携帯電話に手を伸ばす。

手に乗せて、メモリを呼び出して。

そこで止まる。

きみがいない-04/がくぽ-

止まって、また置いて、けれど気がつくとまた手が伸びて。

「…いい加減」

スタジオの片隅に立ったがくぽは、自分で自分にうんざりして、渋面でつぶやいた。

暇な時間が出来るたびに、同じことのくり返しだ。

朝起きてから、今まで、何度同じ動作をくり返したか、もはや数えることも億劫になった。

仕事の中身は、おもしろい。

企画書を見たときから、おもしろそうだと思った、その期待をまったく裏切ることはない。

自分のためになると言ったマスターの言葉もわかるし、苦痛などなにもないのだ。

なにもないのだけれど――

そこに、いない。

ほわわんと笑って、「たのしいね!」と言ってくれるひとが。

愉しかった、とつぶやいて、「よかったね!」と笑ってハグしてくれるひとが。

いないいないいないいないいない――

出張なのだからそれも当たりまえだし、明日には帰って会うのだ。

そのときに、愉しかった、と言えばきっと、「よかったね!」と笑って抱きしめてくれるだろう。

いくらでも話を聞いてくれて、それ以上にうれしそうに話すだろう。

全部、他愛もない話だ。

けれど、なによりもその、他愛ない話が聞きたい。

いや、声が。

おっとりと間延びした、やさしくやわらかなあの声を、聴きたい。

あの声に、名前を呼ばれたい。

――がくぽ。

やわらかに、くるみこまれるように口の端に乗せられる、自分の名前。

――がくぽ。

いつでも愉しそうに、うれしそうに、くちびるからこぼれる、自分の名前。

朝起きてから、一度も聞いていない。

いや、夜眠るときにも。

頬に触れる、つややかなくちびるの感触。軽く撫でて、耳元に吹きこまれる、言葉。

――いい夢が見られますように。

愛されているのだと、無条件で信じられるような、あたたかな声。

それがどんな愛であっても、もういいと思う。

ここに存在しない、そのことを思えば。

「…」

携帯電話を眺める。

何度も呼び出して、使われることのないナンバー。

電話をして、彼が出て。

声を聞けば、もう、その距離を耐えられる自信がない。

その声に、わずかでも不快が混じっていたなら、身も世もなく泣き喚くだろう。

「だから、考えるより行動だって言ってるんですけど、がくぽさん」

「…」

いつの間にか傍らに立っていたマスターが、怒っているでもなく、呆れているでもなく、がくぽを見つめる。

「考えるのは悪いことじゃありませんけど、考え過ぎはだめですよ。行動してみてなんぼのことも多いんです。やってみたら、意外となんでもなかったってこともありますしね」

「…行動、か」

「そうです、行動あるのみです」

つぶやくがくぽに、マスターは軽い調子で頷く。

「それでいいのか、マスター?」

「…」

大抵のことには即応する減らず口が、一瞬閉じる。

がくぽの問いの意味を吟味する間があって、マスターは天井を仰いだ。

「いいか悪いか、私は決めないんです」

静かに言って、マスターはいつものとおりに笑った。

「確か、前にも言いましたよね。そんな問いに意味はないんですよ、がくぽさん。私の主義を知っているでしょう。『なるようになれ』です」

「…『なるようにする』、ではなかったか」

「まあ、そういうことも間々ありますが」

悪びれることがないマスターだ。

あっさりと認めて、肩を竦めた。

「私はごく直感的に生きている人間なんです。細かに分析して、理屈を付けて納得しない。パッと見て、気に入るか気に入らないか。それがすべてです」

「不安な話だな」

腐したがくぽをまっすぐに見つめて、マスターはきっぱり言った。

「あなたは気に入りました」

「…」

「私の誇りです。あなたのすべてが、私にとって誇らしい」

上辺だけを舐めている言葉なら、空虚だと笑って捨てられもするのに。

マスターがどこまでも真剣に、こころからそう言っているとわかるから。

応えられずに黙りこむがくぽに構わず、マスターの視線はまっすぐに突き刺さる。

「それがすべてです。私にとってはね」

迷いなく言い切る根拠を説明しろと言えば、「だから私は直感的な人間だと言ったでしょう」と返されるだろう。

がくぽは手の中で弄ぶ携帯電話を見つめる。

掛けられないナンバー。

そこに浮いたメモリ。

考えるより行動しろと言う。

なにをもってしても、自分を誇らしいと胸を張るマスターが。

「マスター」

「はい」

がくぽの知る『彼』は、仕事に関しては決して妥協しないプロフェッショナルだった。

彼に恥じない自分であることは、最低条件だ。

「休憩を失くす」

「…」

「ぎりぎりまで詰めろ。なんとしても今日中に終わらせる」

決心した強い眼差しで告げるがくぽに、マスターの瞳が見張られる。

「いいか、なんとしてもだ。『今日中』に、終わらせるぞ」

「いやはや」

がくぽひとりでやる仕事ならともかく、大勢のスタッフが関わることだ。言葉ほど簡単なことではない。

何人に頭を下げて、どう走り回ったものか、考えるだけでも頭痛がしてくるようだ。

だが、それをやれと強要されて、マスターはくるりと目を回す。

「がくぽさんの行動力って、恐ろしいですね」

それでも、我が儘を言うなと叱りつけることもなく、マスターはがくぽの要望をそうやって受け容れた。

「当たりまえだろう」

肩をそびやかし、がくぽは胸を張る。

「マスターが誇る俺だぞ。これくらい、嗜みの程度だ」