「ぎゃくたい?!!」
壮絶にドスを利かせた声で叫んだリンに、キッチンにいた奏は額を押さえた。
Peter Piper Picked a...-01-
「リン」
「あ…っ」
カウンターから顔を出した奏に嗜めるように呼ばれて、リンは慌てて口を噤む。手のひらでくちびるを覆い、引きつった顔で傍らを見た。
そのリンの傍らに座るがちゃぽは、無心に新聞紙を折っている。作っているのは兜で、教えているのはレンだ。
レンのほうはわずかに顔をしかめてリンを見返したが、がちゃぽのほうは気を取られた様子もない。角をいかにきれいに合わせるかに、熱中している。
リンはほっと胸を撫で下ろし、改めて居並ぶ人間たちを見つめた。
「マスター」
声が硬くなるのは、仕方がない。
がちゃぽの設定年齢は、五歳――こんなに小さくていとけないロイドが、『マスター』から虐待を受けていたなど。
「ごめんなあ、リンちゃん。あんま聞きたくない話だよなあ」
キッチンに隣接したカウンター席から、陽だまりとなっているリビングの窓辺で遊ぶリンたちに頭を下げたのは、厳つい顔と体で、まるで熊のようにも見える男性だ。
あだ名もそのまま『くま』であるらしく、若さまも奏も、『くまくま』呼ぶ。おかげでさっき聞いたばかりの本名は、きれいに忘れた。
若さまの学生時代からの友人だという、その男の肩書は、ロイド保護官だ。
その名の通り、ロイドを『保護』することが仕事だ。
突然にマスターが死んで行き場のなくなったロイドや、事情があって手放されたロイドを保護し、新しい行き先探しをすることが主な仕事だが、もうひとつ、重要な任務があった。
それが、虐待を受けているロイドの保護だ。
多くの『マスター』が、ロイドを人生のパートナーとするために購入し、ともによりよい生き方を探し、手を携えて歩く。
だが中には、ロイドを新種の奴隷かなにかと考えていて、虐待するために購入する輩もいるのだ。
その虐待の種類は多岐に渡るが、総じて言えるのは、この一言だ。
「胸糞悪い………っっ!!」
「リン………」
少女らしからぬ悪態を吐き出したリンに、奏が額を押さえる。まったくもって同感だが、少女がしていい言葉使いとかそういう、礼儀作法一般を考えて欲しい。
仮にもここは、主家の長男、若さまの家で、もちろん若さまもいて、さらに言うと、リンが熱烈にファンをしている、カイトとがくぽもいるのだ。
同じマンションの隣の部屋に住んでいるとは言っても、奏以外が若さまの家を訪れることは、滅多にない。
リンは隙あらば、ファンをしているカイトに会いに行こうとするが、マスターである奏が赦さない。
主家には、主家に対する態度と線引きというものがある。
そこの意識が強い奏は、軽い気持ちで主家の生活を乱すことを、決して認めないのだ。
だが今日は、その主家である若さまから、リンとレンを名指しのうえで、連れて来いと命令が下った。――とはいえ、若さまはリンとレンのことを『ちびことちびた』、もしくはまとめて『ちびども』と言っていて、名指しとはいっても、まともに名前を呼ばないのだが。
ともかくも、どんな理由であれ棚ぼたラッキーと弾んで訪れたリンに――レンは別に行きたくない。リンがいれば基本、世界は完結している。行くのはとりもなおさず、そのリンが行くからだ――頼まれた仕事が、どういうわけかいた、がちゃぽと遊ぶことだった。
「済まぬな。俺はどうも、ここまで小さな童べの相手となると、どうしたらいいものか、皆目わからなくてな……」
常に自信満々に振る舞うがくぽが、珍しくも困惑した表情で、リンとレンに頭を下げた。
がくぽが見られないというなら、カイトは尚更だ。そもそもカイトに至っては、自分の面倒からすでに見られていない。
「子守唄ならうたえますが」
なにが駄目なのかと首を傾げる妻に、がくぽは軽く天を仰いだ。
ずっと寝かせておくのか。延々と。
逐一ツッコんでいるとキリがないので、言葉は胸に仕舞い、がくぽはがちゃぽをリンとレンに引き渡した。
訳がわからないものの、リンとレンはそれなりに子供の遊びに詳しい。
自分たちが子供だから、というわけではなく、奏が昔の遊びに詳しくて、面白がって習っていたからだ。
そこのところも、若さまには筒抜けらしい。そのうえでのご指名だったのだ。
だがいくら詳しくても、肝心の物がない。若さまのお宅には当然、おもちゃはないし、リンとレンの家にしても同様だ。
がちゃぽの設定年齢は五歳だが、こんなに幼い子供が歓ぶようなおもちゃなどない。
考えた挙句に持って来たのが新聞紙で、これを折り紙代わりにした。
素直な性格らしいがちゃぽは、こんな渋い遊びはいやだとは言いださず、ふたりの教えるあれこれに熱中してくれた。
「かわいい!レンとの間に子供ができるんだったら、こんな子がいいなあ」
リンが夢いっぱいに吐き出した言葉に、レンは脳天を叩き割られた。
それまでどこか渋々と相手していたものを、真剣になって相手をし出す。わかりやすく現金だ。
そうやって遊んでいる間にやって来たのが、先ほどのロイド保護官、熊だ。
「見違えたな!」
入って来るやがちゃぽを見つめて、熊は小さく叫んだ。
「遊んでるぞ?!」
たとえロイドとはいえ、がちゃぽは『遊ぶ』ことが好きな年齢の子供だ。遊んでやれば、それは遊ぶだろう。
なにをこの男はバカなことを、と思って、リンはカウンターにいるマスターたちの話を、聞くともなしに聞いていた。
そうしたら出て来たのが、『虐待』の言葉だ。
「とりあえず、その男はムショに叩っこんだんだが………当の、がちゃぽがな」
厳つい顔に似合わず、熊の語り口はやさしい。傷つけられたロイドのことを心底案じているのだと、素直に感じ取れる。
「やっぱり、精神的な傷が大きくてな………このままだと自壊する可能性があるから、初期化をかけようって話が出てきちゃってな」
「初期化………」
リンは青褪めてつぶやき、がくぽも顔をしかめてカイトの肩を抱いた。
ロイドにとって、初期化とは死に等しい。
それまで培った経験も記憶もなにもかも消されて、形成した『自分』をすべて、なかったことにされる。
初期化後にそこにいるのは、確かに『自分』でも、それはもはや、『自分』ではない。外見ばかりがそっくりな、まったくの別人。
消された己に与えられた傷も痛みも省みられることもなく、新しい個を一から築き直されて――
「俺は、このまんま、不幸なまんまのがちゃぽを『消す』なんて絶対に嫌だったんだ。生まれてきたことを言祝ぐことも出来ないまんまに、ひたすらに痛みと苦しみだけの記憶を抱えて――」
「熊は初期化断固反対派だからな」
苦渋の表情の友人に、若さまは茶化すように言う。
熊は厳つい顔に似つかわしい、剣呑な眼差しで友人を見返した。
「それで、一か月くらい前だな。こいつに相談したんだよ。なんかいいアイディアないかって。こいつは言うこと為すことすべてがおかしいが、たまにそれが、形勢の逆転を生み出すことがあるからな」
「そうですね。→マスターは頭がおかしいですから」
平坦な声で応えたカイトに、→頭がおかしいと断言されたマスターは笑ったが、熊はひどく情けない顔になった。
「相変わらず不憫だなあ、KAITO………!なんか不便してないか。困ってることはないか。こいつムショに叩っこんだほうがいいか」
「熊さん」
矢継ぎ早に訊く熊に、奏が顔をしかめる。
熊はロイド莫迦だ。ロイド保護官のほとんどがそうだが、熊も御多分に漏れない。
天秤は、長年付き合った友人より家族より、ロイドのほうへとあからさまに傾く。そうでなければロイド保護官など続けられないが――
「旦那様がいるので、以前より不便はなくなりました」
淡々としたカイトの答えに、熊は目頭を押さえた。
「くぅう…………!!健気過ぎて涙で前が見えん。このバカ様が、こんないいロイドに恵まれやがって、畜生」
「熊。本音が駄々漏れだ」
友人の態度には慣れている若さまだ。おもしろそうにしているばかりで、怒る気配もない。
「っていうか今は、がちゃちゃんのことだってば!」
リンは小さく叫び、レンに新聞紙の兜を被せてもらって、顔を輝かせるがちゃぽを見た。
自壊するかもしれない、などと言われていたとは思えない。熊が口走るまで、がちゃぽが異常を抱えているなど、想像もつかなかった。
口数が少ないとは思ったが、人見知りしているのだろう程度に。
だが、すべての態度が、虐待で受けた精神的な苦痛に由来するものだとしたら――
「野郎、ち○こ踏み潰しても足らないわ………!」
「リン………」
過激な少女に、奏は涙を拭った。だからここは、主家の長男の家で、まさにその主がいるというのに。
肝心の主家の長男のほうは、明るい笑い声を立てた。
「残念だが踏み潰すものが残ってないぞ。熊が踏み潰しちまったから」
「踏み潰してない」
友人の言葉に、正義を標榜するロイド保護官は渋面で訂正を入れた。
「蹴り潰したんだ。捜査の途中で、うっかり。事故だな。だというのに始末書書かされて、それは大変だった」
「相変わらずですね、熊さん」
渋面ながらも涼しく言う熊に、奏が肩を竦める。
リンは快哉を叫んだが、がくぽとレンは微妙な表情をしていた。
彼らは男だ。同じものがついている。悪人のそれが踏み潰されても同情しようがないが、一瞬想像する痛みが、身に堪える。
同じ男という面ではいっしょのはずなのだが、カイトは涼しい顔だった。
「それで、どうしたんですか?」
話を簡単に流して、己のマスターを見る。
「ああ。ちょうど今こんなちんまいの探しててな。渡りに船だと思って引き取った」
「ひきとった……」
カイトが首を傾げて、つぶやく。
がくぽは眉をひそめて、身を乗り出した。
熊がマスターに話を持って行ったのが、一か月前。
そして一か月後に会いに来た熊は、すでに「見違えた」と言う。
つまり、とうの昔にマスターはがちゃぽを引き取っていた、ということになるが――
「待て、引き取ったと言うが、俺は今日、初めてこいつと会うたぞ」
「そうなのか?」
意外そうな声を上げたのは、熊だ。
ここ最近の習慣で、今日もがくぽはカイトとともに、近所の公園まで散歩に出かけていた。
馴染みのコースを一通り歩いて帰って来たら、すでにリビングにはがちゃぽがいて、詳しい説明もないままに、相手をしろと命じられたのだ。
昼寝をしていたがちゃぽは、起きた瞬間こそ不安げな表情を晒したが、がくぽとカイトを見るとすぐにも愛らしい子供の顔になった。
だから、彼が異常を抱えているなどとは、ついぞ思わずに。
熊は訝しげに、楽しそうな友人を見た。
「『あの』がちゃぽが、たかが一か月でこうなってるとなると、ずいぶんな魔法を掛けたとしか思えないんだが、まさか勝手に初期化を掛けたり」
「おまえが死ぬほど嫌がることなのにするわけないだろうが。そもそもそれが嫌で相談したんだろうに」
友人甲斐のある言葉を吐き出し、若さまは無邪気としか形容の出来ない笑みを浮かべた。
「新しいマスターをやっただけだ」
「おぅふっっ!!」
入れられてもいない拳を鳩尾に受け、カウンターに備え付けられた椅子の上で、熊は屈みこむ。
「ちょ、待て、おまえ…………勝手に、マスター登録更新したのか」
「した」
「『あの』がちゃぽに?!!」
「『あの』ちんまいのに」
「縊り殺してぇな、このバカ様!!」
叫ぶ友人から本気で殺気を感じて、若さまは首を竦める。
「結果は出てるだろうが」
「そうだけどよ………!」
つぶやいてから、熊はがちゃぽを見る。
新聞紙の兜を被って、頬を上気させている姿は、どこからどう見ても普通の子供だ。
想像もしなかった。
たったの一か月で、そんな顔が見られるなど。
「誰だよ。男か女か。俺の知ってるやつか?!」
問い詰められて、若さまは軽く応えた。
「ミキだ」