湖面のように揺らぐ瞳が、がくぽの手先を凝視している。

アイスのカップを持った、がくぽの手先を。

He killed Cock Robin-02-

がくぽの手がカップの蓋を開き、中蓋も剥がす。家具らしい家具もないリビングだ。テーブルもないから、とりあえずは床に直接ゴミを置いて、がくぽの手は今度はスプーンを持つ。

カップの中のアイスは固く凍りついているが、先にレンジに入れて、周囲だけ軽く溶かしてある。滑らかにスプーンを差し入れると、中身を皿に移した。

優雅で淀みもなく、まるでソムリエのように絵になる動きだ。

やっていることは、おやつのアイスを皿によそっているという、それだけのことなのだが。

「出来たぞ」

「ありがとうございます」

アイスを盛った皿を差し出すと、カイトは幼いくらいの笑顔を閃かせた。

いつもはどこか近寄りがたく、茫洋と霞んでいるカイトの表情だ。アイスを目の前にしたときだけ、ひどく子供っぽい顔を見せる。

渡してやったスプーンを差し入れ、カイトはうれしそうにアイスを食べる。

がくぽの「妻」であるカイトは、マスターの望みによって、うたうことだけに特化してきた。

それこそ、日常の雑多なことはほとんどまったく出来ない――たかが、アイスカップを開けることすら。いや、それ以前に、冷凍庫を開けることも覚束ず、スプーンの在り処も皿の在り処も知らない。

がくぽが来るまでは、ハウスキーパーである奏がおやつの時間にやって来て、用意してくれていたらしい。

それにしてもここまで出来ない尽くしとなれば、不便な生活だったはずだ。

うれしそうなカイトの笑みを見ながら、がくぽは茫洋と考える。

カイトの「出来なさ」加減は、想像の限界を超えている。

まさにうたうためだけに存在し、それ以外の一切を削ぎ落とした、箱庭のうたうたい人形――

「美味いか」

「はい」

訊いたがくぽに、カイトは素直に頷く。淀みなく食べ進めて、最後のひと匙で止まった。

「旦那様」

「ん?」

「あーん」

「…」

大好きなアイスを、無尽蔵に食べられる環境ではない。三食のデザートと、おやつの一回に、それぞれ一個ずつ。

限られたその最後のひと掬いを、カイトはがくぽにくれる。そういう習慣が出来たのは、想いが通じ合ってからだ。ある意味、とても素直な態度だと思う。

とはいえ、そんなことはしなくてもいいと言ったのだが、カイトは毎回、同じように差し出す。

それが、これまで不便を強いられてきたカイトの歓びを表した感謝の態度なのだとわかるから、最近は拒むこともなく、素直に口を開くようになった。

「おいしいですか?」

「ああ」

濡れたくちびるを舐めながら頷くと、カイトはますますうれしそうに微笑む。

無邪気な笑顔だ。

だが、この笑顔もアイスを前にしたときだけで、あとは大抵、茫洋と霞んだ表情をしている。

笑っても、どこかしら遠くにいるような。

会話が会話にならないのは常態で、わずかな意思疎通にも苦労する。

それでもなんとか話が出来るのは、ほとんどががくぽの、類稀なる情報分析能力に依るものだ。ほんの少しでも型落ちすれば、妻と意思疎通を図ることは永遠に出来なかったかもしれない。

愛さないと誓って、マスターの部屋を出たのだ。

覚悟は一撃で粉砕された。

リビングの陽だまりに座ってうたうカイトは、性別を超えて美しかった。伸びやかに放たれる声には、表情があり、感情があった。

マスターによって傷つけられ、崩されたこころがくるみこまれ、やさしく慰撫される。

愛さないと誓った。

誓いは粉砕され、反転し、なんのために愛さないかの意味がまったく変わった。

麗しき箱庭のうたうたい。

籠に入れられた金糸雀の、なけなしの自由と尊厳を守るために。

望みもしない、男の夫などというものから、彼を守るために。

――その誓いすらも、共に声を合わせてうたえばきれいに粉砕されて、結局は夫の座に治まってしまった。

自分が信じられないし、赦せない気持ちに陥ることもある。

「………がくぽ?」

「愛している」

「ん…っ」

ささやいて口づけると、いつも以上に冷えたくちびるが応えた。舌を伸ばせば、冷たさとともに爛れるような甘さがある。

「ん………んく……っ」

教え込んだままに応えるカイトの肩を抱き寄せ、腰を引き、床に押し倒した。

「ぁ………がくぽ………っ」

「『旦那様』と呼べ」

「旦那様……ぁ………」

教えたのは、体の応え方だけではない。

どうにもわかりづらいカイトとの意思疎通を図る中で、甘えたいときには「旦那様」と呼ぶように約束した。

そもそもはそこが出発点なのだが、甘えたいときや甘えさせるときにだけ「旦那様」と呼ばせていた結果、カイトはそう呼ぶだけで、甘ったれた気分に陥るようになった。

その気がないと抵抗しても、一言「旦那様」と呼ばせてしまうと、体が勝手に蕩ける。

「ん………旦那様……」

「愛している、カイト」

「ぁ……」

何度も吹きこまれる言葉に応えようと開くくちびるを、がくぽは己のくちびるで塞ぐ。

その言葉だけをずっと、さえずらせていたい気分のときもある。

だが逆に、決してその言葉を聞きたくない気分のときもある。

うつくしく哀れな金糸雀の、なけなしの自由と尊厳。

愛したがためにそれを奪い、踏みにじった自分は、報われてはいけない。

そう思いながら縋るように体を開いてしまうから、最後には笑うしかなくなる。

笑って、どうせ体を開かれるなら、好いた男のほうがいいだろう、と――

勝手極まりない結論に達して開き直るまでは、その言葉を聞きたくない。

「旦那様………」

カイトが腕を回し、服を開いて肌を辿るがくぽの頭をやわらかく抱く。長い髪が梳かれて、撫でられる犬の気分を味わった。

それは幸福だ。

「ん、ね、旦那様…………」

「ああ」

強請る声で呼ばれて、がくぽは顔を上げた。

揺らぐ湖面の瞳が、がくぽを映す。いつもと変わらないつもりで、実際には泣きそうな、情けない顔を。

「……」

言葉もなく見入るがくぽの頭を撫で、カイトは微笑んだ。

「終わったら、あなたのためにうたわせてください」

「……」

「あなたのために、うたいたい気分なんです」

カイトのうたは、マスターに捧げられるためのものだ。どれほどがくぽを愛しても、うたはすべてマスターに捧げられる。

それでもたまにカイトは、がくぽのためにうたいたい、と言うことがあった。

がくぽが、こうして不安定な気分に陥ったときに。

そもそもが感情の機微に疎い旧型機で、そのうえマスターの好みによってうたうことだけに特化したため、まったく空気を読まなくなったカイトだ。

普段の空気を読まないことといったら、さすがに慣れたがくぽでも、たまに項垂れる。

それなのに――どうしてか、たまに。

ひどく肝心な場面で、カイトは隠された感情を読み取る。

読み取って、掬い上げてしまう。

「終わったら、か?」

穏やかに訊いたがくぽに、カイトは垂れる髪を引っ張った。

「だって、今は…………火が点きました。きちんと責任を取ってください」

上目遣いに睨まれ、がくぽは笑った。

抵抗しないのをいいことに散々に体を開き、仕込んだのはがくぽだ。想いが通じてからはなおのこと、カイトの体は敏感に尖って、がくぽを求めて受け入れる。

「うたってくれるのは歓迎だ。だが……」

「ぁっ」

再び体に沈みこんで胸を舐め、軽く齧りついたがくぽに、カイトは甘い声で啼く。

「こうしてそなたが俺に奏でられてくれるのも、歓迎だ」

「ぁ……ぁあ……っ」

カイトが上げる嬌声は、確かにがくぽによって奏でられている。

カイトがうたってくれることももちろん、なにより得難い愛情表現だ。

けれどこうしてがくぽの手を、くちびるを受け入れ――体の奥に証を刻ませてくれることも、なによりの。

開かれた服の中に隠されていた、ぬめるように白い肌を撫で、がくぽは愛しさに微笑んだ。

愛さないと誓った。

意味は反転し、逆転し、そもそもの誓いが打ち棄てられた。

結果としてがくぽはここにまだ存在していて、こうして「妻」の体を組み敷いて味わっている。

破棄されることも厭わないと、思っている。

確かに、カイトを愛さない自分など要らないし――カイトに愛されない自分もまた、要らない。

だからそのときが来たら、破棄されていい。

「カイト、愛している」

ささやいて、がくぽは応えを紡ごうとするくちびるを塞いだ。