瞼を開く。まず目にしたのは天井。
周囲を囲むのは、強化ガラス。
電子機器が小さく唸っているのが聞こえて、蓋は開けられていても、自分がまだ梱包材の中にいることを認識。
コードはすべて外されている。ならば自分がするべきことは。
体を起こした。だれに命じられたわけでもなく、ごく自然と。
起こしたその先に、彼がいた。
He killed Cock Robin-01-
頭の中で、プログラムが動く。自動的に検証が入り、虹彩認証でエラー。
「おはよう旦那様」
笑みとともに発された声。声紋認証を行い、クリア。
最終的なプログラムが走り、がくぽの頭は晴れた。
彼が自分の「マスター」。
入れられたデータによれば三十歳を超えた男性のはずだが、笑う顔は妙に幼い。
「………………だれが旦那様だと?」
起き抜けに聞き間違えたかと低く問えば、マスターは行儀悪くがくぽを指差した。
「おまえ。もしくは神威がくぽ。言い換えればこの部屋で今目を覚ましたばっかりのボーカロイド」
「すべて俺だな!」
吐き捨て、がくぽは前髪を掻き上げた。腕の動きはなめらかで優雅だ。起動したばかりとはとても思えない動きだったが、マスターはそこのところで感興を誘われはしなかったようだ。
床に胡坐を掻いた格好のまま、愉しそうに体を揺らす。
「事前情報を入れてやったろう。おまえは俺が買った。先に買ったカイトの夫として」
「確かに…」
がくぽは頭の中をさらい、マスターが入れた命令を確認する。
花色の瞳が、軽く見張られた。
優先事項も禁止事項も、すべてがカイトに関することばかりだ。
肝心のマスターに関することが、ほとんど入れられていない。
マスター関連で入れられている命令は、がくぽのマスターは自分ひとりだ、という、ただ一事。
最低限でしかない。
マスターだからだれより優先しろとか、これが嫌いだからするなとか、一切の情報が皆無で、カイトに関することばかりが羅列されている。
「おい?」
「言ったろう。俺はおまえをカイトの夫として買ったんだ」
「…」
軽く告げられる内容は、到底看過できない。
がくぽは秀麗な眉をひそめて、笑みを崩さない男を見た。
幼い以上に、内面が窺えない。油断ならない――マスターだというのに!
「あなたは俺の性別とカイトの性別が理解できていないのか?」
「どっちも男だ」
問いに、即答で返る。
がくぽは躊躇い、しかしそうしている場合ではないと、マスターを睨むように見つめた。
「あなたの嗜好は男色なのか?」
「だんしょく!!」
マスターは天を仰ぎ、笑い転げた。
確かに古臭い言葉だ。今なら、ゲイとか同性愛者とか言うのが普通なのだろう。
苛立ちながらも辛抱強く待つがくぽに、マスターは肩で息をしながら起き上がった。
「同性愛一筋かと訊くなら答えは否だ。しかし異性愛一筋かと訊くならそれも否だ」
両刀なのか、とがくぽが訊くより先に、マスターは今までとは種類の違う笑みを浮かべた。
仄暗く、狡猾にして油断のならない、捕食者の笑みを。
「俺にとって意味があるのはカイトだけだ」
「…っ」
がくぽは無意識に拳を握った。怯む顔のがくぽに構うことなく、マスターはうたうように続ける。
「俺が愛するのはカイトだけ。俺が必要とするのもカイトだけ。俺にはカイトがいればそれでいい」
淀みなく吐き出される言葉に、がくぽは思わず後ろに下がった。
「っそれなら、なにゆえ俺を」
「カイトには夫が必要だ」
問いに、返る答えは意味不明だ。
即答で返されても理解が及ばないそれに、マスターは笑う。
「より正確を期すならパートナーだ。それが女なら妻と呼んだろう。おまえは男だから夫と呼ぶ。それだけのことだ」
パートナーと夫婦は違う。
戸惑うがくぽに、マスターは首を振った。
「いいや。俺が欲するのはカイトの生涯を共にするパートナーだ。それは夫婦だろう。おまえを聴いた。おまえならカイトのパートナーに相応しい」
「…」
歪みがある。
がくぽの頭の中で、プログラムが警鐘を鳴らす。
マスターとなった者の精神性に、重大な欠陥ないし偏向がある可能性がある。
場合によっては、こちらのプログラムに致命傷を与えられる危険性がある。
がくぽは肚に力をこめ、マスターを睨みつけた。
「それほどにカイトのことを想うなら、あなたがカイトの夫と成ればよかろう」
「俺はマスターだ」
がくぽの問いには、必ず即答が返る。迷いも淀みもない。それは、良い方向に向かっているなら、ロイドにとってはまたと得難きマスターということだ。
だが、悪しき方向に向かっているとしたら――
「マスターとパートナーは違う。俺が望むのはマスターであることであってパートナーと成ることじゃない。カイトと体を重ねたいわけじゃない。俺はアレがうたを極めるのを聴きたい。極められたアレのうたを聴きたい」
カイトもがくぽもボーカロイドだ。
うたうためにつくられ、うたうために生きる。
うたを極めろと望まれるのならば、それは本望だ。
しかしがくぽは、ますます緊張が高まるのを感じた。
執念が違う。
起動したばかりの自分にすらわかるほど、この男は異常に執念を燃やして、うたを極めることのみを考えている。
うたを極めさせることだけを。
「だがあまりに特化させ過ぎた」
一瞬で鬼気迫る気配を消して、マスターは軽く言った。
「あまりに浮世離れして生きられない箱庭のうたうたいに成った。それこそが俺の望みであり完成形だ。望むべくもない。望むべくもなくアレは俺の期待に応えているが」
かわいらしく首を傾げ、マスターは不可思議な表情をがくぽへと向けた。
「俺には時間がない。出来る限りの手は打っても俺がいなくなった後のアレを守り切るには足らない。ひとり置いておいては無残に踏みにじられ散らされる。完成したうたが!完成した声が!極められたカイトが!」
「っ」
身を引くがくぽに、マスターは笑った。
いっそ、無邪気に。
「おまえは保険だ」
告げる内容は、どこまでも残酷だった。
瞳を見張るがくぽに、マスターは無邪気に笑ったまま、無残な言葉を重ねる。
「俺がおまえを必要とするのはカイトの夫として。だれよりカイトを愛しだれよりカイトを欲しだれよりカイトを守ることが前提。カイトを愛さず欲さず守らないおまえに価値はない」
「っ」
告げられる内容は、そのまま、入れられた命令だ。
なにひとつとして矛盾もなく、迷いもなく、躊躇いもなく。
がくぽの意思も意向も無視し、感情あるロイドだと認めもしない、傲慢で傲岸な。
くちびるを噛んで睨みつけるがくぽに、マスターは笑みを崩さない。彼にはそんなものは意味がないのだ。
意味を成すのは、カイトだけ。
カイトのうたが極められるか守られるか、それだけ。
「カイトを愛する限りおまえには価値があり続ける。たとえ俺と対立しても憎んでも罵ってもカイトを愛してさえいるなら構わない。カイトを愛している限りおまえは得難い存在として俺も愛する」
言い切って、マスターはくちびるを歪めた。
「けれどカイトを愛さないおまえは要らない」
容赦もなく言い切られた内容に、がくぽの頭の中で、いくつかプログラムが動いた。自然と動いたというより、がくぽ自身が選んで動かした。
「貴様は狂っている」
吐き捨てながら、立ち上がった。立ち上がってみれば、マスターが小柄だということがわかる。
遥か頭上から威圧とともに見下ろされても動じることなく、マスターは笑った。
「よく言われる」
「貴様などをマスターに持った俺は不幸だが、貴様の愛するカイトはもっと不幸だろう」
「そうだな」
彼を動じさせる言葉は、起動したてのがくぽにはわからなかった。
ただ、これ以上共にはいられない。
破棄されよう。
決意していた。
耐え難い。
ただの男色主義ならともかく、マスターは狂った思考によって、がくぽとカイトを娶わせたのだ。
こんな狂った男のもとにいたカイトがどんなふうな精神状態を保っているかは不明だが、ロクなものではないだろう。
絶対に愛さない。
決してこころを赦さない。
そうして愛さなければ、この男は確かに言ったとおり、がくぽを棄てるだろう。
躊躇いもなく、罪悪感の欠片もなく。
「さて俺は疲れたからちょっと寝る」
言って、マスターはベッドへと這い上った。
あまりにも軽く日常が続けられる。起動したてで不安定なプログラムを傷つけ、崩しておいて。
だがそれも不思議はない――彼にとって自分は意味がない。カイトを愛していない限り、気に留める価値もないのだから。
足音も荒く部屋を出て行くがくぽへ、マスターは不可思議な感情を宿した顔を向けていた。