Four & Twenty Tailors
しくじった、と。
がくぽが気がついたときには、もう遅い。
無言でカイトの瞳が伏せられ、表情は見る間に不機嫌を宿す。
補記しておくなら、会うひとことごとくから『天女』の仇名をいただくようなカイトだ――それはつまり、カイトがどれほど常識から外れて浮世離れしているかということを、もっともうまく、なにより簡単に説明するに、これ以上の言葉がないということなのだが――、『見る間に不機嫌を宿した』と、わかるのはがくぽくらいだ。
カイトの面は澄んで静かであり、くちびるなどは軽く半月型を描いて、笑みを湛えてすらいる。
が、がくぽにはわかる。
そんなことはわかりたくなかった。わかりたかったのは、読み取りたかったのは、それではない。
その前の段階、しくじる前に、カイトの感情を読み取れていれば――
「ぁ、……カイト」
「はい」
なんでしょうと、応えるカイトの声もやわらかだ。くちびるを開いても笑みは崩れない。
しかしがくぽは絶望的な気分になった。目の前が暗くなる。
奥さんがこわい。とても本気で怒っておられる。
そんなことばかりが読み取れても、だ。
なんでしょうと訊かれても、がくぽになにか策があって呼んだわけではない。なにか言えばなにかならないかという、自棄の産物だ。
そして当然、なににもならない。
なぜといって、そもそもがくぽの『妻』であるカイトは、ひとの機微などまるで読まない。なにしろ天女様だ。俗世の凡人の考えなどとは、次元が違うところにいる。だからがくぽは頻繁に、『そなたには情けがないのか』と嘆きもするのだ。
が。
「……っ」
軋む音が立つほどの強さで、がくぽは奥歯を噛みしめた。
言い訳だ。手前勝手に責任を転嫁した、卑怯な考えだ。
確かにカイトはがくぽの考えなど読んでくれないが、気にしていないわけではない。否、むしろ、非常に気にしてくれている。
――と、思う。おそらくだろうというものだが、ほとんど確信に近い。
残念ながら天女様のお気遣いなので俗人には図り難いことが多いのだが、まるで気にも留めないわけではないのだ。
「…っっ」
否、違う――がくぽは再び、奥歯をきつく噛みしめた。
疎通が図れないことで、もっとも苦しんでいるのはカイトだ。なぜならカイトは『天女』ではない。それは揶揄としての仇名だ。あるいは畏敬の。
どのみち仇名でしかなく、カイトの真実はロイドだ。実態は、人間に造られた汎用型ロイドのひとつ、がくぽと同じ――新型ロイドであるがくぽと比べれば、旧型と類されるが――ロイドだ。ロイドなのだ。
新旧の差はあれ同じロイドであるのに、ほとんど疎通が図れない。
→頭がおかしいと結論して、ようやく安定できるような性質のマスターに、全力を懸けて歪んだ愛情を注がれ、育てられた結果だ。
カイトに咎のあることではないし、これまでよくやったと、労わられてもいいのだ。
いいが、たとえば今だ。
カイトの表情には、怒りがある。失意があり、諦念がある。
ひと月ほど前に迎えたばかりの『旦那様』に、受け入れてもらえなかったという。
誤解だと、がくぽは喚きたかった。
誤解だ。読み違えただけなのだ。カイトがそういう気分で、とてもがくぽに――『旦那様』に甘えたい気分だったのだと、読み取ってやれなかった。
今、がくぽにはカイトの感情が読み取れている。だがこれは、言ってみれば勝率の低い賭けだ。
ロイドの中でも高い情報処理能力を売りに、ことに繊細な機微を読むに長けるとされるがくぽだが、カイトの考えを読むのは難しい。難易度をレベルランクに直せば、ラスボス討伐後に解放される裏級や超越級と呼ばれるようなそれだ。
言いたくはないが、起動してひと月だ。いかに能力が高かろうと圧倒的な経験不足の中、ラスボス討伐後のそれといきなり対せよと言われても、無理が過ぎる。
無理が過ぎるが、せねばならない。
なぜならがくぽはこころ弱く折れて、カイトの夫の座に収まってしまった。カイトを妻として、名目だけのことでなく、体も開いた。
会うひとことごとくから『天女』と仇名されようが、一目惚れなのだ。しかも初恋だ。そして溺愛だ。
ざまをみろと、がくぽはたまに哄笑したくなる。誰宛てかが不明なのでやらないのだが。
今もまた、がくぽは哄笑したかった。これは逃避だ。
いつもの、自宅のリビングだ。家具のほとんどない家なので、相変わらず床に座って対していた。
昼食も済んだ今の時間は、ひと通りの家事を終えた奏も自宅に戻っており、夫婦ふたりきり、水入らずだった。
甘えたい放題だ。
――と、カイトが考えたかどうかは定かではない。カイトにとって、マスターとがくぽ以外の他人というのは認識し難いもののようで、誰がいようがその気になれば構わず、旦那様に甘えてくるからだ。
「……ん?」
項垂れて頭を抱え、ひとり反省会に突入していたがくぽだが、そこで思考を過ったものに眉をひそめた。
なにより眉をひそめるのは、思考を過ったなにに自分が反応したのかわからないということだ。
鼻の頭に皺を寄せ、がくぽは自分の思考を辿った。
だから、カイトだ。
がくぽとカイトとは、マスターによって半ば強制的に結びつけられたような夫婦だ。互いに未だ気持ちの整理がつき切らず、関係は微妙に軋んでいる。
そういった軋みや歪みの中で、たまにカイトはひどく旦那様に甘えたい気分になることがあるらしい。
ここは強調しておこう。単に甘えたいのではない。『ひどく甘えたい』のだ。
ただし、カイトの振る舞いはすべてがすべて、難解だ。ひねくれてのゆえではない。ずれ過ぎているのだ。だから『天女』などと仇名されて、異論が出なくもなる。
結果、気を抜いていると読み違える。あるいは、読み落とす。
気がつかずに流してしまい、カイトが愁眉になったところで初めて、自分のしくじりに気がつく――
起動してひと月だ。
もはや馴れて正答率が上がっても良さそうなものだが、どういうわけかここ最近、しくじる回数がむしろ増えている。いい加減、対策を考えないことにはまずい。
これでカイトががくぽに愛想を尽かすとは思わないが、頼れる旦那様として――
「あ」
「がくぽ?」
頭を抱えて丸くなった状態でひとりきり、言葉でもなく、うたでもない単音をこぼし続けるがくぽに、さすがにカイトも訝しげな声を上げる。抱えていた頭をわずかに上げて確認すると、首も傾げていた。
とりあえず、面に先までの笑みはない。訝しさはある。濃く深く、強い。
めでたくはないが、がくぽの奇行で気が逸れたようだ。そう考えると、ますますもって本気でめでたくない。
まったくめでたくないどころか、マイナスへの振り切れ感が絶望的ですらある。
が、いい。
たかがひと月だ。がくぽが起動し、カイトと出会い、夫婦となり、ここまでが。
生まれたばかりで裏級ボス戦に放りこまれた未熟者がやらかした数など、逐一覚えていたら発狂する。
そして、たかがひと月だ。
互いに互いがわからないのは当たりまえであり、だからこそわかり合うための工夫もできるというものだ。
していいはずだ。
「………カイト」
「はい」
姿勢を正し、改めて呼びかけたがくぽに、カイトはまたも、従順に応えた。なんでしょうと、先と同じく穏やかに返してくるが、揺らぐ瞳には訝しさがある。
不可解を湛えて、なにかしら提案しようとしている旦那様を見つめている。
そう、『旦那様』だ。
「夫婦として、頼みがある。ひとつ、約束事をということだが。聞き届けて貰えんか」
「夫婦として、……ですか?」
ずいぶんと仰々しい言いだしに、カイトの瞳がわずかに翳る。思慮深い色を宿し、生真面目に対するがくぽを眺めた。
「なんです?」
聞くとも聞かぬとも言わず、とりあえず言ってみろと促したカイトに、がくぽは一度、緊張を呑んで咽喉を鳴らした。
聞いてくれたなら、実行してくれたなら、今後の夫婦生活――がくぽにとって、非常にこころ強い施策ではあるのだ。
だから、ぜひにもお願いしたい。
お願いしたいが、――
「あー、つまり、だな」
「はい」
閊える言葉を吐き出すための空咳を吐き出して、がくぽは瞼を落とした。
意を決して開くと、カイトを真正面から見据える。ほとんど睨むようだ。つまり自棄だが。
「今後、そなたが俺に甘えたくなったときには、『旦那様』と、呼びかけて貰えぬか」
「………………」
カイトは目を丸くして、がくぽを見ている。咄嗟に言葉もない。
そうだろうそうだろうと、がくぽは深く頷いた。こころの内でだ。表情はあくまでも生真面目に、カイトを見据える。
「『がくぽ』と名前呼びするのではなく、『旦那様』と――俺に甘やかして欲しくなったときだ。俺に甘ったれ、蕩かしてほしくなったなら、な。『旦那様』と」
「…………………………」
カイトは瞳を瞬かせ、わずかに身を引いて、がくぽの言ったことを懸命に考えている風情だ。
然もありなんと、やはり深く共感しつつ、しかし『天女』らしからぬ、こういったあどけない表情もまた愛らしくて堪らないと、やはりこころの内で悶え回っておく。
こういった表情のすべてをつぶさに眺めて咎められないのは、夫としての特権だ。役得だ。
ざまをみろと、やはり誰にかわからず哄笑したくなり、がくぽはまた、空咳をこぼした。
「ぁ……」
がくぽとしては、脱線する自分を戒めるつもりのそれだ。が、カイトからすれば、返事を急かされたように感じたのだろう。
戸惑いながらがくぽを見つめ、躊躇いがちにくちびるを開いた。
「だんなさま、……です、か?その、甘えたいとき、に……?」
――念のため、補記しておこう。今のカイトの言いようは、問いだ。確認のための復唱だ。
もうひとつ、補記しておこう。カイトはこれまでにも、がくぽへ『旦那様』と呼びかけたことがある。
大体が、揶揄含みだ。あるいはなにかしらの意図をもって――ただし、甘えるためのではなく、駆け引きだ。迂闊に乗せられると痛い目を見るという。
だから、これが初めての『旦那様』呼びというわけではないし、もっと言うなら、今はそもそも呼んでいない。
確認で、復唱で、問いだ。
が、がくぽへの効果は覿面だった。
笑みが蕩ける。しくじった夫としての節度を持った距離を保っていた体がカイトへ寄り、のみならず手が伸びた。
「ぁ、……」
躊躇いもせずに腰を抱いた手は、夫相手に抵抗を知らないカイトの体を自分へと引き寄せる。膝の合間に入れると顎を掴んで持ち上げ、間近に顔を合わせた。
「ああ、そうだ。それで?なにを甘えたい?」
「え?ぁの、え?ぃえ、そ………」
重ねられる問いに、カイトはひたすら困惑を深める。補記した通りだ。カイトは呼んでいない。甘やかせと、強請ったわけではないのだ。
構うこともなく、うまく言葉にならないらしいくちびるに、がくぽは軽く、くちびるを落とした。味見でもするように舐めて、湖面のように揺らぐカイトの瞳を覗きこむ。
「そうやって呼んだなら、そなたが思いもしなかったほどに甘やかしてやろうよ。蕩けて形もなくなるほどに、たっぷりとな。強請ることは、なんでも叶えてやろう?だからな。呼んでみよ」
「ぁ………」
すでに甘やかに蕩けきった顔で、がくぽはカイトに畳みこむ。縋ろうと、無意識に上がったカイトの手をがくぽの手が取り、指を絡めて握った。
「がく……」
「違うな?」
「……………」
絡めた指が、あえかに引きつった。衝撃を受けたように強張って、――やがて緩み、がくぽを詰るように握る力をこめる。
熱をもって見つめるがくぽの前で、カイトの表情が歪んだ。瞳が眇められ、くちびるが尖る。拗ねた色だ。
拗ねた、不愉快の表明だが、頬には朱が散っている。瞳は眇められても、覗く湖面に羞恥と期待の相半ばした揺らぎがある。
快哉を叫びたい気分でその様子をつぶさに眺めるがくぽを、カイトは恥じらいを含んだ上目で見返した。
「………だんなさま」
ざまをみろと――
叫びたい相手は、不明だ。実のところ答えはあるが、今はまだ、見たくない。なぜなら腕の中の奥さんがかわいい。
このかわいらしい奥さんを見るために、がくぽの視界は非常に多忙を極めているのだ、今。他ごとにうつつを抜かす暇などない。
「よく言えたな。たっぷりと褒美をやるぞ。どうしてほしい?どう甘やかし尽くしてやろうか――」
愉しげにうたい上げるがくぽへ、カイトは躊躇いがちな、相変わらず不可解を解消しきれていない顔を向ける。
構うことなく、がくぽはカイトの額にこめかみに頬にと、顔中にくちびるを降らせた。支える手が意図をもってカイトの体を這い、尻の下から抜けた足が逃げる意思もない体を逃がすまじと囲う。
完全に包囲され、逃げ場も失った状態で、カイトはがくぽを見つめる。見つめて、くちびるが開いた。
「………だんなさま」
「ああ」
確かめるような響きのそれも絡めとって頷き、がくぽはカイトを抱く腕に力をこめた。
「甘えたくなったなら――俺に甘やかされたくなったなら、な。呼べ。必ず応える」
真摯な誓いを吐きこぼしたがくぽに、微妙な強張りを残していたカイトの体から力が抜けた。甘えるねこの態で肩口に頭を擦りつかせ、絡めていた指を解き、がくぽの胸に縋る。
「だんなさま………もっと、ぎゅうっと……」
未だ不慣れな感はある。薄氷の上を歩むに似た。
とはいえ、自分の身に馴染ませようと呼ぶカイトの様子からは、このやり方が気に入ったのだということもわかる。
「応、いくらでもな。ただしそなたが潰れぬ程度に」
「潰れません……潰れないですから」
「よしよし………」
これで夫婦の危機のひとつが回避できる。否、できた。
内心、爆発するように快哉を叫びつつも、がくぽは表面上はあくまでも穏やかに、余裕綽々とばかりに奥さんを抱きしめ、くちびるを降らせた。