンのことなど言えない。

ひと騒動どころでなく事件を巻き起こして、伝説をつくって帰って来ている。

聞いたことはないが、おそらくメイコとカイトにしたところで、似たりよったりだろう。

「…ちくそう」

ミクが懲りずにつぶやく。

伝説が、今まさに、がくぽと関係ないところでつくられている。

いや、正確に言って、がくぽと関係ないということはないだろう。ほぼ、あの男が原因で。

「めーこめーこめーこぉおおおお!!!」

なんの鳴き声だ、なレンの悲鳴が家の中に響き渡り、次いで、

「かぁああいぃいいいとぉおおおおっ!!今日は湯船に近寄るなって言ったでしょぉがぁあああ!!」

「…」

遠くからメイコの絶叫が轟いて、ミクとリンは顔を見合わせた。

「…また?」

「まただね…」

表情を曇らせる妹を慰める手段もなく、ミクも力なくつぶやく。

彼女たちの偏愛する兄、カイトに異常事態だ。

朝は普通だった。少なくとも、仕事に出かけるまでは。

朝食は朝とは思えない気合いの入りっぷりで、今日から出掛けるがくぽの好物ばかりを並べて。

いざ出陣、のがくぽを、新婚さんかなツッコミ待ちとしか思えない、熱烈なキスとハグで脱力させて送り出した。

自分の身支度を整えて、仕事に出かけて――そこまでは、いつもどおり。

そしていつもどおりに家に帰って来て、――カイトは、もはや現実とは思えないドジっ子ぶりを披露した。

普段、おっとりぽややんとしていて、ひどく頼りなく見えるカイトだが、これでいてドジっ子属性はない。

意外にも一家の『主婦』として、それもカリスマ主婦として立てるくらいの手際のよさを発揮して、見るものを落胆させるのが得意なのだ。

それが、新婚さんの新妻さんでもここまでではありませんよなドジっ子ぶりを衝撃披露。

このまま動画サイトへ、リアルドジっ子見参とでもタイトルをつけて投稿したら、やらせだと非難轟々されるくらいだ。

「今日はもう、おとなしくしていて!!」

と、最後には、豪胆さで売る家族全員が叫んだ。

結局、ひとりで行動させるのがあまりに不安で、同じ男であるレンを、風呂にトイレにとどこまでも張り付けているのだが。

あのお子様を張り付けていても、アラートの役目しかしない。

「ないよりましだよ」

リンが、フォローになっていないフォローを入れる。フォローになっていなくても、一応フォローするのは、さすがの双子だからだ。

「とはいえ、一日目でこれってどうなの」

「そうだよね、いちんちめだよ…」

ミクの指摘に、リンが途方に暮れてつぶやく。

この事態を、マスターには相談していない。そういう判断をするのは、メイコの役目だと決まっている。

そしてメイコは、滅多なことではマスターにアラートを送らない。彼女の仕事をどこまでも尊重し、決して邪魔しないのが、ベーススタイルなのだ。

とはいえ妹たちは、すでに音を上げそうだ。

大好きなおにぃちゃんが、傷だらけになっていくのを見るのはしんどい。

「あ、おにぃちゃん…」

「って、危ないよ!!」

髪の毛からぽたぽたと雫を落としながらリビングに入って来たカイトが、なんの目算を誤ったのか、ソファの背に激突して倒れこむ。

いくらおっとりぽややんとしていても、そこまでのぼんやりさんではない。

「あたた…」

「ちょ、大丈夫?!筋平気?!」

駆け寄ったミクとリンに、ソファの上にひっくり返ったカイトは、いつもと変わらずに笑った。

「うん、へーきへーき」

「ほんとに?!」

「へぇきなわけあるかあ!!」

叫んで、カイトを追いかけてきたらしいメイコが、バスタオルを投げつける。

「ちょっとあんたたち、髪の毛拭いておいてカイト、あんたはもう、ほんとにおとなしくしてなさい!!」

気の強いメイコだが、こうまで激昂することは珍しい。

そのまま、メイコは足音も荒く戻っていった。おそらく、後始末が残っているのだ。

ミクとリンは顔を見合わせてから、へらへら笑う兄を見やった。

「なにしたの?」

「浴槽で溺れました」

答えたのは、疲労困憊の風情でやって来たレンだ。

「湯を抜いておけば良かった……でも、湯が入ってなかったら浴槽に激突して、それはそれで大惨事……」

なにがあったか、なんとなく理解した。

おそらく、タイルで滑って浴槽にダイブしたのだ。

「…おにぃちゃん……」

悄然と見る妹たちに、カイトは笑いながら首を傾げた。

「変だね。どこもおかしくないのに……。今日ってなんか、すっごいぼんやりしちゃう」

「…」

すっごいぼんやり、の言葉で済む域は、すでに出ている。

これだけ傷をつくっておいて、なんでこうものんびりと笑っているのかとか。

考えると、ひどく怖い。

「あのさ、おにぃちゃん…」

さすがに堪りかねて、ミクは兄としっかりと視線を合わせる。

いくら悪魔を飼っていても、結局は兄想いの妹なのだ。おもしろがれる状況も超えているし、これ以上はおなかいっぱいだ。

「いい加減、なんか、こころ当たりないその、すっごくぼんやりしちゃう…」

というか、自覚しろと言いたい。

事態はすでに、ぼんやりのドジっ子では済まない。このままでは、ラボに入れられて総合メンテナンスに掛けられるような緊急事態なのだ。

「うーん」

かわいい妹にきりりと睨まれて、カイトは首を傾げた。

「ないね」

「おにぃちゃん……っ」

へらりと笑って答える兄に、ミクは殺意に似たものを覚えた。

どう考えても、へらへら笑ったままの兄が、真剣に考えたとは思えない。

というか、どうしてそう、笑ったまま。

「そういや、メールの返信は来てたのかよ?」

レンが渋面でリンに訊く。

ミクと兄を心配そうに見つめていたリンが、怒りを思い出して憤然と画面を開いた。

「がっくがくでしょ?!来てるよ、いっつもどおりだけど!」

「っっ」

カイトが、びくりと固まる。

唐突に機能が停止したかのような反応で、弟妹たちはぎょっとして身を竦ませた。

「…いつも、どおり?」

空漠の表情で、カイトがつぶやく。

リンはさっきまでの怒りを忘れてレンにしがみつき、小さく震えながら携帯画面を兄に差し出した。

「うん………ほら」

「…」

カイトが液晶を眺める。

ひどく重い沈黙が流れて、弟妹たちが恐慌状態に陥る寸前に、カイトはソファに伸びた。

「「「おにぃちゃん?!」」」

叫ぶ弟妹たちに、目を閉じてだるそうにしているカイトは、それでも小さく笑った。

「うん、へーき。なんでもない………」

「…っっ」

だから、平気なわけも、なんでもないわけもない!

「頼むから、自覚してぇ……」

ミクのつぶやきに、リンも頷き、いつもは反対の立場に回るレンも同意した。

頼むから、自覚してくれ。

がくぽがいないことが、精神的に堪えているのだと!