高台に向かう公園の道は、人通りもなく、静かだった。
もう夜だ――それに今日は、公園よりも川辺に人が集まるだろう。
それが、狙いでもあるのだが。
The moon's in a fit-01-
「カイト」
「はい」
がくぽは振り返ると、わずかに後ろを歩く奥さんに手を伸ばした。不思議そうに眺められて、苦笑しながら、差し出した手を振る。
「手を」
「……ああ」
ようやくわかったようで、カイトは素直に手を伸ばし、差し出されたがくぽの手を取った。
どこか幼いしぐさで、縋るように握られる。
その手を力強く握り返すと、がくぽは再び前を向いて歩き出した。
地面を擦るような、いつもとは違う、カイトの足音。
「草履なんて、初めて履きます」
家から出るとき、カイトは瞳を瞬かせ、不思議そうにその感触を確かめていた。
寝間用ではない、浴衣。
足には、草履。
古式ゆかしい、「夏」の装いとなって、がくぽはカイトを夜散歩へと連れ出した。
昼間、奏に聞いたのだ――今日は、川辺で花火大会をやるのだと。
「こちらのテラスからなら、人ごみに巻き込まれることもなく、ゆっくりご鑑賞いただけますよ」
がくぽたちが暮らすマンションの部屋には、広いテラスがついている。
優秀なハウスキーパーである奏だ。ここにもきちんと管理が行き届いていて、いつでも外で楽しめるようになっている。
部屋の中には家具らしい家具がないが、さすがに外で、いつでも地べたに座るのは無理だ。
ここにはガーデン用の椅子とテーブルが用意され、天気の良い日などは、がくぽもカイトを連れ出して、そこで食事にしたり、お茶にしたりすることがある。
「川辺で、花火か」
ふと思いついたのが、滅多に家から出ないカイトを、外に連れ出すこと――なにかと口実を探しては連れ出すのだが、夏に入ってからは暑さもあって、連敗が続いている。
とはいえいきなり花火大会の会場では、いくらなんでもハードルが高い。
そこで次に考えたのが、マンションから少し離れたところにある公園の、高台だ。
花火も見えるだろうし、人もそう多くはないだろう。
念のため奏に提案してみると、彼は「いい考えですね」と頷いたうえ、あっという間に外出用の浴衣と草履を揃えた。
実に有能な使用人だ。
慣れない履き物に、カイトの歩みは遅い。
がくぽは急かすこともなく、歩調を合わせて歩いていた。
そのせいで、高台に着いたときにはすでに、花火は始まっていた。
「…………始まっていますね」
「構わんだろう。まださわりというところだ。ああ、ほら、こちらへ来い」
がくぽは繋いだ手を引き、高台に適度な距離を開けて置かれたベンチへと、カイトを誘った。
まったく人がいないということはなかったが、花火鑑賞の穴場ではある。わずかにいる人影は皆、花火を見ているが、子供連れや友人同士より、カップルの方が多いのだろう。
はしゃいで大騒ぎするでもない。狙い通り、穏やかに花火鑑賞が楽しめそうだ。
「座ろう」
「はい」
カイトは落ちるようにベンチに座り、繋いでいた手を解いた。解いた手は隣に座ったがくぽの腕に絡まり、半ば縋りつくように体が寄せられる。
肩に軽く頭が凭せ掛けられて、がくぽは小さく笑った。
凭れた頭にくちびるを寄せ、生え際にやわらかなキスを落とす。さらに擦りついてきた頭に一度、じゃれるように頭をぶつけた。
縋りつかれて自由にならない手でカイトの太ももをあやすように叩き、そうやって宥めてから、絡まる腕を解く。
体を辿るようにして、解いた腕はカイトの腰に回した。
隙間もないほどに抱き寄せると、カイトの手もがくぽの腰に回り、幼いようなしぐさで浴衣を掴んだ。
再びがくぽの体に凭れると、カイトは夜空へ目をやる。
咲き、開き、華やかに散る――轟音と、光と。
「……………きれいですね」
「そうだな」
つぶやきに、頭を寄せたがくぽも頷く。
カイトはくちびるに笑みを刷かせると、さらに旦那様にすり寄った。
上がり、落ち、散り、開く、光の花。
「…」
ふとがくぽは、凭せ掛けていた頭を起こした。肩に頭を乗せている、奥さんの顔を覗きこむ。
「♪」
くちびるが動き、かすかにこぼれる旋律と、詞。
花火の遠い轟音にすら掻き消される、小さなちいさな――
カイトの瞳は夜空を映し、明確な意思を持たない。
おそらくは、自覚することもなく、強く意識するでもなく、ごく自然と。
「……」
うたとともに在る、カイト。
うたうことだけに特化し、その他のものすべてを削ぎ落として――
紡がれるくちびるをしばらくの間見つめてから、がくぽは再び、カイトの頭に頭を凭せ掛けた。
花火を見つめながら、耳はカイトの声に。
がくぽのくちびるが、薄く笑みを刷いていた。
***
最後に大量の花を一度に打ち上げ、花火大会は終わった。
「…………きれいでしたね」
「ああ。見応えがあった」
カイトのつぶやきに応えて、がくぽは凭れていた身を起こした。
いつまでもこうして茫洋としていたい気はするが、どこかで思い切らなければならない。
がくぽが思い切らない限り、カイトから動きを取ることはないだろう。いつまでも茫洋とした、狭間の世界を彷徨っていそうだ。
「さて、帰ろう」
「はい」
少しばかり素っ気ないくらいに言って立ち上がったがくぽに、カイトは抗議するでもない。頷くと、素直に立ち上がった。
「……カイト」
カイトの様子は、いつも通りだった。
しかしがくぽは眉をひそめると、暗闇の中にカイトの全身を眺めた。
なにかがおかしい――?
「どうかしましたか?」
「いや、そなた……」
訊かれて、がくぽは言い淀んだ。
不安は漠然としていて、形がない。
一度首を振って思考を切り替えると、がくぽはカイトへと手を伸ばした。今度は不思議そうにされることもなく、すぐにカイトの手ががくぽの手に重なる。
握り方が縋るしぐさにも似ていて、切なくなった。
「行くぞ」
そんな思いを気取らせることもなく、がくぽは手を引く。
寄り添って歩き出して、違和感の正体に気がついた。
がくぽは空いている手を一度、皺の寄った眉間に当てる。それから唐突にカイトの体を抱き上げると、街灯の下のベンチへと足早に向かった。
空いていたそこにカイトを下ろし、傍らに座る。
「がくぽ?」
「足だ。どうした?!」
「っ」
訊きながら、カイトの足を持ち上げる。
草履を取ると、街灯の明かりに掲げ、つぶさに眺めた――とはいえ、驚くほど明るいわけでもない。微妙なところだが。
「………草履で擦れたか。足を引きずるくらいだ、痛かろうに………。なにゆえ早く言わぬ。そなたをおぶうくらいのこと」
「奏が」
赤らむ場所を見つめて思わず責める調子になったがくぽに、カイトは一言だけ、静かにしずかにこぼした。
それ以上は、続けない。
がくぽは顔をしかめた。
草履を用意したのは、奏だ。
そんなつもりはなくても、それが原因でカイトが――「若さま」が溺愛するカイトがケガをしたとなれば、奏は自分を責めるだろう。
いや、奏が自責の念に駆られるだけなら、まだいい。
問題は、若さま――マスターの反応だ。
時として「狂っている」としか評しきれない、マスターのカイトへの執着であり、態度だ。
いくら小さなころからかわいがってきた奏とはいえ、カイトにケガをさせたなら、どういう態度に出るのか。
思考が飛び過ぎていて予測のつかないところが、忌々しい。
「………とはいえ、このまま黙って帰ったなら、ますますひどく剥けて、言い訳も聞かぬことになるのだぞ?」
「……はい」
「そなたの夫を、もう少し信用しろ」
「……」
カイトは応えずに、けぶる瞳でがくぽを見つめた。
いつも揺らいでいる湖面の瞳だが、今日はそこに、暗闇にすらあからさまな、不安が見えるような気がする。
がくぽは苦笑すると、掲げたままのカイトの足をもう一度見た。
ひどく皮が剥けているというほどではないが、痛みはあるだろう。
「…っ」
「かわいそうに」
「が、くぽっ」
赤くなった場所に舌を這わせるがくぽを、カイトは押し殺した声で呼んだ。