「ちっ」

「え、舌打ちですか?!」

The moon's in a fit-03-

ロイド二人が花火見物に出かけたから無聊を慰めろ、などと誘われて、若さま宅から、若さまと二人きりで花火を楽しんだ奏だ。

奏も鏡音シリーズというロイドを持っているのだが、彼らは彼らで、隣の自分たちの部屋から花火鑑賞をしていた。

奥手ではないはずなのにまったく進展しないマスターの恋路を、積極的にというより、ほとんど涙目状態の必死さで応援するリンとレンだ。

ちびどもも連れて来い、と言われたにも関わらず、「リンとレンも二人っきりで、らぶらぶに過ごすの!」などと、いつもなら使わない理由で二人きりに。

思えばカイトが来てからは、滅多なことでは若さまと二人きりになることもなかった奏だ。

思っていた以上に、積もる話に花が咲いた。

花火の最中もなんだかんだと話をして、終わってからも追い払われないのをいいことに、話し続けて――そんなことは、あまりにも久しぶりだった。

話のネタが尽きることもなく、離れがたいとは痛烈に思いつつも、己の職分に厳しい奏だ。話に一区切りついたところで、夜も遅いのでお暇いたします、と若さまに頭を下げて、廊下に出た。

瞬間に、ちょうど帰宅したがくぽと出くわし、いきなり舌打ちされたのだ。

渋面のがくぽは、背中に奥さんを背負っている。手にはカイトの草履をぶら下げていたが、それは玄関に放り捨てられた。

「がくぽさん、カイトさんは………」

背負われたカイトは、ひどく怠そうで、具合が悪いように見えた。

舌打ちの非礼は脇に置いて慌てて寄ってくる奏に、がくぽはくちびるを歪めると体を引いた。

「夫婦で夜に出掛ければ、気分が盛り上がることもある」

「は?」

尊大に吐き出された言葉に、奏は瞳を瞬かせた。

しばらく考えている間があって、そのきれいな顔が困惑に歪む。

「ええ……がくぽさん?」

確かに夜に出掛ければ、「そういう」気分になることもあるだろう。そうでなくても、仲の良い夫婦だ。常日頃から、夜昼問わず、隙あらばことに及んでいる。

しかし今日、がくぽとカイトが出かけたのは公園で、もうひとつ言うと、飲み物を買うくらいの小銭しか持って行かなかった。

となれば結論としては。

「気にするな。夏だ」

「……」

「暗いしな」

「…………」

唖然とする奏に、がくぽは素知らぬ顔で言う。

その背のカイトが身動ぎ、掴んだがくぽの浴衣を引いた。

「旦那様………」

「んああ……そうだな」

「あ……お風呂ですね。ただいまお支度いたします」

熱っぽくこぼれた声に、奏は己の職分を思い出した。

主人たちがどこでなにをして来ようが、説教したり頭を抱えたりしている立場ではない。その結果なにを必要とし、どう始末をつければいいのかを考えるのが、職分だ。

途端にいつもの優秀な使用人の顔を取り戻し、風呂場へと向かいかけた奏に、がくぽは鷹揚に首を振った。

「良い。入れながら入ってしまう。用意を待つのも億劫だ」

「ですが」

「億劫だ」

「…」

くり返したがくぽが言外に含ませた意味が、わからない奏ではない。

外でどこまで「した」かは定かでないが、体がまだ疼いているのだろう――相応に盛り上がったとしたら、夜を徹することもある夫婦だと知っている。

風呂の準備を待っている間ももどかしく、出来ればこうして、奏と話す間も省いて。

それは出会い頭に、舌打ちもされるだろう。

おそらくは「マスター」に帰宅の報告をすることすらなく、夜に溺れようとしていたはずだ。

苦笑すると、奏は頭を下げた。

「ごゆっくりと」

「勿論」

当然と頷いて、がくぽは顎をしゃくった。

「あとな、マスターにしばらく、風呂場に近寄るなと言っておいてくれ」

「承知いたしました」

もう一度頭を下げると、奏は出てきたばかりのリビングへと踵を返した。

「…………気づかれなかったろう?」

「そうですね」

脱衣室に入ってカイトを床に下ろし、がくぽは悪戯っぽく笑った。

しゃがみこむと改めて明かりの下でカイトの足を手に取り、子細に眺める。

「……大丈夫だ。風呂から上がって手当てをすれば、二日三日できれいになる」

「でも、…………痛いです」

「ん?」

「…」

カイトは表情を晴れさせることもなく、けぶる瞳でがくぽを見る。

すぐには応えずに、がくぽは座ったままのカイトの浴衣を脱がせた。自分もすべて脱いでしまうと、両方とも洗濯籠に放りこみ、カイトへと手を伸ばす。

「立てるか?」

「はい」

「そうか、立てるか…」

「はいっんっ」

緩やかに立ち上がろうとしたカイトを腕に抱き上げ、がくぽは浴室へ入った。

カイトの懸念は、マスターの「耳」だ。視覚に頼らない彼の聴覚は、ひどく鋭敏だ。

カイトがごく普通に振る舞ってみせても、ほんのわずかな足音の違いや衣擦れの音加減で、彼はなにかしら気がついてしまう。

足の赤みは大したこともなく、皮が剥がれたというほどでもない。けれど確かに痛みがあり、付きまとう懸念が、後ろめたさとともにある。

靴下を履いてしまえば、奏のことはどうとでも誤魔化せる。

しかし、視覚に頼らないマスターとなれば――

「…ふ」

「旦那様?」

「いや…」

少し、おかしくもあり、妬けるようでもある。

がくぽは微妙な笑みをこぼして、奥さんを浴室のタイルに下ろした。

他人のことなど、まるで関心がないようなのに――それこそいつも、奏のことを透明人間か空気のように扱って、存在を気にも留めないのに。

彼がマスターに叱られるかもしれない、もしくは嫌われるかもしれない、ということを、これほどまでに気に病んでいる。

がくぽとても普段、奏には世話になっているし、感謝もしている。

だから彼に、故のない痛みも苦しみもなければいいと、いや、幸せであって欲しいとすら思うが。

「そなたにも、情けがあるということか」

がくぽ?」

「気にするな」

よく考えても考えなくても、奥さんに対して相当にひどいことをつぶやいている。

首を傾げるカイトに、がくぽは曖昧に笑い返し、シャワーコックを捻った。

勢いよく流れだした湯を適温にしてから、カイトの体に掛ける。

「ん……」

小さく震えたカイトの体をおおまかに濡らすと、がくぽは自分も湯を被った。

「まあ、案ずるな、カイト」

「…」

けぶる瞳で見上げるカイトを見ることなく、がくぽは湯を止めると、シャワーヘッドを壁に引っかけた。

無防備に座りこむ体を見下ろし、わずかにくちびるを舐める。屈みこむと、無限の信頼を灯して見つめる瞳に舌を伸ばした。

反射で閉じた瞼を舐めながら、放り出されている足を掴む。

持ち上げると、大きく割り開いた。

「が、くぽっ?!」

戸惑う声を上げる奥さんに、旦那様は力強く笑った。

「傷が落ち着くまでの二、三日、歩かぬでも済むようにしてやる」

「ぁ、あ………!」

笑みと同じかそれ以上に力強いものが腹に押し入り、カイトは甘い悲鳴を上げて、頼もしい旦那様にしがみついた。